2013年03月13日
今日、お昼休みにこんな話をしました。
『上尾事件』
40年ほど前の今日、上尾駅で起きた事件だったそうです。
ちょっとしらべてみました。
以下コピペ
昭和48年3月13日火曜日の早朝、国鉄(現在のJR)高崎線上尾駅では普段よりも多い約3000人の通勤客でごった返し、東京方面へ向かう上り普通電車を待ちわびていた。
以前より人身事故や車両故障で電車が遅れることが恒常化し、車内は常にすし詰め状態。それに加え、ここ数日は順法闘争による影響で時刻表通りに来た例はなく、混雑を見越して普段より1時間も早く駅に来る乗客が多かった。
そして午前7時20分、定刻より20分遅れで籠原発上野行きの上り普通電車が1番線ホームに滑り込んできた。
しかしこの電車はすでに途中の各駅から乗り込んでいた乗客で超満員。そこに上尾駅で待っていた乗客もなだれ込み、ドアが閉まらず、発車できない状態に。
その頃、改札口ではあまりの混雑振りにホームへの入場を制限したが、駅員の静止を振り切ってホームに向かう乗客が続出し、電車に乗りきれない乗客で溢れていた。
続いて2番線に後続の前橋発上野行きの上り普通電車が到着したがこちらも満員状態。両列車ともなかなか出発しなかった。
すし詰めの車内で出発を待つ乗客と乗り切れずホームで待つ乗客のイライラが募る中、「両列車とも(途中の)大宮止まりにする」との駅員の構内放送で遂にサラリーマン達の怒りが頂点に達した。
まずホームにいた乗客が運転席に押しかけ、運転手に詰め寄った。
そして突然、数人が線路に飛び降り、運転席の窓ガラスに投石を開始。砕け散るガラスの音を聞いた乗客達の理性は一気に弾け飛び、車内にいた乗客も加わって、ヘッドライトや車内のイスを壊し始め、新聞紙に火をつけるなどして暴徒化した。
あまりの乗客の怒りぶりに身の危険を感じた運転手はスキをみて運転席のドアを開け脱出、一時姿をくらました。この異常事態を見た他の運転手や車掌、駅員も駅から逃げ出し、近所の民家へ逃げ込んだ。
そして乗客の一部は駅事務室へなだれ込み、残っていた駅長や駅員に対して、「駅長は何をしている」「ふざけるな、いい加減にしろ」と詰め寄り、部屋にあったロッカーを手当たり次第に倒し、消火器をぶちまけ、書類を室内に放り投げるなどして暴れ回った。そのため、駅長は頭や顔を蹴られて、全治5日間のけがを負い、騒ぎの後、近くの病院へ収容された。
これでも怒りの収まらない乗客たちは「駅員を見つけたらぶっ殺す」と叫び、切符自動販売機や信号機などを壊し、現金20万円を奪うなどした。ちょうど上尾駅の300メートル手前でストップしていた上野発新潟行き下り特急「とき2号」に対しても投石を行い、運転席の窓ガラスを割るなどをした。
この時、あるサラリーマンは「悪いのは俺達じゃない。ノロノロ運転を続ける国鉄と組合の責任だ」とマスコミに語っていた。
この時点で駅には駅員は誰もおらず、乗客達が占拠する事態となり、午前10時頃には上尾駅だけでホームと車内にいた乗客を合わせて10,000人に膨れ上がっていた。
この事態に埼玉県警は機動隊員を含め、550人を出動させたがあまりの乗客の多さと怒りに手が付けられず、ホームや駅長室を占拠している乗客との睨み合いが続いた。
一方、動かない電車を諦めた乗客達は、約8キロ離れた大宮駅へ向かって線路上を歩き始めた。その途中の宮原駅では乗客が駅の助役の腕をつかみ、大宮駅までの約4キロの道のりを無理やり歩かせ、大宮駅にたどり着くとホームに停車していた列車への投石や助役室を占拠するなどの騒ぎを起こした。
この騒ぎは上尾駅に近い桶川、北本、鴻巣や東北本線(現宇都宮線)の各駅にも波及し、乗客が駅長室に押しかけ、ガラスを割るなどした。
ようやく正午頃には朝から始まったバスによる振替輸送が軌道に乗り、駅に残っていた乗客も2,000人に減少、上尾駅での騒ぎは一応収まった。
高崎線以外でも東北本線や川越線など首都圏の鉄道は大混乱に陥った。高崎線は午後5時半まで10時間20分全線不通になり、運転を再開しても40分~60分に1本しか走らない状態が続いた。
これだけの騒ぎにかかわらず逮捕者は、駅の現金を盗むなどのドサクサ紛れの窃盗で4人、公務執行妨害で1人、駅前での朝日新聞記者への暴行で2人だけであった。
昭和40年代は高度経済成長の真っ只中であり、東京近郊の埼玉、千葉などでは大規模な公団住宅が次々に建設され、ベットタウン化が急速に進んだ。特に高崎線の上尾、桶川、北本、鴻巣では急速な人口流入が続き、上尾市の人口は10年間で約2倍になるという全国1の人口急増地域となっていた。
しかし東京へ通勤をする人々に対する公共交通機関の整備は進まず、朝夕のラッシュ時の乗車率は240%を越えるほどの混雑であった。
車内では揺れる度に苦痛を耐えるうめき声がもれる程の超満員。電車がホームに止まる度に待ちかねた乗客が無理やり乗り込んでくる。それでも乗客からは怒りの声も上らず、毎朝苦痛に耐えて通勤していた。
この混雑に追い討ちをかけるように国鉄と労働組合との労使交渉が紛糾、組合側は職員の合理化反対、事故防止のための鉄道施設の安全確保等を掲げ、ストライキや順法闘争を繰り広げており、通勤ラッシュに一層の拍車をかけていた。
旧国鉄時代、国鉄職員は国家公務員であった。現在でも公務員はストライキ等の争議行為は法律により禁止されており、それを行えば処罰の対象となる。そのため、国鉄の労働組合はこれらの法律に触れることなく、争議行為と同様の効果が得られる順法闘争という戦術を行った。
順法闘争の具体的な方法としては列車の安全運転に関する規程を厳格に守り、些細な事で列車を徐行運転や停車させて列車全体の運行を遅らせたり、残業を拒否して定時間内だけ働いたり、組合員全員で同時に有給休暇を取るなどの実力行使を行っていた。
上尾事件が発生するきっかけとなった順法闘争はこの年で5回目。4回目までは2~3日間だったのが今回は3月5日から始まった第一次だけで6日間、第二次が始まり事件当日で2日目であった。
その上、毎日のようにラッシュ時にホームに入ってきた列車に乗客が接触して大けがを負う事故や列車のモーターから煙が出るなどの車両故障が頻発し、列車の遅れや運休は日常茶飯事であった。これに順法闘争が加わり、運行ダイヤはなきに等しい状態であった。
この混乱の中にも上尾事件の前兆がいくつかあった。事件3日前の10日の朝、同じく高崎線で高崎発上野行き普通列車が終点の上野駅の直前でストップ。そのまま動かない状態が1時間も続き、しびれを切らした乗客約300人が非常用コックでドアを開け、約30メートル離れた京浜東北線・山手線鶯谷駅へむかって線路を渡って歩き始めるという事件が発生。
事件前日の12日には帰宅ラッシュ時の上野駅や大宮駅でなかなか電車が来ないことに憤慨した乗客が駅案内所や事務所に雪崩れ込むなどの騒ぎが起きていた。
これだけ乗客の不満が高まっているにもかかわらず、労使交渉はまったく進展せず、順法闘争は続いていた。
そして13日、上尾事件が発生した。
この事件に驚いた国鉄の労使双方は初のトップ会談を開いた。交渉自体は平行線をたどったが組合側が15日まで順法戦術のダウンを決定。翌日には一部を除いて、ほぼ正常ダイヤに戻った。
その後も労使交渉は続いたがまったく進展せず、事件から4日後の17日からはストライキの突入した。
その日、警察は第二の上尾事件の発生を恐れ、主要な駅や上尾駅で厳戒体制を敷いたが混乱はほとんどなかった。
上尾駅前ではスト中の駅を横目に大宮方面に向かうバスをひたすら待つ人々の姿しかなく、暴動を引き起こしたエネルギーは全く感じられなかったという。
Posted at 2013/03/13 20:41:47 | |
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