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大スカのブログ一覧

2016年12月04日 イイね!

父が永眠しました。

忘れない様にメモ書きしておこう。

2016年11月29日17:20 父が永眠した。 77歳7ヶ月であった。

経緯

9/29

ここ一週間体調が悪いとの連絡を受け仕事帰りに実家に行く事にした。
19:30帰宅途中一本の電話。
姉から父が倒れたとの一報、なんで救急車呼ばずに私に!?
「今からすぐ行くから待ってて」と。10分!
実家につくと右半身不随のまま和室に寝かされていた。
直ぐにパジェロで三○救急病院へ!
この時、担いだ父が本当に軽かった・・・。30年振りに担いだのかな!?
病院に着いて右半身不随と言うと2名の看護師さんが「えらいこっちゃ」と
直ぐに診察室へ連れて行ってくれました。
26日に精密検査を別の病院で受けていたらしく、当直の医師が連絡を取ってくれたけど何やらおかしい・・・。
直ぐに救急車で緑○○病院へ移送、父がいない場所で姉と私に肺癌のステージ4と告げられた。



MRIの写真を見ながら、肝臓と脳への転移も見られた。脳は3ケ腫瘍があり腫れた為に右半身の麻痺が・・・。
当然の事ながら即入院となった。 この日、青森へ旅行中の母を呼び戻した。

9/30

私は会社を休み、父の入院手続きと姉が用意してくれた着替えを持って行く。
父は意識がハッキリしているが右半身不随のまま起きようとする。力が入らない為倒れるを繰り返し、しまいにはベットから転落・・・。
ベットに柵をつけ結びつける。
父は楽観的に5月の健診でなにも無かったから、大丈夫と言い張る・・・。
この日から脳の炎症を抑える点滴を開始。食欲は十分あり食事は完食!

10/2

徐々にではあるが炎症が抑えられ、右半身が動く様になってきた。
お箸を持って自力でご飯を食べれる様になった。
父は依然こう言う「家に帰って犬の散歩をする」って!

10/8

炎症が少し引いてリハビリを開始。
父のわがままで病室を移る。
見た目は元気だ!

10/9

テレビを調達し病院へ持ち込む。
父は楽しそうにテレビ番組を見ていた。ただバラエティはしょうもないと・・・。

10/11

会社を休み主治医と治療方針を決める。
ここには脳外科がないので放射線治療のできる大学病院へのお移転を進められた。
ただ、ステージ4の末期肺癌なので余命半年を先刻された!
この様な先刻は覚悟していたが、言い表わせない様な思いが込みあげてきた・・・。

10/14

半休をとり主治医と面談、移転先が医大に決まり20日に移動となった。
だが移転する際には父に告知する必要がある為、家族と父が面談室へ呼ばれる。
頭の腫瘍の話は父にしていたが肺癌は隠したままだった・・・。
主治医がやんわりと話し始めた・・・。
父は意外と受け止めれている?楽観的なのか?3年は病気と格闘すると!
主治医は家族にアイコンタクトで全部話すと・・・。
父は「まいったなぁ~」と意外に冷静であった。良かった。
手術が嫌いな父は、放射線だけなら何ぼでもやる!と頼もしかった。
このとき、主治医の話し方が凄く上手と感心してしまった。

10/20

会社を休んだが昼まで仕事をしてから病院へ行き、医大へ移転。
移動の最中、父は「ラーメンが食べたい」と・・・。食べさせてあげたかったけど時間がないので無理だったが・・・。
病院へついて車イスに父を乗せてから、ロビーで待っててと言ったのに車を止めて戻ってくると、おらんがな!?
探し回って案内所できくともう病室へ行ったとか!?
手続きを済ませ落ち着いたらお昼ご飯の時間、直ぐに準備されるのかと聞くとご飯が食べれるとの事。ここでミラクルが!ラーメンが出てきた!父も喜んで完食!

10/24

私の誕生日!
父はご飯が美味しいと食事係の方へ手紙を書く。
食事係の方が飛んできて、お礼を言ってくれたそうな。

10/25

脳への放射線治療で始めたが少しづつ体調に変化が・・・。
まだ、この時リハビリもして犬の散歩の事ばかり気にしていた。

11/5

放射線治療の副作用のせいか体調がすぐれず、食欲が全くない・・・。
食事係の方も心配して何でも作るのでリクエストしてと言ってくれていた。優しい。
栄養がとれないので点滴を大量に投与。

11/6

この日は2ヶ月以上前から決めていた家族全員で食事会の予定だったが、残念ながら父は欠席・・・。一緒に食べたかったなぁ・・・。
父は体力がだんだん落ち寝たまま起き上がれなくなる。
現段階では肺の癌に対しては抗癌剤の治療が耐えられないので行っていない。

11/13

お見舞いには行ったが凄くしんどそうで、見ていられない・・・涙がでてくる・・・。
ご飯は全く口にしていない。

11/15

主治医に家族全員が呼ばれたので、半休で病院へ・・・。
父抜きで別室へ行き、現段階の病状と検査結果を聞いたが腺癌(肺癌)の進行が予想より遥かに早く治療のしようがないと・・・。 
手が付けれないので、他の病院への移転を進められた・・・。大学病院なので置いてくれないのか・・・。
最後に余命1~2ヶ月を言い渡された・・・。涙が溢れ出てきた・・・。
入院後48日、私はまだこの現状を受け止められずにいる。

11/20

八北ヒルクライムの後、全開でGTR飛ばして帰ってきたが面会時間間に合わず会えなかった・・・。
この日から酸素吸入が始まる。

11/23

名阪スポーツランドの帰りに病院へ。
依然しんどそうで、意識はあるが声が聴きとれなくなってきた。
ふと父の携帯を見ると3件の着信が!元部下の○本さんへ電話をかけていたが病院が何処か聞き取れたがどうか? 私が電話すれば良かった・・・。
これが父の掛ける最後の電話となった・・・。

11/28

仕事帰りに病院へ、姉と5分の差で会えず。
父はしゃべる声もかすれて、殆ど聞き取れなかったけど12/10に予定していた大学の講義には行けないので、元部下の方2名と3人で行ってきてと・・・。
あとは何を言いかけていたのか?明日の14:00に・・・・・・・・・。?
暫く喋って喉が渇いたと言うので、ストローでお茶あげたが吸う力もなく、スポイト状態でお口を潤してあげた。
この日が、父との最後の会話となった・・・。

11/29

朝、6:15母の電話で目が覚める。「病院から父危篤」と入電。
支度を急いで行い病院へ。
着くと父は個室へ移されていた・・・。容体は悪く肩で息をしている感じ。



酸素吸入の流量はフロート読みでMAXへ。
この時、父の体へは幾つものホースと配線が接続されていた。
看護師さんからは早朝に心拍が乱れてきたので、呼びましたとの事。
主治医からは痛そうにしてるので鎮静剤を進められた。
8:20鎮静剤を投与して間もなく眠りにつき、波形が安定してきた。
看護師さんが2人で体を拭いてくれた。看護師さんて凄い職業だ!
11:45お昼ご飯を祥來さんへ!ランチと小籠包を食べた!

父にも食べさせてやりたかったなぁ・・・。


昼からも安定しているので、もつのかな?と思っていたら主治医が来られて今日明日の話ですと・・・。
犬の散歩がある為、姉は一旦実家へ。私と母2人で見守る。
夕方16:20看護師さんが来て父の状態確認。問題無しと出て行く。
16:30心電図を父の手を握りながら心電図の脈を見てたら、波形が乱れてきた。
だんだん脈が落ちてきて間隔が広くなっていく・・・。
16:35心電図の脈が-----------------------------------------。
無駄なのを知りながら心臓マッサージ。脈が振れた様に見えたが・・・。
直ぐに姉を呼び戻した。主治医は姉が帰ってくるのを待ってくれた。
17:20主治医による死亡診断を受け、父は永眠に入った。

最後に父が見た景色。


最後は眠る様に逝ったが、あっと言う間の出来事であった。涙が止まらない・・・。
会社に連絡した後、葬儀屋さんへ連絡し19:00に迎えに来て貰い、主治医や看護師さん8名に見送られ病院を後にした。
20:00父は2ヶ月振りに家に帰ってきた。犬も異変に気付いたのか何時もと様子が違う・・・。
葬儀屋さんと打合せを行う中で、うちは曹洞宗の為そちらのお坊さんに御願いしないといけないが、高槻には4軒しかお寺が無く他の宗派になるかもと言われたが何とか都合をつけて頂き、1日がお通夜2日がお葬式と決まった、この日は呑みながら父の横で就寝。

11/30

朝から聞きつけた親類が遠方から何人も来てくれた。
私は遺影と葬儀の時に使う写真20枚ほどを探すため、自宅に帰り1万枚以上の膨大な量の写真を選別。

懐かしい写真が沢山出てきた。愛猫のリーにももうすぐ逢いにいけるね。


この日も呑みながら父の横で就寝。
姉が酔っぱらって父の顔にいたずらを。(笑)

12/1

朝から父の会社の方や親類が訪問。
14:30葬儀屋さんへ納棺。
近くの典礼会館だったんですが、凄い人数になる事が予想されたので家族葬にしたがホールが広すぎて、とても家族装に見えない!?
質素にするつもりが花輪やお供え物を沢山頂き、凄く綺麗だった。
16:00式場の方が湯灌をしに来てくれた。
式場の控室にバスタブを入れ目の前でお風呂に入れてくれるのですが、全身あらってもらい、髪の毛を整え、爪切り、マッサージ、髭剃り、お化粧とまるで生きてる人にするような事を。
まさに映画「おくりびと」だった。
顔を担当していた若い子が、本当にエステティシャン見たいな手つきで凄かったなぁ。
聞いたらホントにエステティシャンを目指していたとの事。
19:00のお通夜では家族葬なので20名程。
数年ぶりに会えた親戚の方も数名いて、昔の話が沢山できました。父が逢わせてくれたんやな。

12/2

10:30お葬式開始。
連絡していなかった父の会社関係の方も数名来てくれていた。親類含め30名ぐらいかな。
本当に沢山の弔電を頂きました。ありがとうございます。
式場の方が写真を元に作成してくれたDVDを見たら、もうダメ・・・。涙が・・・。
母が喪主のあいさつをしないと言うので私がかわりに。
11:30火葬場へ。最後のお別れを。
2時間焼いてからお骨上げを。骨はバラバラにならず、色が真っ白で凄く綺麗。健康な人を焼いた感じ。

火葬場からはもうすぐ完成する高槻インターが良く見えた。


式場へ戻ってきてからお坊さんの話を聞いたけど、こんな事言ってたな「本当に怖いのは体が亡くなる事では無く、故人の記憶が人々から無くなる方が怖いんです」と。凄く深い事を言ってた。
父が倒れてからの2ヶ月間、なんかあっと言う間であった。

父の事

父は尾鷲の小さな漁村に末っ子として生まれ高校卒業と当時に大阪の大学へ、大学でワンダーホーゲル部を作ったり、安保闘争では(1960~1970年)、常に先頭に立ち旗振りをしていたが、結婚を期に学生運動を卒業、33歳の時に私が誕生。
誕生を期に就職したが初めはファーストフード店で勤務し主任になり店長になりで、たった16年で登り詰める。
この時、父は仕事しか頭になく単身赴任や国内外の出張で飛び回っていた為、学校の行事にはまったく来てもらったことは無かった。働く事で一家を支えてくれていたんだ。
高度成長期のこの時代、働く上で海外からも新しい事を取り入れ、いくつかの日本初は、今や色んな企業で当たり前となっている事例がある。
流石に4社任されると気苦労が多く胃潰瘍で入退院を繰り返したが、引退後は某ドラックストアの顧問として働いていた時は良く食べて良く寝て元気そのものだった。
父が65歳を過ぎた頃から親孝行を意識し出して、一緒に映画を見たり釣りに行ったり、ここ数年では大学の講義も受けていた。
75歳まで働きこれから大好きな釣りや家庭菜園をして第2の人生を歩む予定だったが、今回の事で、それが出来なくなってしまった。
77年と言う生涯でしたが沢山の人に慕われ支えられ尊敬できる父だった。30年前の長野県御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機123便の事故ではチケットを持ち羽田に行ったが、前の便に空席ができた為、振り替えて搭乗、難を逃れて生かされた30年、一生懸命働いて家族や社会に貢献してくれた。
本当に本当に今までありがとう。
Posted at 2016/12/04 18:16:13 | コメント(9) | トラックバック(0) | 家族の事 | 日記

プロフィール

車関係の仕事ではありませんが、年間5回ぐらい、ジムカーナ走行会の主催をやっております!場所は主に名阪スポーツランドです!皆さんも是非参加して下さい! 次回...
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