![神流川の戦い 其の参 武蔵前編 [金窪城、大光寺(勅使河原氏館)] 神流川の戦い 其の参 武蔵前編 [金窪城、大光寺(勅使河原氏館)]](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/017/551/597/17551597/p1m.jpg?ct=7772f440d6d2)
続いて武蔵(埼玉県)の史跡紹介。
地元のネタなので気合い入れて行きますよ〜。
金窪城
築城については、治承年間(1177〜51)に加持家季が築き、元弘年間(1331〜34)に新田義貞が修築し、家臣の畑時能が居城したと伝わる。
戦国時代には、斎藤実盛の子孫である斉藤定盛の居城となり、天正10年(1582)の神流川の戦いでは、北条軍の最前線となったが、滝川一益に攻められ落城し、斉藤一族は衰退した。
徳川家康の関東入封後は、川窪信俊が陣屋を置いたが、元禄11年(1698)に武田氏(川窪氏から改姓)が丹波に移封するにあたって、陣屋も廃された。
記念碑

残念ながら、遺構は殆ど残っておらず、土塁の一部分が残るのみで、城の範囲もよく分からないみたいです。
でも何故か、記念碑の近くには案内板が二つもある。
土塁

其の確認出来る土塁は、記念碑のすぐ裏(東)の民家にあります。
礫を盛られて作られており、以前は南北にもっと長く作られていたそうですが、削平されてしまったそうです。
金窪城址公園

こんな感じで公園になってますが、南側の土塁がある宅地や記念碑のある辺りの方が一段高くなっており、川岸段丘に構築された云うのが分かります。
忍保川

公園のすぐ北には、忍保川が流れてますが、天然の堀の役割をしていた可能性が高いです。
其の壱で書いた様に、当時の烏川は現在よりも南を流れており、烏川が北東の要害だった可能性がある様があるので、調べて行くうちに当初のイメージよりも高い防御能力があった様な気がして来ました。
神流川の合戦の時は、暑くて川が干上がっていたとも云われているので、そう考えると一日で落城したのも分かる様な。
大光寺(勅使河原氏館跡)
建保3年(1215)に武蔵七党の一つである丹党の、勅使河原有直が創建し、勧請開山は栄西。
天正10年(1582)の神流川の戦いで、総門を残して全て消失し、其の時残った総門には、当時の弾跡が残っている。
なお、勅使河原氏の居館跡に、此の寺院は建てられたと云う。
旧総門

鎌倉時代に作られた旧総門。
神流川の戦いで、上里町内の多くの寺院が焼失してしまったそうで、大光寺も此の総門を残して全焼。
更には明治時代に、すぐ北を通るJR高崎線の灰塵でまたもや全焼。哀れ。
弾跡

旧総門には、神流川の戦いで出来た弾跡が残ってます。
戦国時代の戦の生々しさが此の目で見られ、感動です。
鉄砲の弾跡だとすると、装備の違いから考えて滝川軍のものかな?
見透灯籠

此れは、江戸時代の神流川の灯台の役目をした見透灯籠。
武蔵と上野の両方にあり、此れは武蔵のもの。
勅使河原氏館跡土塁?

此の大光寺は、勅使河原氏の館跡と云われており、土塁らしき物があるそうですが、墓地の裏の竹薮にある此の事だと思います。
併し、他のサイトで当時の物ではないと指摘されたとそうで、現地にも案内板が無い事から違うのでしょう。
因みに此の辺りは勝場と云い、北条軍が勝鬨を上げたのが由来だそうですが、勅使河原氏館は別名勝場館とも云われており、大光寺が創建された年代を考えると疑問があります。
参考文献:日本城郭大系5、上里町史 通史編 上巻
本日は此れ切り。
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Posted at
2010/04/04 22:04:57