
次に向かった寺尾中城は、現在観音山ファミリーパークと云う公園の一角に組み込まれてます。
観音山ファミリーパークは、幼児でも遊べる憩いのエリアと、ハイキングコースになっている癒しのエリアに分かれていて、寺尾中城は、癒しのエリア内にあります。
憩いのエリアは、子供が楽しめそうなので、今度娘と一緒に行ってみようかなあ。
寺尾中城
治承4年(1140)に新田義重が平家討伐の為に兵を集めたのが、此の寺尾城と云われる。
下って、南北朝時代の応永4年(1397)に尹良親王が、此処で北朝に対抗したと云う。
い 堀切其の壱

ハイキングコースに沿って進むと、すぐに案内板が立っていて、此処が搦手になります。
土居を挟んだ二重堀切になっていて、本郭に近い堀切は、竪堀になって谷へ落ちています。
一瞬、ハイキングコースの為に削られたのかと思ったんですが、背後の竪堀で遺構だと分かりました。
ろ 本郭

寺尾中城は、南北朝時代の築城のままなので、戦国時代の其れと比べると、各所に甘さがあります。
逆に言うと、少数で籠城する為に造られた縄張りなんでしょうね。
は 堀切其の弐

本郭と二の郭の間の堀切。
に 二の郭

二の郭は、二段になってますが、削平が甘く自然造形其のままって感じです。
此処で写真を撮ろうとしていたら、足下でカサカサと音がしたので、見たら蛇が居ました(^▽^;)
ハチ、マムシに注意の看板があったので、皆さん気をつけましょうね。
でも、僕は此の後、二の郭の薮へ突入して行きました。
ほ 堀切其の三

二の郭と三の郭の間に、小さな郭があり、両端が堀切で切られてます。
へ 土橋

三の郭と四の郭の間には土橋が。
両端が削られ、細〜くなってます。
結構怖い。
と 四の郭

今回、高崎市史の縄張り図を用意して行ったんですが、どうも案内板と違う…
高崎市史では、三の郭の北の物見郭で終わってるんですが、案内板は五の郭まであり、位置から考えて物見郭が四の郭の様です。
ち 五の郭

写真では撮らなかったんですが、四の郭と五の郭の間は、急なアップダウンがあり、結構きついです。
特に帰り道が大変だったので、大手から攻め上るのは至難でしょうね。
参考文献:日本城郭大系4、高崎市史 資料編3
本日は此れ切り。
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Posted at
2010/05/08 23:59:05