
一日目のメインは要害山城で、二日目のメインは、武田勝頼が築いた新府城。
武田の城と云うと、甲府の躑躅ヶ崎館が有名なので、歴史好きでも新府城の事を知ってる人は、少ないんじゃないでしょうかね。
と云うのも此の城、突貫工事で築城が進められ、未完成にも関わらず、勝頼は此の城に拠点を移してます。
併し、其れもつかの間、織田信長に攻められて、自ら城を焼いてしまったので、たった2ヶ月しか新府城に居なかったんですね。
何とももったいない。
其れでも、新府城は武田最後の城として、武田流築城術がぎっしりと詰まった城なのです。
新府城
天正9年(1581)武田勝頼が、普請奉行に真田昌幸を任じ、躑躅ヶ崎館に変わる武田氏の本拠として築かれた。
併し、未完成のままの本拠移動だったと云う。
翌天正10年(1582)に織田・徳川の連合軍に攻められると、勝頼は自ら城を焼きいて退き、其の八日後、天目山にて武田家は滅亡した。
武田氏の本拠として活躍したのは、僅か2ヶ月の間だった。
其の後は、徳川・北条の天正壬午の戦いにおいて、徳川軍の陣城に使われた。
い 東出構

県道脇の駐車場に車を停めると、すぐに外堀があり、出構がありました。
出構と云うのは、初めて見ましたが、城内の曲輪よりも低い位置にあり、東と西に二カ所あります。
ろ 水堀

城の北側にある水堀は、東・中・西堀の三カ所に分かれ、東と西堀を発掘調査した結果、幅6〜7mの逆台形状の箱堀だと確認されたそうです。
更に写真の様な折れのある箇所も、幾つかありました。
水堀の北は湿地帯だったそうで、大手に比べて搦手の堅固さが印象に残りましたね。
は 搦手枡形虎口

大手と搦手はともに枡形虎口が設けられ、内側よりも外側が狭い変則的な形をしてるのが特徴。
現在は残ってませんが、字名に三日月と云う地名があり、搦手にも三日月堀があったと想像されます。
に 土橋

枡形虎口を過ぎると、土橋によって進行が遮られる形になります。
新府城の西は、七里ヶ岩と呼ばれる天然の急崖で100mの段差があり、此処から攻めるのはまず無理。
ほ 帯曲輪

城の北から東へぐるっと帯曲輪に囲まれ、外側には土塁が。
新府城は戦国末期にも関わらず、石垣がありません。
此れは突貫工事によって造られたと云うのもありますが、ローム層による固い地盤の為、必要が無かったと考えられている様です。
へ 藤武神社

帯曲輪を東に行くと、下から石段が登っていて、いきなり本丸を攻略出来ます(笑)
勿論此れは、後世に藤武神社が造られた時のモノです。
神社より一段低いのが、稲荷曲輪と呼ばれる腰曲輪。
と 本丸

本丸は、なかなかの広さを持ちますが、削平が甘く結構でこぼこ。
此の辺りが、未完成の城と云える所なんでしょうね。
周囲は土塁に囲まれてますが、隅の部分は廃城後に削り落とされてしまっているそうです。
ち 石祠・武田勝頼公霊社

本丸の北側には、江戸時代に武田勝頼を祀る武田勝頼公霊社があります。
周囲には、武田滅亡時の家臣達の名前が書かれた碑も。
南側は後編にて。
参考文献:日本城郭体系8、戦国武田の城、ドキュメント戦国の城
本日は此れ切り。
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甲州新旧武田の城 | 旅行/地域
Posted at
2012/05/26 23:26:23