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りょうさいのブログ一覧

2010年03月06日 イイね!

佐野氏城郭巡り 其の六 椿田城、免鳥城

佐野氏城郭巡り 其の六 椿田城、免鳥城佐野氏城郭巡りは今回で最後ですが…あんまり面白くないです(^▽^;)




椿田城
丹波出身の福地氏が佐野氏に使え、永禄3年(1560)に唐沢山城の支城として川越、忍、館林の押さえとして築いたと云う。
佐野氏改易と共に廃城となり、城跡には城主福地氏が代々名主として現在も住んでいる。


い 水堀 其の壱

椿田城の遺構は、現在内堀の水堀がわずかに残っているだけです。
東側はU字溝になっています。

ろ 椿田十一面観音福地堂

福地家に代々伝わる黄金作りの十一面観音が祀られています。
此の十一面観音のおかげで、兜に矢や鉄砲があたっても、無事でいられたそうで、福地家の守護神になっているそうです。

は 水堀 其の弐

西側の水堀、何となく城址の面影が。
写真奥に茅葺きの民家が建っていて、此れが凄く立派で、城址よりもそちらの方が印象に残ってます。
普通の家にしては、立派すぎるので「もしかして城主の子孫のうちでは?」と思い、表札を調べてみると(此のお宅のでは無く、内堀内に3,4軒建ってる他の家)案の定そうでした。
あの家が本家で、他が分家なんだろうなあと思いつつ、案内板をよく読むと「福地氏が名主郷士として住んで来た」とあった…始めから読んでおけよ。

免鳥城
大永5年(1525)免鳥山城守義昌が築城したと伝えられ、佐野氏の足利方面の支城の役割をした。
天正5年(1577)に足利長尾顕長に攻め落とされ、すぐに佐野宗綱は奪い返すが、同9年(1581)に再び長尾顕長に攻め落とされている。
北条氏から佐野氏忠が養子に入った際に佐野氏に返還されたと考えられるが、佐野氏改易と共に廃城となった。

に 水堀

免鳥城の水堀もU字溝がはめられており、かろうじて城址の遺構が残るだけです。

ほ 本丸井戸跡?

案内板の類いは全く無く、日本城郭大系によると「遺構としては本丸跡と呼ばれる場所があり、周囲よりやや高くなっており、そこに井戸跡がある」そうですが、要図から判断して、井戸跡は多分此の竹薮じゃないかと。
併し、井戸跡らしき物は見当たらず。うーむ。

参考文献:日本城郭大系4、現地案内板

本日は此れ切り。
Posted at 2010/03/06 23:13:30 | コメント(1) | トラックバック(0) | 佐野氏城郭巡り | 旅行/地域
2010年03月04日 イイね!

佐野氏城郭巡り 其の伍 赤見城、阿曽沼城

佐野氏城郭巡り 其の伍 赤見城、阿曽沼城唐沢山城から始まって、段々とマイナーな城郭を紹介して行きます(^▽^;)

赤見城
安元元年(1175)に藤原足利氏の足利俊綱によって築かれた。
後に関東公方の配下に置かれ、戸賀崎氏、赤見氏等が城主となるが、永禄2年(1559)赤見伊賀守は、佐野氏に攻められ常陸へ走った。
以後、佐野氏の支城として足利方面の押さえとなったが、佐野氏の改易と共に廃城となった。


い 土塁 其の壱

現在、赤見城は本丸と其れを取り囲む土塁と水堀しか残ってませんが、なかなか見応えがある物です。
本丸には赤見城保育園(其のまんまの名前じゃないか)があり、土塁と水堀が今も園児達を守ってくれてます(一寸違うか?)

ろ 土塁 其の弐

土塁の高さは4m位。
西側は、水堀を挟んで二重の土塁に囲まれてますが、南東部は破壊されています。

は 水堀 其の壱

水堀から二重の土塁を見た図、なかなか良い趣だ。
そう云えば、唐沢山城の発掘現場見学会で小学校低学年くらいの男の子が、母親と「赤見城は堀がのこってるんだよね」って話をしていた。
良い家族である。

に 水堀 其の弐

北側の水堀。
ご時世柄「保育園の近くに水堀なんかあったら危ない!」なんてギャアギャア騒ぐ親がいそうな気がするなあ。

ほ 水堀 其の参

外側の水堀は、U字溝が埋められてますが、当時の面影を残してます。


阿曽沼城
寿永元年(1182)に佐野氏の一族阿曽沼四郎広綱が築いたと伝わる。
代々阿曽沼氏が居城としたが、南北朝時代にに阿曽沼氏は没落した様である。

浅沼八幡宮

城跡は現在、浅沼八幡宮が建ってます。

土塁と堀

城跡は開発の為、浅沼八幡宮の東の土塁と堀がわずかに残るのみ。
堀に入ろうとしたら、立ち入り禁止の看板があったので断念。
分かり辛いですが、堀の東(画面奥)に土塁があります。

参考文献:日本城郭大系4、現地案内板

本日は此れ切り。
Posted at 2010/03/04 23:19:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | 佐野氏城郭巡り | 旅行/地域
2010年03月03日 イイね!

佐野氏城郭巡り 其の四 佐野城

佐野氏城郭巡り 其の四 佐野城メインディッシュの唐沢山城の次は、佐野市内にある佐野氏関係の城郭巡りです。




佐野城(春日岡城)
慶長7年(1602)に佐野信吉が築城を始め、徳川家康からの命令で唐沢山城から未完のまま移住して来た。
佐野氏3万9千石の居城として町割りを行ったが、慶長19年(1614)信吉は大久保長安の事件に連座して信濃松本に預けられ、所領は没収となった。
其れに伴い、佐野城は廃城となった。

い 三の丸

佐野城は、佐野駅のすぐ北にあり、現在は城山公園になってます。
此の日は、土曜日と云う事もあって家族連れで賑わってました。

ろ 二の丸

二の丸には、万葉の里城山記念館が建ってます。
博物館かと思ったら、多目的ホールの様なので中には入らず。

は 堀切 其の壱

二の丸と本丸の間の堀切。
佐野城は、南北に曲輪が並ぶ連郭式で、夫々の曲輪は堀切に切られてます。
此処が一番大規模の堀切。

に 本丸

佐野城が築城される前は、此処に惣宗寺(佐野厄除大師)があり、築城にあたって現在の場所へ移りました。
佐野信吉は築城を始めて3年で、唐沢山城から移って来たとの事ですが、惣宗寺の縄張りをある程度活かした作りだったのかも知れませんね。

ほ 石垣跡

発掘調査で此の辺りに石垣が発見されたのですが、埋められてしまい、今は其の上に其の時の石垣が置かれているのみ。
他にも本丸に石畳、建物跡、井戸、枡形虎口、二の丸に石組溝、三の丸に井戸が発見されたのですが、悉く埋められてしまってます。
何とか残せる方法はなかったんだろうか…

へ 堀切 其の弐

本丸と北出丸の間の堀切で、堀切は全て内堀に繋がっていた様です。
現在、内堀、外堀は残ってませんが、市街地のど真ん中と云う事を考えると、主郭部はよく残っている方だと思います。

と 北出丸

現在テラスが建てられている場所に、発掘調査で柱穴と大量の瓦が発見された事から、隅櫓(見張り台)があった可能性が高い様です。
また西の階段付近は、複雑な地形から搦手と考えられ、北出丸は軍事上重要な曲輪だった様です。

参考文献:日本城郭大系4、現地案内板

本日は此れ切り。
Posted at 2010/03/03 23:05:39 | コメント(2) | トラックバック(0) | 佐野氏城郭巡り | 旅行/地域
2010年03月01日 イイね!

佐野氏城郭巡り 其の参 唐沢山城 後編

佐野氏城郭巡り 其の参 唐沢山城 後編さて、唐沢山城後編は、現在唐澤山神社が建つ本丸を中心に紹介します。








り 三の丸

御使者の間とも呼ばれ、昔は応接間があり、外客を此処でもてなしたそうです。

ぬ 二の丸

今は神楽殿が建ってますが、昔は奥御殿直番の詰所があった所です。
後で調べたら、北の武者詰からの虎口が枡形になっているとの事ですが、気付かなかった…不覚。

る 石垣

本丸の高石垣は、佐野房綱が城主の時に作られた物。
房綱は秀吉の後押しで唐沢山城に戻ったので、織豊流城郭技術が活かされており、見事ですね。
手前の平場は、表御殿で日々の政務や指揮采配をとった所です。

を 本丸

本丸には、藤原秀郷を祀った唐澤山神社が建ってます。
其れにしても、良い石垣だなあ。
東海以西には、此の位の石垣の城は彼方此方あるんだろうけど。
 
わ 車井戸

此処の井戸は、茶の湯の時に使用された井戸だそうです。
大炊井と水の味が違うんだろうか…

か 金の丸

当時の金蔵があった所で、現在は金丸ロッジが建ってます。
此処から北東に尾根沿いに小さく郭が並び、夫々が堀切で断たれ、土塁も残ってます。
北側は、車道が作られた為、遺構が破壊されてます。

よ 御姫御殿

昭和に県立唐沢青年の家が建てられましたが、今はもう取り壊されてました。
此処も資料によっては、杉郭、御仏殿とも呼ばれている様です。

た 堀切

北城と御姫御殿の間の堀切。
発掘現場見学会で見た麓の堀切に比べると、本城の堀切はいささか迫力に欠けるかな。

遺構もよく残っていて、整備も行き届いているのでおすすめの城郭です。
次行く時は、麓から歩いて行って、まだ見てない土櫓や尾根沿いにある郭を探してみたいですね。

参考文献:日本城郭大系4、現地配布資料、唐沢山城跡調査Ⅱ

本日は此れ切り。
Posted at 2010/03/01 22:57:18 | コメント(4) | トラックバック(0) | 佐野氏城郭巡り | 旅行/地域
2010年02月28日 イイね!

佐野氏城郭巡り 其の弐 唐沢山城 前編

佐野氏城郭巡り 其の弐 唐沢山城 前編見学会で、遺跡の仕事で何度か一緒に仕事をさせて頂いた方に会い、此の方は午後に群馬県太田市の金山城の発掘現場見学会に行くとの事でした。
此れは知らなかったので、僕も金山城に行ってみたくなりましたが、当初予定していた通り佐野氏の城郭巡りへと繰り出しました。

なので、次は唐沢山城の本城です。
麓から徒歩で登って当時の気分を味わうのも一興ですが、ワインディングを楽しみながら山頂へ。


 枡形

大手の虎口は石垣作りの枡形になってます。
喰い違いがよく分かります。

 天狗岩

物見櫓があった所で、南面に出た岩が天狗の鼻に似ているので此の名がついたとか。
天気がよければ、東京まで見下ろせるそうです。
江戸城が火事になった時に、唐沢山城から様子が見えたのがけしらからんと、廃城になった逸話があるそうですがどうなんでしょ?

は 西城(天徳丸)

佐野房綱(天徳寺了伯)が住んだ所で、今は宮司さんが住んでます。

に 大炊井

築城の時に、厳島大明神に祈願して其の夢の通りに掘って出来た井戸で、深さ9m、直径8mあります。
今まで水がかれた事は無いそうで、此れなら長期の籠城でも大丈夫な気がしてきますね。

ほ 避来矢山

名前の由来は、藤原秀郷が百足を退治した時に龍神から送られた鎧だそうです。
今は、唐澤山神社に功績があった人達を祀る避来矢山霊廟があり、南面に三段の郭があります。

へ 四つ目堀

昔はもっと深かった空堀で、東の帯郭には土塁もあり、防御の要とも云える場所。
現在は、神橋と云う石橋が架かってますが、当時は使わない時は引き上げられる曳橋だったそうです。

と 三つ目堀

三つ目堀は竪堀になってます。
上は桜の馬場で、単に桜が多かったから此の名前になった様です。

ち 物見櫓

南城の下の台地には、物見櫓がありました。
見学会で貰った資料に、唐澤山神社が所有していた史料に基づく地名、施設の推定図が載っており、現在呼ばれている呼称と若干の違いがありました。
因みに其の史料によると此処は、「南城二の郭」で「御そば衆中御休息の間」だそうです。

参考文献:日本城郭大系4、現地配布資料、唐沢山城跡調査Ⅱ

本日は此れ切り。
Posted at 2010/02/28 22:31:10 | コメント(3) | トラックバック(0) | 佐野氏城郭巡り | 旅行/地域

プロフィール

「最近、みん友の皆さんにコメント出来なくてごめんなさいm(_ _)m」
何シテル?   07/21 22:46
車のサイトなのに、車ネタはあんまりありません(^▽^;) 最近は、中世城郭(江戸時代の城は其れほど興味ない)を中心とした史跡巡りのブログがメインになりつつあり...
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