
たった二ヶ月足らずでしたが、武田氏の本拠となった新府城。
躑躅ヶ崎館が築かれた時に周囲に支城が整備されていた様に、新府城も支城が築かれました。
此の能見城防塁は、新府城の北にあたる信州口の守りで、土塁と空堀をまるで万里の長城のように巡らせたモノです。
(規模は全然違いますが)
新府城のある場所は、東は星川・西は七里岩で守られたかまぼこの様な土地で、其の正面に壁を造ろうとしたんですね。
新府城の搦手が厳重な防備をしていた様に、如何に武田勝頼が信濃からの侵攻を警戒していたか分かります。
所々、遺構が残っているとの事なので、雨の中無理をしない程度に見学です。
能見城
築城時期は定かではないが、新府城の外郭として東西に延びた防塁の役割をなした。
能見城は其の中心で、御名方神社等に出先の郭があった。
一説には、天正壬申の乱の際に、徳川家康が築いたとも云う。
い 能見城

能見城防塁を見学するにあたって、穴山駅前の公園にクルマを停めて歩いて廻りました。
穴山の名前が示す様に、此の場所は裏切り者穴山梅雪の本貫の地です。
近くに穴山氏館があるんですが、今回はパス。
駅から県道に出た正面の丘が能見城なんですが、遺構は破壊されて残ってないらしいです。
山頂に城址の標柱があるみたいですが、其れだけの為にわざわざ雨の中行く気にはなれませんでした(^_^;)
ろ 枡形虎口

西側

東側
県道で丁度土塁が喰い違いになっていて、土塁が民家の境界になってますね。
は 中曲輪

緩い斜面を山頂に向けて走る空堀。
奥に入ると、枡形虎口が幾つかあるそうですが、雨なので下から見てるだけ(^_^;)
当時は、三重堀だったらしいです。
に 邪(ひずみ)曲輪

此処は現在墓地と山林で、山林の中に空堀があるらしいですが、行ってません(笑)
ほ 東曲輪(御名方神社)

東曲輪だった御名方神社。
北側に土塁と空堀が残っていて、此処が一番能見城防塁の中では分かりやすいのではないかと。
へ 東砦

御名方神社から堂坂の砦に向かう道が、途中で空堀をぶった切る形になります。
写真だと薮で分かりづらいですが、はっきりと空堀が確認出来ました。
堂坂の砦
天正10年(1582)武田滅亡に引き続き、本能寺の変が起きると、甲斐は徳川家康と北条氏直が支配を巡って争う事となった。
北条軍が若神子に陣を張ったのに対し、徳川軍は新府城に陣を起き、其の際堂坂の砦も築いたと云う。

能見城防塁の東端に位置する堂坂の砦ですが、徳川軍が陣を張る前に武田勝頼が築いたとも考えられています。
逆に言うと、能見城防塁自体を徳川家康が天正壬申の乱の際に、北条軍に対する防備として築いたと云う説もあるそうな。
遺構は、道路沿いの藪の中に空堀があるらしいですが…行ってません(;^ω^)
と 眺め

堂坂の砦からの眺めですが、周りがよく見渡せて、確かに陣城として良い場所だなあ。
甲州新旧武田の城巡りは此処まで。
今回は、本城と支城の関係を知る上で、非常に勉強になりました。
天気のせいで、予定していた城全てを見る事が出来なかったのが残念。
何とか5月中にアップし終わった…(^_^;)
参考文献:日本城郭体系8、山梨県史資料編7、戦国武田の城
参考サイト:
「甲斐武田」を探検!!、
古城を歩く
本日は此れ切り。
Posted at 2012/05/29 23:06:23 | |
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