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りょうさいのブログ一覧

2012年05月29日 イイね!

甲州新旧武田の城 其の拾弐 能見城防塁・堂坂の砦

甲州新旧武田の城 其の拾弐 能見城防塁・堂坂の砦たった二ヶ月足らずでしたが、武田氏の本拠となった新府城。

躑躅ヶ崎館が築かれた時に周囲に支城が整備されていた様に、新府城も支城が築かれました。

此の能見城防塁は、新府城の北にあたる信州口の守りで、土塁と空堀をまるで万里の長城のように巡らせたモノです。
(規模は全然違いますが)

新府城のある場所は、東は星川・西は七里岩で守られたかまぼこの様な土地で、其の正面に壁を造ろうとしたんですね。

新府城の搦手が厳重な防備をしていた様に、如何に武田勝頼が信濃からの侵攻を警戒していたか分かります。

所々、遺構が残っているとの事なので、雨の中無理をしない程度に見学です。

能見城
築城時期は定かではないが、新府城の外郭として東西に延びた防塁の役割をなした。
能見城は其の中心で、御名方神社等に出先の郭があった。
一説には、天正壬申の乱の際に、徳川家康が築いたとも云う。

い 能見城

能見城防塁を見学するにあたって、穴山駅前の公園にクルマを停めて歩いて廻りました。
穴山の名前が示す様に、此の場所は裏切り者穴山梅雪の本貫の地です。
近くに穴山氏館があるんですが、今回はパス。
駅から県道に出た正面の丘が能見城なんですが、遺構は破壊されて残ってないらしいです。
山頂に城址の標柱があるみたいですが、其れだけの為にわざわざ雨の中行く気にはなれませんでした(^_^;)

ろ 枡形虎口

西側


東側

県道で丁度土塁が喰い違いになっていて、土塁が民家の境界になってますね。

は 中曲輪

緩い斜面を山頂に向けて走る空堀。
奥に入ると、枡形虎口が幾つかあるそうですが、雨なので下から見てるだけ(^_^;)
当時は、三重堀だったらしいです。

に 邪(ひずみ)曲輪

此処は現在墓地と山林で、山林の中に空堀があるらしいですが、行ってません(笑)

 東曲輪(御名方神社)

東曲輪だった御名方神社。
北側に土塁と空堀が残っていて、此処が一番能見城防塁の中では分かりやすいのではないかと。

へ 東砦

御名方神社から堂坂の砦に向かう道が、途中で空堀をぶった切る形になります。
写真だと薮で分かりづらいですが、はっきりと空堀が確認出来ました。

堂坂の砦
天正10年(1582)武田滅亡に引き続き、本能寺の変が起きると、甲斐は徳川家康と北条氏直が支配を巡って争う事となった。
北条軍が若神子に陣を張ったのに対し、徳川軍は新府城に陣を起き、其の際堂坂の砦も築いたと云う。


能見城防塁の東端に位置する堂坂の砦ですが、徳川軍が陣を張る前に武田勝頼が築いたとも考えられています。
逆に言うと、能見城防塁自体を徳川家康が天正壬申の乱の際に、北条軍に対する防備として築いたと云う説もあるそうな。
遺構は、道路沿いの藪の中に空堀があるらしいですが…行ってません(;^ω^)

と 眺め

堂坂の砦からの眺めですが、周りがよく見渡せて、確かに陣城として良い場所だなあ。

甲州新旧武田の城巡りは此処まで。
今回は、本城と支城の関係を知る上で、非常に勉強になりました。
天気のせいで、予定していた城全てを見る事が出来なかったのが残念。

何とか5月中にアップし終わった…(^_^;)

参考文献:日本城郭体系8、山梨県史資料編7、戦国武田の城
参考サイト:「甲斐武田」を探検!!古城を歩く

本日は此れ切り。
Posted at 2012/05/29 23:06:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | 甲州新旧武田の城 | 旅行/地域
2012年05月27日 イイね!

甲州新旧武田の城 其の拾壱 新府城後編

甲州新旧武田の城 其の拾壱 新府城後編搦手から見学を始めて、神社の石段を登ってしまった為、あっけなく本丸に到着してしまいました(笑)

なので、今度は大手からの再び本丸を目指して進みます。

朝から雨がやむ事無く降ってましたが、県道沿いと云うアクセスの良さからか、何人かの見学者がいました。

あっ、白山城の様に山ヒルに襲われる事は無かったです(^_^;)

で、大手で一番最初に現れるのは、

り 三日月堀


ぬ 丸馬出し


キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
出ました、武田必殺の三日月堀丸馬出し
馬出しの外側には土塁もあり、 三日月堀は埋まってますが、高低差は結構なモノ。

る 大手枡形虎口

馬出しを越えると、更に枡形虎口が設けられ、近世城郭にも通じる堅固な防備。

を 東三の丸

三の丸は、中央に仕切り土塁(写真左)によって、東西に曲輪が分かれてます。
此の仕切り土塁は、湯村山城にも見られたモノですね。

わ 角馬出し

二の丸の手前にも馬出しがありますが、此れは丸馬出しではなく、変則的な角馬出し。
後世に造られた道のせいで、此の辺りは一寸分かりづらい。

か 二の丸

本丸より一段低い二の丸。
二の丸に限らず、此の辺りの曲輪は、全て土塁によって囲まれ、攻め手の行方を惑わせる造り。

よ 植え込み

本丸と二の丸の間にあるのが、「植え込み」と呼ばれる曲輪(?)らしいですが、何で植え込みなんでしょ?

た 蔀(しとみ)の構え

本丸の虎口には、蔀の構えがあり、両端に土塁を設け、道を狭くしてますが、此れまた後付けの道のせいで分かりづらい(;´д`)トホホ…

実は新府城、訪れるまではあまり期待してませんでした。
と云うのも、武田勝頼が近世大名への脱皮の為に造られたと思っていたので、どちらかと云うと城下町の形成等を含めた経済的拠点と思っていたからです。
ところが、縄張り図を見て実際に歩いてみると、最終防衛拠点として明らかに軍事メインの城。
甲府よりも西へ築城したのも、前線の城へ後詰めがしやすい様にされているみたいだし。

案内板も充実していて、オススメの城址です(^_^)

参考文献:日本城郭体系8、戦国武田の城、ドキュメント戦国の城

本日は此れ切り。
Posted at 2012/05/27 19:35:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | 甲州新旧武田の城 | 旅行/地域
2012年05月26日 イイね!

甲州新旧武田の城 其の拾 新府城前編

甲州新旧武田の城 其の拾 新府城前編一日目のメインは要害山城で、二日目のメインは、武田勝頼が築いた新府城。
武田の城と云うと、甲府の躑躅ヶ崎館が有名なので、歴史好きでも新府城の事を知ってる人は、少ないんじゃないでしょうかね。
と云うのも此の城、突貫工事で築城が進められ、未完成にも関わらず、勝頼は此の城に拠点を移してます。
併し、其れもつかの間、織田信長に攻められて、自ら城を焼いてしまったので、たった2ヶ月しか新府城に居なかったんですね。
何とももったいない。
其れでも、新府城は武田最後の城として、武田流築城術がぎっしりと詰まった城なのです。

新府城
天正9年(1581)武田勝頼が、普請奉行に真田昌幸を任じ、躑躅ヶ崎館に変わる武田氏の本拠として築かれた。
併し、未完成のままの本拠移動だったと云う。
翌天正10年(1582)に織田・徳川の連合軍に攻められると、勝頼は自ら城を焼きいて退き、其の八日後、天目山にて武田家は滅亡した。
武田氏の本拠として活躍したのは、僅か2ヶ月の間だった。
其の後は、徳川・北条の天正壬午の戦いにおいて、徳川軍の陣城に使われた。

い 東出構

県道脇の駐車場に車を停めると、すぐに外堀があり、出構がありました。
出構と云うのは、初めて見ましたが、城内の曲輪よりも低い位置にあり、東と西に二カ所あります。

ろ 水堀

城の北側にある水堀は、東・中・西堀の三カ所に分かれ、東と西堀を発掘調査した結果、幅6〜7mの逆台形状の箱堀だと確認されたそうです。
更に写真の様な折れのある箇所も、幾つかありました。
水堀の北は湿地帯だったそうで、大手に比べて搦手の堅固さが印象に残りましたね。

は 搦手枡形虎口

大手と搦手はともに枡形虎口が設けられ、内側よりも外側が狭い変則的な形をしてるのが特徴。
現在は残ってませんが、字名に三日月と云う地名があり、搦手にも三日月堀があったと想像されます。

に 土橋

枡形虎口を過ぎると、土橋によって進行が遮られる形になります。
新府城の西は、七里ヶ岩と呼ばれる天然の急崖で100mの段差があり、此処から攻めるのはまず無理。

ほ 帯曲輪

城の北から東へぐるっと帯曲輪に囲まれ、外側には土塁が。
新府城は戦国末期にも関わらず、石垣がありません。
此れは突貫工事によって造られたと云うのもありますが、ローム層による固い地盤の為、必要が無かったと考えられている様です。

へ 藤武神社

帯曲輪を東に行くと、下から石段が登っていて、いきなり本丸を攻略出来ます(笑)
勿論此れは、後世に藤武神社が造られた時のモノです。
神社より一段低いのが、稲荷曲輪と呼ばれる腰曲輪。

と 本丸

本丸は、なかなかの広さを持ちますが、削平が甘く結構でこぼこ。
此の辺りが、未完成の城と云える所なんでしょうね。
周囲は土塁に囲まれてますが、隅の部分は廃城後に削り落とされてしまっているそうです。

ち 石祠・武田勝頼公霊社

本丸の北側には、江戸時代に武田勝頼を祀る武田勝頼公霊社があります。
周囲には、武田滅亡時の家臣達の名前が書かれた碑も。

南側は後編にて。

参考文献:日本城郭体系8、戦国武田の城、ドキュメント戦国の城

本日は此れ切り。
Posted at 2012/05/26 23:26:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | 甲州新旧武田の城 | 旅行/地域
2012年05月22日 イイね!

甲州新旧武田の城 其の九 白山城

甲州新旧武田の城 其の九 白山城武田八幡宮にお参りした後は、其のまま駐車場にクルマを置いて、白山城へ向かいました。

白山城は山城ですが、国指定史跡と云う事もあって、登山道も整備されているので、雨にも関わらず訪れる事にした次第。
(ところが、此れが悲劇を招く事に…)

途中、別荘?らしき私有地を通る事になりますが、にかく案内板に従って進めば、20分ほどで城址へたどり着く事が出来ます。

白山城は、北に北烽火台・南にムク台と呼ばれる砦があり、其れ等も含めて国指定史跡となってますが、残念ながら雨の為パス。

白山城
武田信義が武田の庄に館を築き、其の要害として築いたのが始まりと伝わる。
信義の後は、一門の一条氏・其の支族の武川衆青木氏・山寺氏が城を守ったが、江戸時代初期に廃城となった。

い 三の曲輪枡形虎口

武田八幡宮から登って来たので、搦手からの攻略となります。
最北の堀切を越えると、三の曲輪で、枡形虎口です。

ろ 土橋

三の曲輪から、主郭へ向かうには土橋となっていて、左右の堀切は其のまま竪堀へとなって落ちて行きます。

は 主郭枡形虎口

主郭の虎口も、枡形。
鎌倉時代の武将武田信義の要害と伝わりますが、明らかに戦国時代のモノですよね。

に 主郭

主郭は、虎口を除いたほぼ全周に土塁が築かれてます。
説明板と縄張り図がありますが、どうも此の縄張り図、実物と違う様な…(^_^;)

ほ 大堀切

二の曲輪の西は、大堀切によって断ち切られてます。
雨の為、此の先は行きませんでしたが、もうひとつ堀切を越えた先に謎の段曲輪群があるそうな。

へ 帯曲輪

南の白山神社からの登り道が大手となり、高低差を利用した帯曲輪があります。

と 竪堀

「へ」の帯曲輪は、ハの字に竪堀によって防御される形になります。

ち 畝状竪堀群

白山城最大の特徴、東に広がる畝状竪堀群。
熊城にも同様のがありましたが、間隔を空けて設けられたモノで、武田流築城の特徴なんだそうな。
とは云え、埋もれてしまってよく分かりません(^_^;)

コンパクトで、登山道もしっかりしてて、なかなか良い城だったのですが、
雨の中歩いたと云う事もあって、

山蛭が大量にくっついてしまいました
( ;´Д`)いやぁぁぁぁぁー!


20匹以上ついてたと思いますが、
見つける度にカミさんがギャーギャー騒ぐ方のに、閉口したのでありました(^_^;)

雨の日の山城には気をつけましょ〜。

所用時間は1時間ほど。

参考文献:日本城郭体系8、戦国武田の城

本日は此れ切り。
Posted at 2012/05/22 23:12:55 | コメント(5) | トラックバック(0) | 甲州新旧武田の城 | 旅行/地域
2012年05月18日 イイね!

甲州新旧武田の城 其の八 武田八幡宮・武田信義館・願成寺

甲州新旧武田の城 其の八 武田八幡宮・武田信義館・願成寺甲州新旧武田の城巡り、二日目は天気予報の通り朝から雨(;´д`)トホホ…

仕方が無いので、予定をある程度端折って、無理をしない程度の城巡りをする事にしました。

初日と同じく、神社にお参りしてからのスタートです。



武田八幡宮
弘仁13年(822)勅命により、宇佐八幡宮を勧請し、地神(武田武大神)と併祀して武田八幡宮と称したと云う。
後に武田信義が武田の地に居館を構えると、氏神として厚く崇拝した。

二の鳥居

山梨県指定文化財で、県道を改修の際に現在の場所に移されたもの。

拝殿

東の窪八幡に対して、西の武田八幡と呼ばれて武田家に崇拝されてました。
韮崎市は、武田氏初代の地だけあって、武田氏所縁の史跡が結構あります。

本殿(重要文化財)

本殿は、武田信玄寄進によるモノで、国の重要文化財に指定されてます。

此の後、武田八幡宮の駐車場に車を置いて白山城へ行きましたが、此れは次回にて。

武田信義館
甲斐源氏清光の子信義が、武田の地に入って武田氏を称した。
現在は、土塁が一部残るのみで、住宅地・畑となっている。


地図にもしっかりと武田信義館跡と載ってますが、畑の中にポツンと案内板が置かれているだけで、此処には遺構はありません。
韮崎市には、武田氏最期の居城新府城もあり、まさに武田が始まりと終わりの地ですね。

土塁

日本城郭体系に、現在は墓地となっている土塁の写真が載っていたので探してみたら…
上記写真の北の道路沿いにありました!
現在は道路が高くなっているので、分かりづらいですね。

願成寺
宝亀2年(771)京都の祇園寺の末寺として、開創された。
武田信義が武田の地に居館を営むと、祈願寺として中興した。
天正10年(1582)の織田信長による武田征伐の時には、伽藍消失したと云う。
武田信義の五輪塔が今も残っている。


当初は、予定に無かったんですが、雨で行ける城址が限られてしまった為、お参りしてきました。
信長に焼かれてしまったので、建物に特別古い物はありません。
武田八幡宮もそうでしたが、武田菱が輝かしい。
阿弥陀三尊が国の重要文化財ですが、此れは事前に予約していないと拝めないらしいです。

五輪塔

初代武田信義のお墓である五輪塔。

武田氏累代御霊殿

近年に建てられたモノですが、初代信義から18代信勝、更にさかのぼって源義光からの累代の廟所です。

参考文献:日本城郭体系8、現地案内板

本日は此れ切り。
Posted at 2012/05/18 23:19:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 甲州新旧武田の城 | 旅行/地域

プロフィール

「最近、みん友の皆さんにコメント出来なくてごめんなさいm(_ _)m」
何シテル?   07/21 22:46
車のサイトなのに、車ネタはあんまりありません(^▽^;) 最近は、中世城郭(江戸時代の城は其れほど興味ない)を中心とした史跡巡りのブログがメインになりつつあり...
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