
さて、ハイキングで訪れた高津戸城です。
高津戸城は要害山(名前だけで城址だって分かりますね)の山頂にあり、ハイキングコースとして整備されてます。
麓からも案内標識が出てるので、迷う事は無いでしょう。
高津戸城
山田氏の砦として築かれたが、観応2年(1351)桐生国綱によって滅ぼされた。
後に、天正5年(1577)里見随見兄弟が、上杉謙信の援助を得て、高津戸城を修築して立て籠った。
翌天正6年(1578)、里見兄弟は父の敵である石原石見の用命の砦を夜襲したが、取り逃してしまい、逆に由良国繁に攻め込まれてしまう。
弟の勝安は討ち死にし、兄随見は城兵の命と引き換えに自害した。
い 三の曲輪

麓から10分ほど登って、三の曲輪へ到着。
城址だけ見たい人は、三の曲輪は駐車場になっているので、直接クルマでどうぞ。
三の曲輪には、展望台やトイレも整備されてますが、其の整備のおかげで、堀切と土塁が破壊されてしまいました。
ろ 空堀其の壱

三の曲輪の東から南は、空堀になっていて東側は土塁も盛られている様ですが、崩れてしまったのかあまり起伏がありません。
は 空堀其の弐

三の曲輪と二の曲輪の間には、空堀と土塁があり、写真の場所は土橋によって繋がれている様ですが…
う〜ん、此処も起伏が無くて、よく分かりません。
に 二の曲輪

二の曲輪は、何段もの段曲輪になってますが、何れも狭くて建物は建てられそうもありません。
ほ 竪堀

弓なりに続く「は」の空堀は、最後に竪堀になって落ちて行きます。
西側の守りは、竪堀くらいのモノで、高津戸峡の天険によるモノが大きいみたい。
へ 本曲輪

本曲輪は二段になっていて、現在は要害神社が祀られてます。
隣に、里見兄弟の悲劇が詳しく書かれた案内板がありますが、此のエピソードの真義のほどは定かでは無いんだそうな。
ち 腰曲輪

「は」の空堀の東端は、腰曲輪になってます。
土塁が外に盛られている部分があり、其の内側の鉄柵に囲われて場所に井戸がありました。
そして此の腰曲輪は、北に延びて搦手の堀切になります。
此の空堀のラインは、高津戸城にとって重要なポイントなんじゃないでしょうかね。
り 空堀其の参

此処の空堀は弧状になっていて、外側の搦手の曲輪とは土橋によって繋がります。
此の後、搦手を下って高津戸峡へ行ったんですが、途中先週の台風による倒木が道を塞いでいて、一寸ばかり難儀しました。
特に技巧的なモノはありませんが、ハイキングコースとしてされつてるし遺構もそれなりに残っているので、まあまあ楽しめる城なんじゃないでしょうか。
参考文献:日本城郭体系4、現地案内板
参考文献:
余呉くんのお城のページ
本日は此れ切り。
Posted at 2012/06/28 22:28:05 | |
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