此の日は、娘が地元の育成会のうどん作りに行ってしまったので、ちょいとお隣の本庄市の城巡りに行って来ました。
何回も行った事や通った事のある場所ですが、城址として見るのは、今回が初めてだったりします。
五十子城
康生3年(1457)頃、関東管領山内上杉房顕が、古河公方足利成氏との戦いの為に築城された。
当時の利根川の流路は、現在と異なっており、五十子の北で烏川と合流していた為、此の流域を抑える重要な箇所であった。
後に山内上杉氏家宰長尾景信の子、景春が跡目相続に不満を持ち、五十子の陣を離れ、古河公方へ味方した。
鉢形城を築いた景春は、文明9年五十子の陣に猛攻撃を仕掛け、山内上杉氏は上野へ敗走した。
五十子は「いかっこ」と読みます。
現在の本庄市東五十子・西五十子の周辺ですが、
遠景
見事に国道17号が貫通しており、開発もあって、遺構は残ってません。゚(゚´Д`゚)゚。
以前は、本曲輪と推察される場所に「城山館」と云うビジネスホテルがあり、此処に城があったんだぞと思わせてくれたんですが、経営が変わってしまったんでしょうか?今では、二番館と名前が変わってます(^_^;)
城山稲荷

レストランてんぐ茶屋の片隅に、細々と城山稲荷が祀られてますが、元々は五十子城の土塁の上にあったものが、現在の場所に移されたそうです。
鵜森浅間神社

此れは上杉房顕の室梅沢御前が、五十子の陣の守護神として勧進したのが始まりだそうです。
元々は古墳だそうで、西に土塁が続いていたそうですが、今はちょっと高くなっている程度で遺構は確かめられません。
五十子城は、関東の戦国史を語る上でも重要な城。
陣城とは云え、関東管領が永きにわたって在城し、連歌師も訪れていたので、結構栄えてたみたいです。
今では、周辺の川の流れも違ってますが、Yの字の川の合流地点に築城されていたらしいので、白井城や鉢形城と同じく白井長尾氏の縄張りだったんでしょうかねえ。
だとしたら、其の白井長尾氏の長尾景春に攻め落とされるなんて、皮肉なもんです。
お次は、本庄城に行きましたが、城趾は現在市役所になってるので、駐車場には困りません。
本庄城
弘治2年(1556)本庄宮内小輔実忠によって築かれた。
本庄氏は、関東管領山内上杉氏に属していた為、永禄10年(1567)北条氏邦によって攻められ、落城した。
天正10年(1590)の小田原の陣で再び落城した後は、徳川家康の家臣小笠原信嶺が1万石で城主となった。
慶長17年(1612)養嗣子の信之が古河へ転封となると、廃城となった。
土塁其の壱

本庄城も開発によって殆ど遺構が残ってませんが、市役所の東側の宅地に土塁が残ってます。
此方は、自転車置き場から南を見た図。
土塁其の弐

市役所から東を見た図。
僕が写真を撮っている辺りが、空堀だったみたいですね。
城山稲荷

現在、城山稲荷が祀られている場所は、堀切の跡と云う事で低くなってます。
鳥居や参道より低くなってるので、とても変な感じ。
写真は、社殿から参道を見た図。
元小山川

城の北は、元小山川が流れていて、天然の水堀。
比高差も其れなりにあります。
僕の住んでいる周辺の城は、みんなこんな感じで面白くないんだよなあ。
参考文献:日本城郭大系5、中世北武蔵の城
本日は此れ切り。
Posted at 2013/07/23 23:22:22 | |
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