
自分が住んでいたアパートの斜向かいに
集会施設を併設したマンションがあって、
そこに近所の人たちが集まっていることを知りました。
そこで、水・電気・ガス、すべて止まっていること、
近くの学校が避難所になっているけど、
今のところ、ただ集まっているだけという状況であること
そして、まだ建物の下敷きになって
助け出されていない人がいること
・・・などを教えてもらいました。
地震が起きるまでは話をしたこともありませんでしたが、とても親切に靴や上着を貸してくれて、
とにかく、全壊のアパートの中から自分が助かったことを、すごく喜んでくれました。
それから、公衆電話が通じることを教えてもらい、
そこで、やっと「両親に連絡しなくては」と気が付きました。
この頃まだ、携帯電話は、ほとんど普及していませんでした。
意外にも、すんなり電話がつながり、地震でアパートが潰れたこと、
自分はケガも無く、無事であることを伝えました。
このとき、まだ、朝のTVニュースでも地震の全体像は不明のままでした。
長田の火事、横倒しになった阪神高速の映像などが流れ、
電話がパンク状態になったのはそれから間もなくだったようです。
学校、駅、コンビニ・・・周辺を歩き回って、避難所ではなく、
そこで近所の人たちと行動を共にすることに決め、
マンションの受水槽からホースで水を汲み出せるようにする手伝いをしたりして、
長い一日が終わりました。
ライフラインが寸断された時の心細さ、その中で知恵を出し合って最善を尽くそうとする意志、
近隣の助け合い、いざと言う時の温かい心、何もかも、すべて忘れることは出来ません。
その後、電車が西宮まで開通した時、実家までの交通費を借りて、
大学が再開されるまで神戸を離れました。
自分は震災の体験者ではありますが、神戸の出身ではないし、
身近に重症を負った人も亡くなった人もいませんでした。
そして、自分自身も幸運なことにケガ1つありませんでしたし、
地震のあと神戸に滞在したのもわずか数日です。
そういう意味では、本当の「被災者」ではないと思いますが、震災後15年という節目でもあり、
「阪神・淡路大震災」を少しでも多くの人に伝えたい・・・という思いで、
この記事をブログに載せることにしました。
神戸は元気を取り戻し、再び明るい街になりました。
しかし、あのときの記憶は消えないし、消すことは出来ません。
死者6,434名・・・自分が住んでいたアパートの隣の部屋の方も亡くなりました。
御冥福をお祈り致します・・・
Posted at 2010/01/17 15:55:26 | |
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1995.01.17 | その他