2011年05月24日
みなさん、たいへん御無沙汰しております。
「何シテル」に書きましたが、5月10日の13時25分に母が永眠しました。
母の入院以降はほとんどの時間を母中心に使っておりました。
時にはナンチャラショウとか行きましたが・・・ww
自分自身の覚書のためにもブログに経緯を残そうかと思います。
・・・・・・ものすごく長くなると思いますので、興味のない方はスルーしてください。
昨年夏過ぎくらいから母の体調は微妙だった様子。
異変と言うよりは違和感みたいなものを感じつつも「病院行けよ」って言うくらいでした。
この時に引きずってでも病院に連れて行っておけば・・・まだ元気だったかもしれません。
後悔しか残らないですね。
年末あたりから体調不良っぽくて寝込むことがありました。
自分の体のことは自分が一番わかるから大丈夫、っと言われると
やはり「病院くらい行っといたら?」としか言えません・・・。
母もどーにもガマンできなくなったのか、今年の2月18日に病院へ行きました。
近所の内科だったのですが「紹介状を書くからこのまま大きい病院へ行ってください」と言われる。
紹介状を持ってそのまま大きい病院へ行くと「即入院です。」と。
母自身は家に帰って準備をすることもできず、当日の午後と翌日は検査三昧。
その間にボクとオヤジで入院セットを準備して持って行きました。
2月21日、主治医よりお話がありまして「大腸ガンによる腸閉塞です」と。
母方はガン家系で、母の母(ボクのおばあちゃんね)もガンでした。
ちなみにオヤジ方もガン家系なので、ボクと兄貴はガンのサラブレッドなのです。
「手術は28日にします」と言われ、各書類の準備をします。
この時点では家族全員が無事に手術が終わって普通の生活に戻れると思っていました。
手術当日、普通に済めば3時間程度の手術になると。
問題が発生しても4時間あれば終わるでしょうと。
1時間で終わった時は・・・何もできなかった時ですと。
「普通」に戻れると信じて疑わなかったボクら家族は、1回帰ろうか・・・ってな話をしてたくらい。
余裕かましてタバコを吸いに行ってたら呼ばれました。
経過時間は40分。
早すぎです。
手術室横の応接室で主治医の話を聞きます。
①「播種」での転移で手の施しようがない。
②今後は抗がん剤治療で進行を遅らせるしかない。
③余命は3カ月くらいだろう。
・・・・・・・・マジですかぁ~!!
ボクが生まれてからそれまで、気が狂いそうになるくらい心配や迷惑をかけてきた自信がある。
そして親孝行チックなことは一切しなかった自信もある!
このままだとボクは一生後悔するだろうと思い・・・
仕事はすべて弟子共に任せ、たま~の息抜き以外は全て母に時間を費やそうと決めました。
術後の回復は順調で、3月25日に予定通りの退院。
腸閉塞の手術はしたが、ガン細胞は残ったまま・・・。
2週間に1回、2泊3日で抗がん剤治療はあるものの
一見は普通の生活を送ることができるようになりました。
ボクはずっと家にいて、炊事、洗濯、掃除を何もできないオヤジに教えました。
とにかく母の負担を減らそうと。
そんな生活を1カ月続け、旅行の計画をたてていたゴールデンウィーク前の4月26日。
いつもの抗がん剤治療の入院だったのですが、
白血球の数値に異常があったため入院治療ができませんでした。
GWを挟むため、次回の治療は5月12日にしましょ~♪っと看護師。
その日は白血球の薬をもらって帰宅。
抗がん剤治療の副作用のひとつに「吐き気」があります。
治療後3~6日くらいは気持ち悪くて食欲がなかったみたいです。
しかし今回は治療日が長引いたので、体調の良い日が長くなる!!ってことで・・・
4月29日の晩御飯は外食にしました。
母の食べたいものを食べに行ったのですがあまり進まず。
その日の晩に高熱を出します。
これが最後の自宅でした。
翌日病院へ行き、そのまま入院。
白血球が少ないので菌をもらいやすいってことで高熱が出たとのこと。
解熱剤で抑えるものの効き目がなくなるとまた熱が上がる・・・を2日繰り返します。
熱が下がった5月1日の晩から腹痛を訴えるようになりました。
母が言うには尋常ではない痛みのようで、
最初は普通の痛み止めでしたが効き目が全くないのですぐに強い薬に変わりました。
これが原因なのか、ガン細胞が育ちまくったのか、詳しいことは分からず終いですが・・・・
5月3日、病院へ行くとそれまで普通だった母が
「自分の意思で満足に動けない状態」になっていました。
しゃべるのも辛そうで、一生懸しゃべってくれるのですがほんの少しだけ聞き取りにくかった。
5月4日、寝てる時間が多くなった。
強い痛み止めの副作用で頭がボ~っとするのと眠気がすごいらしい。
話をしても昨日よりも聞き取りにくくなってる・・・。
5月5日、ほぼ寝てる状態。
意識がある状態でも目がうつろで、声を出すのも必死だけどまだ聞き取れる。
5月6日、ナースステーション横の個室へ引っ越し。
状態は昨日と同じだが、この日の午後からほとんどしゃべれなくなる。
ボクの問いかけに首を動かすのがやっとのようだった。
この日からボクも病室で寝るようにした。
5月7日、ほぼ意識が無い状態。
話しかけても10回に1回くらいしか反応してくれなくなった。
先生が言うには耳は聞こえているらしいので、40年弱分の感謝の気持ちを伝えた。
同時に40年弱分のお詫びをたくさんした。
一生分泣いたなってくらい泣いた。
5月8日、主治医より「覚悟しておいてください」と言われる。
相変わらず意識はなく、話しかけても全く反応してくれなくなった。
この日も感謝の気持ちと、お詫びの気持ちをず~っと話し続けた。
昨日は一生分泣いたと思ったが、この日は3倍泣いた。
ボーズ達を会わせようか・・・ずっと悩んでいたけど
ボクが見てても「いよいよか・・・・」と思うところもあったので会わすことにした。
5月9日、ボーズ達と面会。
丸2日間、一切の反応がなかったのにRとJが声をかけると
母が精一杯の声を出してくれた。2回も!!
やっぱり聞こえてるんだなぁって思った瞬間だった。
声は出してくれたけど体は動かず、でも明らかに涙を流した。
嬉しかったのかなぁ?
連れて行って良かった!!
5月10日、AM0時。血圧が下がった。
「朝まで持たないかもしれない・・・」と言われる。
オヤジと兄貴に連絡したが、兄貴は始発でしか来れないと。
オヤジはすぐに来たが、2時間安定した数値を見ると「異変があったら呼んでくれ」と帰宅。
この日はボーズ達のことを話し、また泣いた。
そのまま朝まで何事もなく経過。
AM6時、兄貴が到着。オヤジも一緒だ。多分兄貴が引っ張ってきたのだろう。
兄貴が「最近ロクに寝てないのだろう?」と気を利かせてくれて、しばらく仮眠できた。
しかしオヤジが「朝ご飯を食べてないから」っと9時頃に交代(笑)。
数値は安定しており、朝までどころかこのままずっと平気な感じがした。
そんなんだからオヤジは安心しきって「13時半頃に来るわぁ」っと行ってしまった。
兄貴は仕事があるから8時前に行っちゃったらしい。
心拍数も血圧が下がる前と同じような状態だった。
13時15分頃、タバコが吸いたくなったので母に「タバコ吸ってくるわ~」と話しかけたところ
パッと瞼を開き、眼球を動かしたのでびっくり!!
ボクのほうをしっかりと見てくれました。
あれれ~!このまま回復しちゃう???ってくらいしっかりとしていました。
しかしそれが最後の母の意思でした。
そのままゆっくりと目を閉じて息を引きとりました。
・・・っとこんな感じでした。
それ以降は葬儀の手配でバタバタ。(おっちゃんありがとね♪)
息を引きとってから2週間、ようやくちょっとだけ余裕が出ました。
初七日~四十九日まではバタバタだし、準備しなきゃいけないものもたくさんありすぎですが・・・。
約3カ月間、仕事を無視して母に付き添った甲斐がありました。
お詫びも感謝もたくさんできた。
なにより「その瞬間」に立ち会えたことが良かった。
ひとりで寂しい状態じゃなくて良かった。
その瞬間、ひとりにしないためにボクにできることができた。
手術以降その瞬間までは悔いはない。
あとは安らかに眠り続けてもらえるようにしないとね。
もー少し落ち着いたらブログも再開していきたいと思っていますが、
四十九日が終わるころには夏に突入しそうな感じでして・・・(汗)。
お盆明けまではあまり更新できないかもしれませんが、
これまでと変わりなくお付き合いのほどよろしくお願いします^^
あ~、昨日・・・・・・ちょっとごっついパーツ買っちゃいました^^♪
Posted at 2011/05/24 02:04:05 | |
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