こんばんは
今年の年末は、どう過ごそうか考えてます。
う~ん、とりあえず・・・冬コミ行ってくるか!
さて今回から待ちに待ったニスモフェスティバル2014のレポートを書いていこうと思います。
第1回目は・・・
伝説のCカー、ル・マン参戦車編です。
今枠は端から端まで
100%Cカー、ル・マン参戦マシンしか登場しませんので、ご了承を。
毎度イベントレポートで言いますが・・・
このレポートは、日記作者の独断と偏見によって撮れた写真を淡々と紹介するだけです。「もしかして、紹介されてるかも!?」と言う過度な期待はしないでください。
あと、「あの有名な車を紹介されてない」からといって日記作者を逆恨みだけはしないでやって下さい。
<守れない人は、あだ名をプレーン・・・
R85V 本名「マーチ85G」
マーチエンジニアリングの1985年型IMSA-GTP用シャシーに当時最新だったVG30ETを搭載したグループCカー。
シェイクダウンはアメリカ・リバーサイドで行い、デビュー戦以降から好成績を収め、第3戦WEC-JAPANでは豪雨の決勝ながらも星野一義のドライブで初優勝を遂げる。
1986年にはル・マン2に参戦し総合16位ながら完走、日産はル・マン初出場で初完走となった。
R86V 本名「マーチ86G」
マーチエンジニアリングの1986年型IMSA-GTP用シャシーに引き続きVG30ETを搭載しレースに参戦。しかし結果は・・・。
翌年87年にはV8の「VEJ30」を搭載するも熟成不足、従来のVG搭載車の方が大活躍。おかげでWEC-JAPANで国産エンジン搭載車初のポールポジションを獲得。最終戦富士500kmでも連続ポールポジション獲得。決勝でも日産Cカーとして事実上初めて優勝争いに加わり4位に入賞したりしました。
R88V 本名「マーチ88G」
マーチエンジニアリングから提供されるIMSA-GTP用シャシー最後のモデル。エンジンもVG30ETを搭載しレースに参戦。
デビュー戦 1988年ル・マン24時間(リタイヤ)。
国内デビュー戦 JSPC第4戦富士500マイル(8位完走)。
1989年もJSPC、WSPC鈴鹿、ル・マンにフル参戦。
毎回好位置につけながら結果に結びつかないレースが続いた・・・
JSPCの最終戦 鈴鹿1000kmでやっと4位入賞(これが最高位です・・・)
R〇7S「俺はもっとすごいリザルト残したぞ・・・・・!?」
R89C
1989年より日産がWSPCに本格参戦するのに合わせて製作され、ローラカーズの製作となった。デザインコンセプトを日産が、設計・製作はローラが担当。
R89Cは日産初のカーボンモノコックのCカーだった。
エンジンは3.5リッターV8ツインターボのVRH35搭載。エンジンをシャシー構造の一部とするストレスマウント方式を採用しているのが特徴です。
レースでの成績は・・・WSPC・JSCP共にまあまあ!?(^_^;)
R90CP YHP
1987年から日産のグループCカー活動は、林義正がスポーツエンジン開発責任者兼任の形で指揮をとり、シャシーの開発を任された水野和敏はローラと共同でR89Cを開発。しかしローラの古拙なマシン開発手法に失望し、グループCマシンの自製を決意。これを1990年からの監督就任の条件として本社上層部の許可を取り付け、開発されたのがR90CPです。エンジンはVRH35の進化版「VRH35Z」を搭載。高過給設定では1,200馬力に達する!
レースの成績もR89Cよりも好成績を残してます!
R90CK
R89Cは空気抵抗減少を目標にホイール径を前後とも17インチとしリヤタイヤにスパッツを装備するなど、ル・マンのユノディエールでのトップスピードを意識して開発、製作されていたが、R90CKではフロント18インチ、リヤ19インチ径のホイールの採用、ブレーキの大径化などスプリントレースでの競争力向上を目指して開発、設計されている。それ以外ではR89Cの基本設計を引き継いでいる。
英国のローラで製作された為、車名は「R90CP」ではなくを「R90CK」と名づけた。当初は製造された地である英国・クラウンフィールド(Crownfield)の「C」を取り「R90CC」と名づけることを考えたが、それでは単気筒のバイクのようでしっくりこないと言うことで、Cと同じ発音の「K」を付け「R90CK」とした。
ちなみに日本で製作された「R90CP」の「P」は製作された追浜(Oppama)の「P」である。
レースでは、91~93年にかけて活躍し、その間に「R91CK」「R93CK」と進化しながら参戦。
R91CP
それまでマーチやローラなどの外部コンストラクターにシャシー製造を委託していた日産だったが、外部製作ゆえに発生する時間的ロスの増大を嫌ったことに加え、設計や製造精度に起因すると見られるトラブルがいくつか発生したことから、ついにシャシーの完全内製化に踏み切ることになり日産初のオール自社製のグループCカーになった。
外観は林義正と水野和敏の下でニスモが設計し、日産・宇宙航空事業部が製作した純国産車となっている。コクピットは、ル・マン24時間レースやJSPCでの1000kmレースなど長距離レースを意識して、ダッシュボードのデザインから、通風・防水に至るまで入念に検討され、この種の車両では例外的に雨天のレースでも水の侵入が一切無かったとされている。また、安全性を考慮しロールケージはきわめて堅固に設計された。
コクピット後ろ車体中央部の大型のインレットが目立つが、これはエンジンの吸気用ではなく、リアブレーキの冷却用である。また、R90CPでは左右ともフロントフェンダー上に配置されていたミラーは、ドライバー側の右ミラーのみドア部に移設され、左右非対称の配置となっている。
サスペンションについては、ドライバビリティを重視し、サスペンションのロールセンターをあえて高めに設定し、姿勢変化が分かりやすいものとされている。
これらの設計はシャシーの市販化を意識していたためといわれ、結果としてきわめて乗りやすいマシンとなったが、同時にタイヤの負担が増大していたとされる。実際にタイヤバーストでのクラッシュを経験しており、強固なロールケージ設計は図らずも有効に機能することになってしまった。
Cカーでありながらもル・マンに参戦することがなかったR91CPは、1992年に参戦した「デイトナ24時間レース」で見事優勝を果たします!
未だに同レースでの走行ラップ数(762周)は大会記録として未だ破られていない。
カルソニック ニッサンR92CP
基本的には前年度のR91CPの改良発展型であり、外観的な差異は大きくない。顕著な差異は、フロントフェンダー上部のエアアウトレットで、従来はルーバー状だったものがJSPC第4戦菅生から開閉するフラップ状になったこと程度であり、前部に位置するラジエータ、同じく前部に開口するインタークーラー用ダクト、特徴的なブレーキ冷却用エアインレットなどは、そのまま継承。
サスペンションの設計については、R91CPでは扱いやすさを狙ってレーシングカーとしては高めに設定されていたロールセンターは、常識的なレベルまで下げられ、コーナリング性能は一段と向上し、タイヤへの負担も小さくなった。
エンジンは「VRH35Z」が改良の上継承されて、トランスミッションも、引き続きヒューランド社製5速VGCが採用されているが、強度不足の問題が出たミッションケースは日産内製で作りなさおれている。
レースでの成績も、これまで経験してきた結果もあり、かなり好成績でした!
NP35
日産自動車が1980年代から1990年代前半にかけて挑んだスポーツプロトタイプカー(Cカー)によるレースは、ターボ関連技術や燃費向上技術などの幅広い分野で、多くの経験とノウハウを習得することにも成功しました。しかし、1993年(平成5年)のシーズンからこのCカーではターボチャージャーの使用が禁止になります。そこで日産では、自然吸気のV型12気筒DOHC・3,499ccの排気量から最高出力630馬力以上を発生するVRT35型エンジンを開発。同エンジンを搭載したニッサンNP35を開発しましたが、残念なことに、Cカーによる世界選手権レースは打ち切りになりました。実戦投入は、1992年(平成4年)に開催された国内レース1戦(総合10位、Cクラス4位入賞)のみとなってしまいました。
R390 GT1(97年参戦車)
1997年ににル・マンのために、トム・ウォーキンショー・レーシング (TWR) の協力のもと開発されたマシン。
エンジンはグループCで活躍した名機「VRH35Z」をベースに開発された「VRH35L」が搭載された。この2機は型式こそ違ってはいるが、新型が開発されたわけではなく、VRH35Zにリストリクターを装着しブースト圧を下げただけで、エンジンそのものはVRH35Zそのまま。リストリクターによる空気流量制限への最適化が行われておらず、性能はかなり低くなってしまっていた・・・
97年に初参戦し、予備予選ではポールポジションを獲得する順調なスタートであった。しかし、リヤトランクをメッシュとし、ギアボックスの冷却ダクトの内部に収容した構造が、現地でレギュレーション違反と指摘された。そこで急遽トランクを密閉構造の箱形に変更したが、ギアボックスの冷却が阻害されるトラブルが発生し、結果は残せなかった。また、日産側とTWR側の連携コミュニケーションの問題も露呈した。
R390 GT1(98年参戦車)
98年、ル・マンには引き続きR390を投入し、1997年のマシンの弱点であったギアボックスの改善、ロングテール化などの空力改善、ウィリアムズF1チームからTCSやABSなどを導入するなどし、性能を向上させた。さらに日産とTWRの連携を確実にしてチーム体制を強化した。
堅実なマシン作りで抜群の安定性をみせ、星野一義・鈴木亜久里・影山正彦の乗るマシンが総合3位を獲得し、ノバエンジニアリングからJOMOのスポンサードによってエントリーした前年度のマシンをアップデートさせた車両を含む出走した4台全車が10位以内で完走する健闘をみせた。
R391
99年にル・マン参戦用に開発されたマシン。
先代のR390とは異なり完全なオープンプロトタイプカーで、シャシーはGフォース(現パノス)と日産の共同開発。搭載されているエンジンは「VRH50A」であるが、このエンジンは「VRH35Z」をベースにしたものではなく、インフィニティQ45に搭載されていたエンジン「VH41DE」をベースにし、レースにおいて耐えうる構造へと再設計を施して生まれた。
99年のル・マン24時間レース必勝を誓い、誕生したニッサンR391は実戦には2台を投入しましたが、決勝前日の予選で23号車がクラッシュに見舞われ出走できませんでした。本戦には予選を12位で通過した22号車のみで挑みましたが、スタートから7時間半後の110周で残念ながらリタイアとなりました。しかし、この悔しさをバネに、 同年11月に日本の富士スピードウェイで行われた耐久レース、ル・マン富士1000kmに挑戦したこの23号車(E・コマス/本山哲/影山正美組)が、チームとともに意地を見せ、見事に優勝を果たしました。
R391「オラオラっ!さっさ行かねえと、ぶっ飛ばすぞ!!」
マーチ「ひぃいいいい!!(大汗)」
以上、第1回目でした。
みなさんの記憶にも深く刻まれているレーシングカーは登場してたでしょうか。
以降のニスモフェスティバルのレポートも、基本は写真での紹介をメインとして、ウィキペディア先生の解説を挟んで書いていこうと思います
さて、来年2015年・・・・・
日産はル・マンに帰ってきます!!
日産は、2015年、ル・マン24時間レースに復帰し、「NISSAN GT-R」の名を冠したマシンでアウディ、ポルシェ、トヨタとの対決に挑みます。また2015年のFIA世界耐久選手権(WEC)には、2台のLMP1(ル・マン・プロトタイプ1)マシンと共にワークスチーム体制で参戦します。日産のLMP1マシンの名称は、「NISSAN GT-R LM NISMO」を予定しています。30年に亘るモータースポーツの血統を引継ぎ、日産のフラッグシップモデル、「NISSAN GT-R」の名を冠します!
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