
今回の地震で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町(旧志津川町)。
町の家屋は根こそぎ波にさらわれ、建物はほとんど残っていません。
約17000人いた住民のうち、生存が確認されているのは半分に満たない状況です。
7日前の話になりますが、、、
南三陸町で漁師をしていた友人のヒロさん、数日間、安否が分からず気になっていましたが、無事連絡が取れました。この壊滅的な町で生き残ることができました。(写真の地図、赤のピンがヒロさんの避難場所。学校の高台とは逆方向にいました)
前回アップした記事でも書いたように、ヒロさんの娘と息子はそれぞれ宮城県外(山形、秋田)に出かけてた際に被災しました。周りの人達の協力の下、神奈川県にたどり着き、横浜の我が家にて再会することができました。そして、その直後、親(ヒロさんと奥さん)からの連絡があり、家族全員の無事が確認できました。本当に良かったです。
姉弟は今、三浦半島にある親戚の家にいます。ガソリンが手に入るようになれば、親戚といっしょに南三陸町を目指すとのことです。
ヒロさんの生存が確認される前も、確認された後にも、僕は息子(タク)に同じ質問しました。お父さん達が心配で早く帰りたいと思わないの?
「今の町の状態で行っても、皆の分の食料を減らしてしまうんで…」
彼の答えに迷いが感じられませんでした。その冷静な考えに驚きます。
今は自衛隊も入り、炊き出しもなされてきており、そろそろ働き手が必要になってくるころでしょうが、7日前の被災地はまだ混沌としていました。
震災後、この家族と関わって心に残ったことを書き留めました。
まだまだ安否の分からない方が大勢おり、被災地では途方に暮れそうな作業をしております。時には不快に感じる表現が含まれているとことを知りつつ書き連ねました。不快に感じられても、何卒、寛大な心で済まして頂ければ幸いです。
1. TV番組
3/14、22時過ぎ、
秋田の避難所に残されていたヒロさんの息子(タク)が羽田に到着した知らせを受け、超省エネ走行で息子を迎えに行きました。その時は、ヒロさんの安否が不明な状態でしたから、どこまで話していいのか探りながら会話しました。
で、帰宅後に失敗したと思ったことです。
我が家では震災の情報番組を流しっぱなしにしていたのです。タク君は秋田ではテレビを散々見ており、情報を収集していたようですが、自分の町の惨状と新たに発見された遺体の数を耳にした瞬間、彼の息が荒くなったのを僕は目にしてしまい、耐えるのが辛かったです。
よって翌日朝は、「別の番組にしよう」と提案しました。彼も翌日合流した姉の返事も「何でもいいですよ」と素っ気ないのですが…。
この日はまだ、どの放送局も震災の映像ばかりで、テレビ関東だけが震災とはまったく関係のないヨーロッパの情景を放映してました。おかげで、部屋を和やかな雰囲気にすることができました。
2. 帰宅難民の援助
タク君が地震発生後の4日間、秋田でどうやって過ごしていたのか?
大学受験で秋田に出向いてました。新幹線のトンネルの中で被災しました。試験会場では選択肢を与えらられたそうです。
「今受験するか、それとも後日にするか」
震災のショックで試験に集中できない受験生のための対応らしいです。秋田を訪れる機会はそうそうないからと、彼はその場で受験することを決心しました。その時は、本人もまさか(津波に対して日々備えている)自分の町が壊滅したとは想像もしなかったとか。
交通手段が遮断され、志津川に帰れない彼は避難所の体育館で過ごすことに。テレビに写る変わり果てた町の姿を見て、自分の町に起きた惨状をようやく知ったと言います。避難所で眠れない夜を過ごしたそうです。
彼は幸運でした。
翌々日、帰宅難民の受験生を保護していた地元の人に声かけられました。タク君を含めて受験生3人は、地元の夫婦(年配の方)の家でお世話になることになりました。ご飯と寝る部屋を提供してもらい、震災で緊張していたにも拘らず、ぐっすり寝ることができたそうです。
山形で帰宅難民となった姉(シホ)と相談し、タク君は姉と神奈川で落ち合うことを決心。共通の友人の協力を得て羽田行きのチケットを確保しました。その時、この年配ご夫婦がとった行動には驚きました。
関東は停電だし断水もある。食料不足も。。
それを懸念した年配夫婦は、相手先(我が家)に迷惑を掛けないよう、出発前のタク君を風呂に入れ、着ているものも全て洗濯し新品の下着も買ってあげました。空港で夕食も食べさせて、タク君を飛行機に乗せました。さらには、大きなスポーツバッグを与えました。大量の食料を詰めて…。これは物凄く重かったんです。受験には絶対に必要ない重さ。きっと、関東で酷い目に遭っても大丈夫なようにって心配されたんでしょう。
この夫婦の旦那さん、どうやら僕と同じ業界でお仕事されているようでした。この素晴らしい行動に僕からもお礼を言いたかったこと、そしてご夫婦の心配も払拭したかったので、タク君に連絡先を聞こうとしました。
しかし、彼は一瞬戸惑って、
「向こうに聞いてからにして良いでしょうか…?」との返答。
すげー!!
「一応個人情報ですし。。」
今の高校生ってそんな教育受けているんですね。脱帽!(笑)
3. 日々の備え
タク君が横浜に到着した翌日、姉のシホちゃんも到着しました。
我が家で昼食を取り、でも電車は運休していた状態でしたから、動けずにのんびりとくつろいでいました。そこにお母さんからの電話が!
母 「○bs△oi×%’#$""...:@`!!!」(怒り声)
シホ「うん、うん、大丈夫。今、横浜! のりっくさん家!」
母 「原発のこと知ってるの!?」(僕の勝手な想像)
シホ「だから、大丈夫だって!新潟経由で行ったんだって!」
なんだか怒鳴られているようです。
あんたたちゃ、生きてて良かったとか言わないの??(苦笑)
電話の後、状況を教えてくれました。
車が無事で、秋田にいるはずのシホを迎えに、父親(ヒロさん)が南三陸町を出たところで、連絡できたそうです。(どっちが心配してるんだか!!)
この家族が助かった要因は、
・タク君が受験で出かけるので、ヒロさん夫妻は仕事を休んで家にいた。(運が良い)
・奥さんはいつ津波が来てもすぐに逃げれるように、通帳や印鑑を一つの袋に入れていた。(日々の備え)
・ヒロさんは、いつでもノアを発進できるような形で車を止めいた。(日々の備え)
なので地震後、両親が祖父母を乗せて車を発進させるまで、ものの数分だったと思われます。
さらに高台の倉庫にプリウスが一台。車二台と財産は守られたわけです。おまけに地震の翌日ネコも見つかったとか。今ではどこでも行けるスーパー家族です。
衛星電話で確認できた避難場所は、大勢の住民が目指したと思われる小学校や中学校とは反対方向に位置していました(トップ写真:赤いピンの場所がヒロさんがいた避難所)。大勢の人の流れとは別方向の高台を目指して車を走らせたと思われます。志津川には高い建物がほとんどありません。学校がある高台までは、海岸からかなりの距離があります。建物の3階でも波に飲まれたそうです。このような誰もが想定していないレベルの津波をヒロさんが予想していたとは思えませんが、緊急事態における避難場所とルートはあらかじめヒロさんが決めていただろうことを、子供達が教えてくれました。
日々の備えで命運が大きく別れると感じました。
・最低限持ち出すもの
・避難ルートと目的地
これらが頭の中にインプットされていることで大きく命運が別れそうです。
それから、地震後の連絡手段(集合場所、掲示板など)を、家族や親戚と決めておくのもとても大切なことだと思います。
被災していない僕達は、もう一度これらを確認しておく必要があると思います。
「想定外」というだけで、全てを失うわけにはいきません。
4. 明るい若者達
ケータイは被災者やその家族同士の気持ちを支えるのに重要な役割を果たしていました。mixiの安否情報掲示板は大活躍だったそうです。
姉弟が地元と離れていても、現地やその他の友人との繋がりは携帯電話でした(おそらく繋がる地域のみでしょうが)。僕と3人でいっしょにいても、それぞれ画面を眺めているのは、普通なら如何なものかと思ってしまいますが、とにかく、しょっちゅうお互いを励まし合っているようでした。
例をいくつか挙げると、
「わたしは今、マツコデラックス〜、この脂肪で寒さを乗り切るわ♪」
避難所にいるちょっぴり太った女子大生が、ブランケットを巻き付けた姿をメールで伝えきたようです。
「この(避難)生活続けたら、○kg痩せれる!」
女の子なんでしょうね。。汗
呆れてしまうほど明るい被災者達です。
子供達が我が家を出発する前に写真撮影したのですが、これまたピースサインする始末。お父さんの生存が確認されたとは言え、友達の安否も確認できてないんだし、ちょっと君達は不謹慎だなぁ…なんて言うと、シホの反論を喰らいました。
「先輩も後輩もみんな、『これからは若いうちらの出番だ!!(拳)』」ってノリなんです!」
何だかね、僕の方が元気を貰ってしまいました。
不快に感じる方もいるでしょうが、辛い時って、若者のこういうノリが起爆剤になったりするんですよね。
ヒロさんは近々、子供達を志津川に戻すと言ってます。
シホはこの春、志津川高校に赴任する予定でしたし、復旧にはこの元気な若者達の力が必要です。しかし、今後のことを考えると、いつまでこのノリが持続できるのか心配になります。
気が遠くなるような復旧作業も然り、今後の仕事の問題もあり、そのような問題のために復興支援が始まっているわけですが・・・・
町の人々は、再び志津川湾に家を建てるのでしょうか?
三陸海岸に住むことに憧れた人もいるかもしれません。僕はその一人でしたが。
しかし、今回はどうなんでしょう。
過去数回にわたり津波の被害を受けながら立ち直ってきた三陸沿岸ですが。。。
この友人家族に対して、志津川の町に対して、福島の原発問題や他の被災地に対しても、
僕には何ができるのか、
目前の復旧作業のもうちょっと先に思いを馳せると、
そこには、ただ見守ることしかできないちっぽけな僕がいます。
今は皆が力を合わせて「復旧」に力を注がねばなりません。
しかし、見かけ上の流通や経済が復活しても、たくさんの問題が残されるはずです。
町の「復興」には時間がかかることを肝に銘じたいと思います。
三陸の未来を支えるかもしれないシホやタクといった若者達を、僕はずっと応援していきたいと思います。