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2011年03月21日 イイね!

南三陸町・友人家族のその後

南三陸町・友人家族のその後今回の地震で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町(旧志津川町)。
町の家屋は根こそぎ波にさらわれ、建物はほとんど残っていません。
約17000人いた住民のうち、生存が確認されているのは半分に満たない状況です。



7日前の話になりますが、、、
南三陸町で漁師をしていた友人のヒロさん、数日間、安否が分からず気になっていましたが、無事連絡が取れました。この壊滅的な町で生き残ることができました。(写真の地図、赤のピンがヒロさんの避難場所。学校の高台とは逆方向にいました)

前回アップした記事でも書いたように、ヒロさんの娘と息子はそれぞれ宮城県外(山形、秋田)に出かけてた際に被災しました。周りの人達の協力の下、神奈川県にたどり着き、横浜の我が家にて再会することができました。そして、その直後、親(ヒロさんと奥さん)からの連絡があり、家族全員の無事が確認できました。本当に良かったです。

姉弟は今、三浦半島にある親戚の家にいます。ガソリンが手に入るようになれば、親戚といっしょに南三陸町を目指すとのことです。



ヒロさんの生存が確認される前も、確認された後にも、僕は息子(タク)に同じ質問しました。お父さん達が心配で早く帰りたいと思わないの?

「今の町の状態で行っても、皆の分の食料を減らしてしまうんで…」
彼の答えに迷いが感じられませんでした。その冷静な考えに驚きます。
今は自衛隊も入り、炊き出しもなされてきており、そろそろ働き手が必要になってくるころでしょうが、7日前の被災地はまだ混沌としていました。



震災後、この家族と関わって心に残ったことを書き留めました。
まだまだ安否の分からない方が大勢おり、被災地では途方に暮れそうな作業をしております。時には不快に感じる表現が含まれているとことを知りつつ書き連ねました。不快に感じられても、何卒、寛大な心で済まして頂ければ幸いです。


1. TV番組
3/14、22時過ぎ、
秋田の避難所に残されていたヒロさんの息子(タク)が羽田に到着した知らせを受け、超省エネ走行で息子を迎えに行きました。その時は、ヒロさんの安否が不明な状態でしたから、どこまで話していいのか探りながら会話しました。

で、帰宅後に失敗したと思ったことです。
我が家では震災の情報番組を流しっぱなしにしていたのです。タク君は秋田ではテレビを散々見ており、情報を収集していたようですが、自分の町の惨状と新たに発見された遺体の数を耳にした瞬間、彼の息が荒くなったのを僕は目にしてしまい、耐えるのが辛かったです。
 よって翌日朝は、「別の番組にしよう」と提案しました。彼も翌日合流した姉の返事も「何でもいいですよ」と素っ気ないのですが…。

この日はまだ、どの放送局も震災の映像ばかりで、テレビ関東だけが震災とはまったく関係のないヨーロッパの情景を放映してました。おかげで、部屋を和やかな雰囲気にすることができました。




2. 帰宅難民の援助
タク君が地震発生後の4日間、秋田でどうやって過ごしていたのか?
大学受験で秋田に出向いてました。新幹線のトンネルの中で被災しました。試験会場では選択肢を与えらられたそうです。

「今受験するか、それとも後日にするか」

震災のショックで試験に集中できない受験生のための対応らしいです。秋田を訪れる機会はそうそうないからと、彼はその場で受験することを決心しました。その時は、本人もまさか(津波に対して日々備えている)自分の町が壊滅したとは想像もしなかったとか。

交通手段が遮断され、志津川に帰れない彼は避難所の体育館で過ごすことに。テレビに写る変わり果てた町の姿を見て、自分の町に起きた惨状をようやく知ったと言います。避難所で眠れない夜を過ごしたそうです。

彼は幸運でした。
翌々日、帰宅難民の受験生を保護していた地元の人に声かけられました。タク君を含めて受験生3人は、地元の夫婦(年配の方)の家でお世話になることになりました。ご飯と寝る部屋を提供してもらい、震災で緊張していたにも拘らず、ぐっすり寝ることができたそうです。

山形で帰宅難民となった姉(シホ)と相談し、タク君は姉と神奈川で落ち合うことを決心。共通の友人の協力を得て羽田行きのチケットを確保しました。その時、この年配ご夫婦がとった行動には驚きました。


関東は停電だし断水もある。食料不足も。。

それを懸念した年配夫婦は、相手先(我が家)に迷惑を掛けないよう、出発前のタク君を風呂に入れ、着ているものも全て洗濯し新品の下着も買ってあげました。空港で夕食も食べさせて、タク君を飛行機に乗せました。さらには、大きなスポーツバッグを与えました。大量の食料を詰めて…。これは物凄く重かったんです。受験には絶対に必要ない重さ。きっと、関東で酷い目に遭っても大丈夫なようにって心配されたんでしょう。

この夫婦の旦那さん、どうやら僕と同じ業界でお仕事されているようでした。この素晴らしい行動に僕からもお礼を言いたかったこと、そしてご夫婦の心配も払拭したかったので、タク君に連絡先を聞こうとしました。

しかし、彼は一瞬戸惑って、
「向こうに聞いてからにして良いでしょうか…?」との返答。

すげー!!
「一応個人情報ですし。。」
今の高校生ってそんな教育受けているんですね。脱帽!(笑)




3. 日々の備え

タク君が横浜に到着した翌日、姉のシホちゃんも到着しました。
我が家で昼食を取り、でも電車は運休していた状態でしたから、動けずにのんびりとくつろいでいました。そこにお母さんからの電話が!

母 「○bs△oi×%’#$""...:@`!!!」(怒り声)
シホ「うん、うん、大丈夫。今、横浜! のりっくさん家!」
母 「原発のこと知ってるの!?」(僕の勝手な想像)
シホ「だから、大丈夫だって!新潟経由で行ったんだって!」

なんだか怒鳴られているようです。
あんたたちゃ、生きてて良かったとか言わないの??(苦笑)



電話の後、状況を教えてくれました。
車が無事で、秋田にいるはずのシホを迎えに、父親(ヒロさん)が南三陸町を出たところで、連絡できたそうです。(どっちが心配してるんだか!!)


この家族が助かった要因は、
・タク君が受験で出かけるので、ヒロさん夫妻は仕事を休んで家にいた。(運が良い)
・奥さんはいつ津波が来てもすぐに逃げれるように、通帳や印鑑を一つの袋に入れていた。(日々の備え)
・ヒロさんは、いつでもノアを発進できるような形で車を止めいた。(日々の備え)
なので地震後、両親が祖父母を乗せて車を発進させるまで、ものの数分だったと思われます。

さらに高台の倉庫にプリウスが一台。車二台と財産は守られたわけです。おまけに地震の翌日ネコも見つかったとか。今ではどこでも行けるスーパー家族です。

衛星電話で確認できた避難場所は、大勢の住民が目指したと思われる小学校や中学校とは反対方向に位置していました(トップ写真:赤いピンの場所がヒロさんがいた避難所)。大勢の人の流れとは別方向の高台を目指して車を走らせたと思われます。志津川には高い建物がほとんどありません。学校がある高台までは、海岸からかなりの距離があります。建物の3階でも波に飲まれたそうです。このような誰もが想定していないレベルの津波をヒロさんが予想していたとは思えませんが、緊急事態における避難場所とルートはあらかじめヒロさんが決めていただろうことを、子供達が教えてくれました。


日々の備えで命運が大きく別れると感じました。
・最低限持ち出すもの

・避難ルートと目的地


これらが頭の中にインプットされていることで大きく命運が別れそうです。
それから、地震後の連絡手段(集合場所、掲示板など)を、家族や親戚と決めておくのもとても大切なことだと思います。


被災していない僕達は、もう一度これらを確認しておく必要があると思います。
「想定外」というだけで、全てを失うわけにはいきません。







4. 明るい若者達

ケータイは被災者やその家族同士の気持ちを支えるのに重要な役割を果たしていました。mixiの安否情報掲示板は大活躍だったそうです。

姉弟が地元と離れていても、現地やその他の友人との繋がりは携帯電話でした(おそらく繋がる地域のみでしょうが)。僕と3人でいっしょにいても、それぞれ画面を眺めているのは、普通なら如何なものかと思ってしまいますが、とにかく、しょっちゅうお互いを励まし合っているようでした。

例をいくつか挙げると、
「わたしは今、マツコデラックス〜、この脂肪で寒さを乗り切るわ♪」
避難所にいるちょっぴり太った女子大生が、ブランケットを巻き付けた姿をメールで伝えきたようです。

「この(避難)生活続けたら、○kg痩せれる!」
女の子なんでしょうね。。汗

呆れてしまうほど明るい被災者達です。
子供達が我が家を出発する前に写真撮影したのですが、これまたピースサインする始末。お父さんの生存が確認されたとは言え、友達の安否も確認できてないんだし、ちょっと君達は不謹慎だなぁ…なんて言うと、シホの反論を喰らいました。

「先輩も後輩もみんな、『これからは若いうちらの出番だ!!(拳)』」ってノリなんです!」

何だかね、僕の方が元気を貰ってしまいました。
不快に感じる方もいるでしょうが、辛い時って、若者のこういうノリが起爆剤になったりするんですよね。






ヒロさんは近々、子供達を志津川に戻すと言ってます。
シホはこの春、志津川高校に赴任する予定でしたし、復旧にはこの元気な若者達の力が必要です。しかし、今後のことを考えると、いつまでこのノリが持続できるのか心配になります。

気が遠くなるような復旧作業も然り、今後の仕事の問題もあり、そのような問題のために復興支援が始まっているわけですが・・・・








町の人々は、再び志津川湾に家を建てるのでしょうか?






三陸海岸に住むことに憧れた人もいるかもしれません。僕はその一人でしたが。
しかし、今回はどうなんでしょう。
過去数回にわたり津波の被害を受けながら立ち直ってきた三陸沿岸ですが。。。

この友人家族に対して、志津川の町に対して、福島の原発問題や他の被災地に対しても、
僕には何ができるのか、
目前の復旧作業のもうちょっと先に思いを馳せると、
そこには、ただ見守ることしかできないちっぽけな僕がいます。



今は皆が力を合わせて「復旧」に力を注がねばなりません。
しかし、見かけ上の流通や経済が復活しても、たくさんの問題が残されるはずです。
町の「復興」には時間がかかることを肝に銘じたいと思います。

三陸の未来を支えるかもしれないシホやタクといった若者達を、僕はずっと応援していきたいと思います。
Posted at 2011/03/21 14:24:51 | コメント(9) | トラックバック(0) | 日記
2011年03月14日 イイね!

南三陸町(志津川)と私

南三陸町(志津川)と私今回の地震で大きな被害を被った町の一つ、宮城県の南三陸町(旧志津川町)。
 僕にとって馴染みのある町でした。
(画像は町のHPから転載)

この町の被害状況は最初は闇のベールに包まれていました。
現在、マスコミが入れるようになってきたおかげなのか、次第に明らかになってきています。
毎日のニュース、映像を見ていて気が気でありません。
マスコミのありがたみを非常に感じています。





思い出は10年前に始まります。
ひょんなことから、僕は志津川の1人の漁師(ヒロ)と知り合うこととなりました。
その漁師はカジキマグロを取るような漁師とは異なり、
志津川湾内でカキ、ホヤ、ワカメ、ホタテ、そして銀ザケの養殖をやっておりました。

船に乗せてもらい、漁師の仕事っぷりを拝見しつつ、取れ立てのカキやホヤを船の上で戴きました。
漁師が隣で仕事をしている際中に、僕は漁師の娘さん(しほ#1、当時中学生)といっしょに釣りをして遊ばせてもらいました。銀ザケの稚魚の餌やりを手伝いながら、この漁師の生活は志津川湾に密着した農業のようなものだと感じました。



初めて参加した志津川湾の夏祭りには感動したのを覚えてます。
港町ならではの雰囲気の夏祭りでした。
参加者皆に蟹が振る舞われます。
僕は大漁旗で飾られた船に乗せてもらい、他の漁船と共に湾内を何週も回りました。
つきんぼう(カジキマグロの漁法)の漁船から蟹が投げられ、船内でも蟹を食べ、酒を飲み…


牡蠣漁の儲けで建てたとウワサされるヒロの家はすごく大きくて立派でした。
一階は両親、二階はヒロの家族(4人家族)が生活してました。

祭りの後、二次会の宴会では蟹を投げたつきんぼう漁師がマンボウの刺身を差し入れくれ、
関西からの客人のためにと、他にも近所の連中がたくさん集まってくれました。
お礼に僕は手品を披露したのですが、なんだかヒロはあまり喜んでくれません。
宮城産の日本酒を飲みながら、漏らした言葉はこうでした。

「俺は認めね、みんなは騙されるかもしれるけど、志津川に初めて来たヤツで、特にのりっくさんは男だから認めね。。。 でもまた次ウチに来たら、その時は仲間として認める」
泥酔した上でのセリフでしたが、正直ちょっと複雑な気分でした。

翌々年(?)、再び訪れると、ヒロさんはその約束をちゃんと覚えてました。
「オレは前回、のりっくさんに失礼なこと言ったんダ。でもあれはオレの本音ダ。また遊びに来てくれたから約束通り認めるんダ」
盃を酌み交わし、ようやく認めてくれたのかと思い、うれしくて泣いちゃいました。



2005年の夏、
夏祭りのために志津川へ遊びに行った時は残念ながら、連日の大雨で夏祭りは中止。中山美穂と辻仁成の結婚で騒いでいるワイドショーを見ながら、3〜4泊したと覚えてます。その間ずっと天気も悪かったのですが、漁師ヒロの牡蠣御殿の中で子供達と遊んだり、子供達が近所の公園や砂浜、島を案内してくれ、小さな漁港の町をどっぷりと堪能できました。

町には小さな海洋研究所、ホヤやイソギンチャクなどの研究施設があり見学させてもらいました。こんな町で暮らしたいなぁなんて憧れました。



忘れもしない宴会中の出来事です。
ドーン!という地響きとともに地震がありました。
2005年の宮城県南部地震(M7)です#2
その時は志津川町には大きな被害はありませんでした。
揺れの直後に窓を開ける子供達の行動の意味が分かりませんでしたが、
「只今の地震、震度6、津波の心配はありません」
ひび割れた拡声器から流される町の緊急放送が聞こえることで納得しました。

志津川町(三陸地域全般なのでしょうが)は、50年前にも、
地球の裏側チリで起きた地震により、津波の被害を被っていた町なのです。
公園にはチリから送られた巨大なモアイ像(#3、トップ写真)が立っており、チリから送られてきたものらしいです。
あちこちに防波扉(水門)が設置されており、津波対策法を身に付けている町だと感じました。


結婚して以降、僕には子供が産まれたりして忙しく、年賀状のやり取り程度で、
なかなか志津川には遊びに行けてませんでしたが、
関西にいた時よりも近くなったので、近いうちに家族で訪れたいとずっと思ってました。





 今回の地震が起きた時、
僕は2005年の地震の様子をイメージしてしまい、最初は軽く考えてました。
しかし、次第に明らかになる惨状、TV映像で見ると、知っている志津川の姿は全くありません。
地形はなんとか思い出すけど、市場も、公園も水門もまったく見当たりません。
 当然、牡蠣御殿は流されていることは容易に想像できます。
今回の津波は、津波経験者の想像を超えた壮絶なモノだったに違いありません。

 
ヒロ一家が心配で、でもメールも電話もずっと繋がらず、
TVで流れる被災者名や伝言板、ネット上の情報を一晩中眺めました。

 

そして昨夜、共通の友人からメールがありました。
「今、しほと電話で喋っている」
ヒロの娘と息子が生きているとの吉報でした。
まずは本当に良かった!





以下、分かった情報ですが、、
ヒロの娘のしほ(大学4年)は就職(志津川高校…汗)も決まり、クラブ活動の用事で山形へ出かけていました。
息子(高校3年)は受験で秋田へ出かけていたので、二人とも津波の被害を避けることができたそうです。
二人の母親(ヒロの妻)は、避難所にいるとの不確定な情報があり、
ヒロと祖父母、3人の行方は今のところ不明なままです。

姉弟二人は町が壊滅状態なので、帰る場所がない状況。
ヒロは一人っ子で、親戚が少ない。
東京の友人、あるいは三浦半島にいる遠い親戚を頼りに、姉弟二人は神奈川を目指すと言ってます。
乗客が多く、さらに運休バスが多い中、シホは東京行き臨時便で八重洲を目指し、弟は飛行機で羽田へ。
東京で落ち合うとのこと。

明日、二人に会える予定です。

 
この先、南三陸町までの道が復旧するまで、あるいは仮設住宅が建てられるまで、
姉弟は住む場所を探さなければならないのかどうか、まだわかりません。
遠い親戚がどの程度まで頼りになるのか分かりませんが、僕や東京の友人も訪ねている状況をみると、全く面識ない間柄なのかもしれません。
我が家でも面倒みることになるかもですが、チビッコ二人がいる中、
姉弟二人を長期間滞在させるのは家の広さからも不安なところがホンネ。。
本人が希望するかどうかは別ですが。^^;
でも、映画なんかで見かける戦時中の疎開先の親戚達のような意地悪はしたくありません。
現在、僕の職場の宿泊施設にも相談中ですので、前向きに検討してくれることを願ってます。

ま、とにかく明日、もしくはそれ以降、
姉弟が生存を確認しあってから、気持ちをちゃんと落ち着かせた後ですね。
他人の僕が介入して、今後の相談に乗るのは…



TVを見て、たくさんの方が同じような思いをしていると思いますが、
姉弟の親のヒロさんと奥様、そして一人でも多くの命が救われることを心から祈ります。



取り留めもなく書き連ねてしまいました。お許しください。




 
#1、お気づきの方もいると思いますが、僕は子供の名付けに影響を受けたようです。笑

#2、僕は阪神淡路、宮城県南部、そして今回の地震と3度の大地震を経験したことになります。

#3、モアイ像参照ページ
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/photos/photo.php?lid=40
http://www.geocities.jp/thefoolonthehill_257/moai050718.html
Posted at 2011/03/14 20:13:28 | コメント(8) | トラックバック(0) | 日記
2011年03月08日 イイね!

これ欲しいなぁ…

先日、AJ5さんと寒い中で外飲みしてて感じたことですが、
ストーブがあっても空間的に暖めることができないので、やはり密室全体を暖めたいなぁと思いました。

以前から、特に肌寒い時期には、スクリーンタープがあっても良いなぁと思ってたのですが、ちょっと良さげなものを発見♪


Quechua(ケシュア)というフランスのメーカーのポップアップテント。



何よりも設営・撤収に時間がかからないのが魅力的です。

こういうタイプって強度的には弱そうなイメージありますが、
ペグダウンすればそこそこいけそう。
ぱっと広げて、ヤバくなってきたら、サッと撤収。

そもそも我が家は、強風や雨の時にはキャンプしませんしね。
広さ的にも肌寒いこの時期には活躍しそうです。

暑い時期には開放感のあるヘキサですし。。



あ、オフレポですよね。分かってます。。
ちょっと現実逃避…汗
Posted at 2011/03/08 21:26:06 | コメント(12) | トラックバック(0) | キャンプ | 日記
2011年02月26日 イイね!

菅平の夜

菅平の夜AJさん到着です~

外飲み中♪(笑)

Posted at 2011/02/26 22:25:33 | コメント(9) | トラックバック(0) | 日記
2011年02月23日 イイね!

【質問】SHグリルの取付け方

【質問】SHグリルの取付け方純正グリルがどうやって着いているのか知らないまま、グリルを改良してしまったので、
取り付けることができるのか不安になっております。

SHフォレのグリル装着方法をご存知の方、
頭の片隅にある記憶でも構いません。
教えて下さい!



写真は自作した純正グリル改の裏側です。

純正グリル改の裏下面には、写真のように、
A,B,Cの三カ所(左右合計ですと5カ所)のツメやネジ穴を残しています。
(左右中央にあったネジ穴(2箇所?)はフィンとともに切除しました)

A、グリル下面の中心にある横長の短い爪
B、ネジ穴
C、長いツメ 上下に2本

おそらくこれらは装着に重要ですよね?



A,B,Cの上には、オレンジの矢印で示したように、隙間があります。
この隙間は装着に必要なんでしょうか?

この隙間をアミの端が大きく占めていると、装着時に干渉するのではないかと心配しております。

さらにAの箇所は完全にアミで塞いでおります。
なんだか、これってマズそう…



装着しようとして、問題に気づいて、再度加工し直すことは避けたいのです。

問題点にお気づきの方がおられましたら、是非ご指摘ください。

よろしくお願いします。


追記:説明が悪くてすみません。
バンパー側に穴があり、そこにグリルの爪を差し込むのか、
もしくは単に上から爪を引っかけるのか。これが問題になりそうです。

追記2:Aの部分の隙間を塞いでいるのでこれが不安です。Aの爪はバンパー側に差し込むのか、それとも置くのか? 差し込むなら、網の再加工が必要です。
Posted at 2011/02/23 20:06:07 | コメント(12) | トラックバック(0) | パーツ | 日記

プロフィール

「ベイブリッジでの闇取引」
何シテル?   09/26 09:25
福岡(18年)→ 大阪(11年)→ 横浜(4年)と北上中。 2008年11月からフォレスターSH5A XS トパーズゴールド(稀少色!?)に乗り始めました。車...
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