2018年12月04日
年賀状をしたためる季節は、お世話になった方の逝去を知り、悲しみと在りし日の思い出に浸る時期でもあります。
本間誠二さんもその一人、今年4月に亡くなられたとのこと。
2月にOB会にお誘いしたところ、もう88歳になるので出かけるのが・・・とお返事を頂いたのが最後となってしまいました。直接お会いしたのは、2014年の8月の暑気払いの席が最後でした。
本間さんは、鈴鹿での第一回グランプリの計時委員長をはじめ、様々な競技会の役員として活躍されただけでなく、鈴鹿や富士の初期の計時システムの導入にも関わられたとのこと。
また日本のモータースポーツクラブの名門、日本ダットサンクラブ(NDC-TOKYO)の初代会長を務められました。
そうそうNDCの元会長と言えば、W大自動車部OBでもあったWさんやK大のIさんも近年相次いで亡くなられたなあ。
私がモータースポーツに入門した頃はスピードバードレーシングチームの代表として、東日本ジムカーナ連合で活躍されていました。
クリスマスツリー方式でスタート合図するシステムがありましたっけ。
個人的に一番思い出深いのは、ホテルグランドパレスでの東日本ジムカーナ連合忘年会の時のこと。
まだ社会人2、3年生で田舎者の私は、バイキングで同じ皿に料理を取っては食べることを繰り返していたところ、「バイキングの作法を教えてやろう、汚れた皿を置いて新しい皿で料理を取って食べるのだよ」と弁舌鋭く「指導」されたことです。
近年の本間さんは、本来の時計職人(セイコーのOB)として知られ、「本間さんに直せない機械式時計はない。」とまで言われるマイスターであり、機械式時計に関する本の執筆・監修をなさっていたようです。
また日本の自動車レースの黎明期を知る方がこの世を去りました。
もっとお話しを聞いておけばよかったなあ。
謹んで本間誠二さんのご冥福をお祈りします。
Posted at 2018/12/04 00:27:09 | |
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追憶 | 日記
2017年11月04日
退職記念に南欧州を1か月間旅行してきました。
そこで感じたことを書いてみたいと思います。
まずスペインのある街中のメインストリート(片側一車線、センターラインあり)は、横断歩道が歩道と同じ高さに作られていました。
クルマからみれば横断歩道が蒲鉾のような段差になっていて、そこを通過する際は否応もなくスピードを落とさざるを得ません。
歩行者からみれば横断する際、歩道との段差がないわけですから高齢者や車いす、そしてベビーカーにも優しい構造になっています。日本でも導入したらどうかなあ、と思いました。
次にイタリアでは、ドライバーは歩行者に対してやさしいです。信号がない横断歩道を横断しようとしているとクルマは必ず停止して歩行者が横断し終わるのを待ってくれます。
停止時間を短くしようと小走りで横断すると、あちらにはそのような人がいないのか、少し驚いたような、そして笑顔を返してくれました。これがまるでレースのように青信号に変わると同時にクラッチミートしないと後ろからクラクションを浴びせられる国と同じ国とは思えませんでした。
帰国して感じるのは、信号なし横断歩道を渡ろうとしても停止しないクルマの多さです。
道路交通法第38条では、横断しようとする歩行者、自転車がいる場合、クルマの停止を義務付けているのにです。
近所でも交通量が必ずしも多くない道路の横断歩道に住民の請願により信号がつくケースが増えてきました。当然その定期的に赤信号でクルマは停止を余儀なくされるのですが、その多くは横断者がいません。
押しボタン付信号でも、歩行者が渡り切る時間と信号が変わる時間の差が大きいケースが見受けられます。
クルマ側は、本来不必要な時間ロスと停車・発進・加速による無駄なエネルギー消費が生じるわけです。
日本のドライバーは、法令に違反して横断者のいる横断歩道で停車しないことにより、信号設置のコスト増と自らの時間とエネルギーの浪費をもたらしているように思えてなりません。
Posted at 2017/11/04 23:12:39 | |
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旅行 | 日記
2014年05月28日
最近芸能人の麻薬問題がマスコミを賑わせていますが、同名のクルマのことを思い出します。
GMのワールドカー構想に基づくJカーとして開発されました。
発売されたとき、周囲から「いすゞさん売る気あるの?」とよく言われました。
CMではそのキャラクターの名前に引っ掛けて、千じゃないよ二千だよ!とやっていて、田舎っぽい、ダサイ、と友人、知人たちからは散々で,そのハンドルを握っていた私を指さしてタイトルのようにからかわれました。
ジェミニの高橋真梨子といい、ピアッツアの阿川泰子といい、いすゞは玄人受けしたいいセンスをしているのに・・・と。
口の悪い自動車評論家のM本さんからは、自動車メーカーは新車に社運を賭けると言うけれど、簡単に出せちゃうもんだね、とも言われました。(ジェミニディーゼルを所有するなどよき理解者で叱咤激励していたのだと思いますが。)
しかし比較的軽い車体にターボチャージを搭載し、RACラリーでクラス優勝し派手さはないけれど、クルマ自体は面白かったと思います。当時ジェミニストであった私には、4ZC1Tを搭載し、リアサスを5リンクにすることなどを妄想していましたが。
一番思い出深いのは、今は無き谷田部のテストコースにおけるFIAのグループA、ターボディーゼル車における世界記録チャレンジです。1時間と24時間の2種類の記録に挑戦したもので、テストと本番と二回助っ人参加しました。CM?の撮影で高速周回路を初めて走る機会を与えられました。
あれから、30年。谷田部のテストコースは今は無く、兵どもが 夢の跡か。
Posted at 2014/05/28 23:32:28 | |
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追憶 | クルマ
2013年10月30日
5年前から毎年イタリアを旅行するようになりました。
友人たちはイタリア好きの夫婦と思っているようですが、以前はむしろキライな国でした。
家内も私も協調性に欠けるのでツアー旅行を好まず、新婚旅行先として選んだのがドイツ、オーストリアです。堅実できっちり仕事するから個人旅行でも何とかなるだろう、というのりでした。
期待を裏切らず何のトラブルもなく、全てが順調でした。レンタカーを借りてアウトバーンも走りましたが、車の性能によって追越車線はポルシェやベンツ、真ん中を中型クラス、右端を大衆車やトラックなどが、秩序正しく走っており道路標示もわかりやすく、日本語ガイドブックの地図程度で何とかなりました。人々も親切であの重いドイツ語が、頼もしく感じられました。
以来、ドイツ、オーストリアの他、チェコ、ハンガリー、スロバキアなどの東欧圏を好んで旅をしました。
初めてイタリアに足を踏み入れたのは、スイス旅行でチューリッヒ行きの予約が取れず、ミラノ経由を余儀なくされたときのことです。まだリラの時代でした。
ガイドブックには、交通機関の時刻表はあてにならない、街はゴミだらけで、スリなどの犯罪も多いから注意、と書いてあり、相当身構えて入国しました。
ミラノ駅で空港からのバスを降り、近くのホテルまでスーツケースを押していくと、前方に年寄りから子供までのジプシー一家が10人あまりこちらをみつめていました。その横をすり抜けようとした瞬間、網のように後ろから取り囲まれそうになりました。家内に「走れ」と叫んで先に見えていたホテルまでひたすら走りました。その晩は体は疲れているのに、不安感に苛まれなかなか寝付くことができませんでした。
翌日、半日ミラノ観光をしましたが地下鉄のスリ、ドーモ広場の鳩おじさん(えさの押し売り)などへの警戒で気が休まる暇もなく、スイス行きの列車が動き出すと、どっと疲れがでたのを覚えています。
しかしスイス国境を前に機関車が故障、イタリアは最後まで私たちを楽にはしてくれず、私は、イタリアアレルギーになってしまいました。つづく・・・・。
Posted at 2013/10/30 23:23:39 | |
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旅行 | 旅行/地域
2013年10月28日
久しぶりに訃報以外のことを書き始めたら、Mさんから今朝、カーグラフィック誌の元編集長、小林 彰太郎さんが亡くなったとの電話。なんということでしょう。
私自身は、両手両足で数えられるほどしか会ったことがないけれど、鈴鹿でのあるパーティーでミスターフェアレディーZの片山豊さんとご一緒させていただいたのが一番の思い出です。クルマへの造詣、愛情がほとばしるような、でも坦々としたお話ぶりでした。
富士スピードウェイでのグランチャンレースでサポートイベントとしてのクラシックカー走行会にみえていて、主催者よりコースが汚れないようオイル漏れの注意を受けると、「昔のクルマはオイルが漏れてあたりまえ、みんな帰ろう」と言っていたのは、もう30年も前の話。
ジャガーXJ6がカーグラの長期テスト車として納車された時、一晩その車内で寝たとの逸話をそれを譲り受けたHさんから聞いたことがあります。
先日、別の方から筑波のクラシックカーレースで会って、元気にしていた、と聞いたばかりだったので、驚いています。故人のご冥福をお祈りしたいと思います。(それにしてもこの言葉、何度目だろうか)
Posted at 2013/10/28 22:54:31 | |
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追憶 | 日記