
今日はホント暖かかったんですけど風が強かったですね~
そんな日は強風を避けながら近場をぶらっとショートツーリングを楽しむ事にしています。
まずは「吉高の大ざくら」

近所じゃ有名な大さくらですけど、まだ蕾の膨らんでいませんでした。

でも、近くの早咲き桜はもう満開ですね。
見晴らしいが良くてしかも近くに駐車場も無い(なにしろ墓地にありますからw)
穴場の存在です。
そして、久々にこちらへ来ました。

義民で有名な佐倉惣五郎を祀る宗吾霊堂です。(正式には東勝寺大本堂)

-以下抜粋-
宗吾霊堂は真言宗豊山派東勝寺の管理する佛堂であります。
今より360年前承応年間 下総佐倉藩の悪政により生活に苦しむ人々を救う為、
公津村名主(木内惣五郎)は徳川四代将軍 家綱公に直訴し十万の人々の命を救われました。
しかしその罪により承応2年(1653年)に本人と4人のお子様は刑に処され、
その遺骸を当山住職等が現在のお墓の地(当時の刑場跡)に埋葬されました。
その後、100年祭の時(1752年)に佐倉藩主堀田正亮公により「宗吾」の法号を贈られ
立派な俳位を得られてより宗吾様を祀るお堂を宗吾霊堂と称するのであります。
これだから宗吾霊堂を初め佐倉藩はいろいろな意味で興味をそそられるんですよ。
(個人比w)
「下総佐倉藩の悪政により・・」としっかり書いてありますね。
その時の藩主は3代将軍「徳川家光」とは寵愛の関係(今でいうBL?)だった「堀田正盛」なんですよ。
しかも1651年徳川家光の死去で当然のように殉死します。
当然、長男「堀田正信」が藩主となるんですが、その頃に今回の直訴事件が発生します。
そしてその後の「堀田正信」の行動が謎だらけで面白いんです。
1660年に突如幕府の失政を批判する上書を提出して佐倉城へ無断帰城。
当然、幕法違反で所領没収の上に弟の信濃飯田藩主「脇坂安政」に預けられます。
その後、1672年母方の叔父である若狭小浜藩主「酒井忠直」に預け替えられましたが、
1677年に密かに配所を抜け出して上洛、清水寺や石清水八幡宮の参拝を決行しちゃいます。
当然、その事は幕府に伝わり阿波徳島藩主「蜂須賀綱通」に預け替えされます。
そして1680年4代将軍「徳川家綱」死去の報を受けて鋏で喉を刺して自害しちゃいました。
不思議な事に飯田市地域には惣五郎を祀る祠や神社が多数(少なくとも11か所)あることがわかっています。
さらに松川入佐倉神社(1671年以前の創建と伝えられいる)まであるんです。
これはどうやら信濃飯田藩預入時に奇怪な行動が多く脇坂家もかなり困っていたようなんですね。
そして時は流れて1746年佐倉藩主として子孫である「堀田正亮」(堀田正信の弟である堀田正俊の孫)が入封。
100年の時を経て子孫が再度、佐倉藩主になるわけです。
そして次々と行動を起こしています。
将門山(佐倉市大佐倉)に惣五郎を祀り「口の明神」と称します。
さらに1752年惣五郎親子の百回忌の年であるとして口の明神を造営し、
「涼風道閑居士」の法号まで諡して、以後春秋に盛大な祭典を行っています。
1791年「堀田正順」(堀田正亮の6男)が惣五郎に徳満院の院号を送り、石塔一基を寄進。
1804年「堀田正時」(堀田正亮の9男)が惣五郎の子孫に供養田まで与えています。
ここまで堀田一族が手厚く対応し続けざるを得なかったと推測される事が非常に興味深くて好きなんですよ。
さらに家臣が残した記録にもいろいろと奇々怪々な出来事もあったようでとても面白いです。


今は開拓事業で小さくなってしまった印旛沼です。
きっと当時は海のように大きく見えたんでしょうね。
昔に思いを寄せながら妄想する、こういうツーリングも楽しいんですよ。
Posted at 2022/03/11 21:13:01 | |
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