いつも変わらずネットを徘徊する模型鉄でございま~すw
今回はひょんな事からゲットさせてもらった長野電鉄(2000形)になります。
正直なところ実車は見たことがあるんですが、乗ったことはありません。
まぁ~長野と言えば上田丸子電鉄がメインディッシュだったんですよね~
長野電鉄はどちらかと言うと地方私鉄と言うよりも準大手みたいにみんなカルダン駆動車ですから。
ところで今回入手した車両は今までで一番と言っていいほど丁寧に作り込まれたBトレインショーティーでビックリしました。
細部に至るところまでキレイに仕上げられていました。
なんと!当電鉄では初となるNゲージパンタグラフを標準装備!
はじめて動くパンタグラフを触りましたw
車輪にも色差し(銀色)されています。
(これはバッチリ映えますねぇ~)
全くバリもないので、単なる分解&清掃&再組立てして終了になっちゃいました。
車体内部のとても丁寧に組立てられています。
いつもの固定したパンタとは比べられないくらいですw
思わず架線のモニュメントが欲しくなってしまうようなサイドビューになります。
ちなみにこちらは第一編成(A編成)「2001+2051+2002」でした。
なにしろ車両についてはまったくの知識が無いのでちょっと調べてみました。
まずはモデル化されて販売された種類がこんなにあったんですね。
改めて長野電鉄2000形のバリエーションの多さに驚きました。
・りんご色塗装
・現行塗装(もう引退しちゃったんですけどね)
・マルーン塗装
=長野電鉄について=
長野電鉄は前身と言える河東鉄道によって1922年(大正11年)に屋代~松代~須坂間が開業し。翌年には信州中野まで延伸。
1925年(大正14年)には須坂~木島間が開業し、翌年には電化されています。
この付近は豪雪地帯として大正時代からスキーが盛んに行われ、豊富な温泉資源もあることから地元の共有地であった周辺の山々を租借して「志賀高原」とネーミングしたんですね。
しかも当時の長野電鉄社長であった神津藤平氏の出身地「長野県佐久地方志賀村」から命名されているんですね。
1929年(昭和4年)からリゾート地として広く宣伝され、同年2月にはノルウェーのスキー連盟副会長であるヘルゼット中尉が親善来日してスキー適地と評価、8月には秩父宮夫妻が近傍の山に登山したことから全国的に知名度がアップしました。
1935年(昭和10年)には「国際スキー場」として指定され、戦前から著名な高原リゾート地となって発展しています。
戦後は一時、進駐軍によって接収されましたが、その進駐軍が1947年(昭和22年)に日本初のスキーリフトを設置されています。
まさに世界的に見ても一大リゾート地として認識されているんですね。
ちなみに野沢温泉観光開発も野沢グランドホテルも長野電鉄の子会社なのは知りませんでした。
=2000形について=
さて、戦後の復興と観光需要で輸送力不足が著しくなった長野電鉄は1947年(昭和22年)東武鉄道からの供出車両に続いて、
翌1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)まで初代1000系および1500系の17m級・2扉車の合計14両を製造しています。
(木造車の鋼体化改造も含めます)
これにより輸送力増強には大きく貢献したんですが、通勤型のオールロングシート車であることから観光客(乗車時間が1時間から1時間半)にはとても快適とはいえず、1956年(昭和31年)に新型特急電車の導入を決断しています。
その特急用車両には、前年の1955年(昭和30年)に日本車輛製造(本店)が名古屋鉄道に納入した最新型の特急電車5000系を指定しています。
これは当時の大手私鉄の最新型電車と同等の要求でした。
・電動車2両の「Mc+T+Mc」の3両編成を基本として「Mc+T+T+Mc」にも対応できるようにする。
・車体は軽量で強度を確保するためセミモノコック構造とする。
・外観は流線形とし客室設備にも配慮し観光鉄道にふさわしい斬新な車両とする。
・戸袋部分はロングシート設置し、客室座席は2脚ずつの回転クロスシートを装備する。
・軽量かつ高速に適する防振台車を採用する。
・主電動機は75kw級とし、狭軌用のWN駆動方式とする。
・電空併用ブレーキを用いる。
・抑速ノッチを設ける。
まさに名古屋鉄道の5000系を見本として細部に渡り詳細な仕様まで注文していたんですね。
発注を受けた日本車輛製造(東京支社)は、本店が製造した名古屋鉄道の5000系をベースに新設計し直して、ボディスタイリングを踏襲しつつもオリジナルな車両となりました。
どうりで似た感じの車両だったはずですね。
ちなみに名古屋鉄道の5000系はBトレインショーティー化されていないので貴重な存在ですね。
=駆動方式に問題発生=
1950年代はまだまだ吊り掛け駆動方式が主流でカルダン駆動方式はメーカーと鉄道会社が試行錯誤を繰り返している状態でした。
そんな中、東洋電機製造は1953年(昭和28年)中空軸平行カルダン駆動システムを独自開発し、翌1954年(昭和29年)には狭軌用の同システムも開発が終了して鉄道会社へ納入しています。
一方、制御装置を含めて長野電鉄と古くから付き合いのある三菱電機は1953年(昭和28年)提携先のWH社からライセンス提携を受けてWN駆動方式を納入していましたが標準軌の線路幅だけでした。
なにしろWN継手は中空軸平行カルダン駆動に比べてスペースが必要で主電動機の軸方向に制約があるので狭軌用開発は困難を極めています。(名古屋鉄道の5000系は中空軸平行カルダン方式を採用しています)
それでも三菱電機の技術陣が奮闘してようやく2000形に搭載されることになったんですね。
その後もさらにWN継手の強化改良が加えられて大出力な電動機にも対応できるまでに発展しました。
この長野電鉄の2000形が三菱電機のWN継手の技術革新に大きく貢献したわけなんですね。
ちなみにカルダン駆動は車軸と主電動機との継手部分が一番のキーとなる部分なんですね。
・東洋電機製造:中空軸平行カルダン駆動→TD平行カルダン駆動
・三菱電機:WN駆動方式
・東芝・日立製作所:直角カルダン駆動方式
・神鋼電機:垂直カルダン駆動方式
現在ではほとんどの鉄道車両はこのカルダン駆動方式なのですが、機関車に関しては吊り掛け方式のままなんです。
これは特段に大きなパワーを伝達する必要がある機関車には無理をしてまでカルダン駆動にする必要が無いからなんですね。
さて、それでは恒例の車両紹介になります。
=長野電鉄(2000形)諸元=
製造所:日本車輛製造
製造年:1957年(昭和32年)~1964年(昭和39年)
製造数:12両
運用開始:1957年3月(昭和32年)
運用終了:2012年3月(平成24年)
編成:3両編成(2M1T)
軌間:1,067mm(狭軌)
電気方式:直流1,500V(架空電車線方式)
最高運転速度:100km/h
起動加速度:2.6km/h/s
減速度:3.5km/h/s
全長:18,600mm
車体:普通鋼
台車:揺れ枕吊り台車(NA4P:電動車、NA4:付随車)(日本車輛製造製)
軸ばね部分をウイングばね式ペネスタル構造に改造。
最終編成のみベローズ式空気ばねを装備したウイングばね台車(NA-315)
主電動機:直流直巻電動機(三菱電機製:MB-3032A形)
主電動機出力:75kw
駆動方式:WN駆動方式
歯車比:6.13
制御方式:抵抗制御(三菱電機製:ABF-108-15形)勾配抑速ブレーキ機能付き
制動装置:電空併用電磁直通ブレーキ(三菱電機製:HSC-D形)
保安装置:ATS(点制御車上速度照査式)
=運用と経過=
A~C編成までの3編成が日本車輛製造(東京支店)で製造されました。
1957年(昭和32年)長野~湯田中間の特急として1日5往復で運転開始。
1959年(昭和34年)C編成も加わり増発。
1962年(昭和37年)長野~木島間の特急列車を新設し運転開始。
その後も観光客は年々増加しており、名古屋鉄道7000系のようなパノラマカー導入の計画もありましたが、2階運転席やタブレットの授受対応で中止となり、D編成の増備となりました。
ちなみにD編成は日本車輛製造(本店)で製造され、台車の空気ばね化・スカート装備が行われました。
その後は観光客のマイカー利用により乗客が伸び悩み、長野~湯田中間での運行となりました。
1980年(昭和55年)長野~善光寺下間の連続立体工事(地下鉄化)に伴って、1981年(昭和56年)難燃化対策と誘導無線取り付けが行われました。
1989年(平成元年)から1990年(平成2年)に渡り、日本車輛製造で冷房化工事・2連窓のユニットサッシ化・前照灯の小型シールドビーム化・内装の張替えが行われています。
1999年(平成11年)営団3000系電車のS形ミンデン台車FS-510形(廃車発生品)をA編成に換装しています。
また、この頃に全編成がワンマン化改造されました。
2005年(平成17年)東急8500系を購入して運用開始、これにより2000形B編成が運用を離脱し、翌2006年(平成18年)廃車されました。
また、同年8月には元小田急10000形(HiSE)4両編成2本が無償譲渡され、2006年(平成18年)からA特急「ゆけむり」として運用開始し、2000形C編成が運用離脱。
2007年(平成19年)特急運転開始から50周年を迎えてA編成は登場時のマルーン復刻塗装になりました。
またD編成も「りんご色」に塗り替えられました。
2011年(平成23年)元JR東日本253系「スノーモンキー」が営業運転開始し、A編成は営業運転を終了しています。
残ったD編成はイベント時の臨時列車や一部定期列車の代走として運転。
2012年(平成24年)3月31日、この日で廃線となる屋代線の最終営業列車として須坂~屋代間の1往復に充当されて屋代線とともに2000形は営業運転を終了しました。
←湯田中 長野→
・A(第1)編成:モハ2001+サハ2051+モハ2002
納入日:1957年(昭和32年)2月、廃車:2011年(平成23年)3月
・B(第2)編成:モハ2003+サハ2052+モハ2004
納入日:1957年(昭和32年)2月、廃車:2005年(平成17年)8月
・C(第3)編成:モハ2005+サハ2053+モハ2006
納入日:1959年(昭和34年)11月、廃車:2006年(平成18年)12月
・D(第4)編成:モハ2007+サハ2054+モハ2008
納入日:1964年(昭和39年)8月、休車:2012年(平成24年)3月
※D(第4)編成を除いて廃車されています。
=まとめ=
なにかと全国にある中小私鉄とはちょっとちがう感じがする長野電鉄。
長野県の北部地域で数々の事業を展開する「ながでんグループ」の中核企業として鉄道事業を営んでいるんですね。
市内を走る路線としては大都市以外では非常に珍しい地下区間があります。
しかも、架空電車線方式で建築限界等の安全基準をクリアしていることから非貫通な車両も乗り入れ可能なんです。
さらに通勤・通学に対応する高頻度な運転を行っていて、定期特急列車も常時運転しています。
特に車両を自社発注する際には大手私鉄並みの最新型な仕様にこだわる、とても先進的な会社なんですね。








