彼の異常に気付いたのは、会社の人事異動があってから半年ほど過ぎた頃だった。
朝6時には自宅を出て、帰りはいつも午前に替わってから。
休日出勤も当たり前のことで、たまの休みは1日中寝て過ごす。
いつもは自分で起きてくる彼が、朝起きてこないので部屋を覗くと、
布団を被って泣いていたようだった。
その時は何も言わず、いつもより少し遅れて家を出たのだけれど、次の休日、
彼は夕食の時間になっても部屋から出ては来なかった。
表情に乏しく、そう言えば彼が笑うところを見ていないことに気付いてはいたけれど、
事態はもっと深刻だった。
鬱(うつ)病。
予想はしていたが、病名を聞き、医師からの説明の内容に強いショックを受けた。
死なせないで下さい。 彼を失いたくない。
言ってはいけない言葉や注意を受けた後、仕事を辞めるべきとも言われた。
マイホームのローンもあるが、次元の違う比較と思えた。
会社への通知については、彼ひとりで対処できる状況では既になかった。
英語を使うとは聞いていたが、私が会社に出向き、彼の上司に相談するまで、
彼の部署が彼以外全て外国人であることも知らなかった。
長期の休暇を願い出た後も、彼は毎日寝続けた。
本当に寝てばかりだった。
子会社への出向の辞令後も出社できず、いっそのことと私達は旅行を繰り返していた。
彼は運転が出来る状態ではない為、私が運転をする。
静かに助手席で座っているだけの彼と、暫く会話がなかったことに気付いた。
そんな気付きも遅れたせいか、明るい材料や兆候はなかなか見られない。
生活や収入の悩みもあるが、私は今の彼と精一杯向き合う覚悟を決めた。
ある日、彼が突然、欲しいクルマがあると私に言った。
BMW X6。
名前を言われても覚えのない私に、彼はノートPCを使い説明を始めた。
正直、見たことのないクルマだった。
今のクルマは中古で買って5年、10年目のBMW5シリーズ。
古さを感じてはいるが、昨年マンションを買ったこともあり我慢していた。
病気だから言えるのかもしれないが、彼はどうしても買いたいと言う。
私は、少しでも彼に良い変化が起きればと思い、貯金を全て下ろした。
医者からも勧められないと言われていたクルマの運転だけれど、
彼は新しいクルマに積極的に乗るようになった。
心配なので、助手席には私が乗る。
彼は、好きなクラシックを聴きながら運転をする。
X6、離れて観ると小さく感じるのだけれど、近くで扱うと大きい。
スポーティなデザインに加え、高級感が漂う。
室内は広くは感じないが、これはBMWだという堅牢さみたいなものがある。
クーペのようなSUV、確かに格好良い。
彼とドライブをするのが日課となった。
箱根方面へ出かけたり、東北まで足を延ばしたり、日帰り温泉にも行った。
慣れてくると、硬めの足回りやシートにも馴染んでくる。
乗っても眺めても良いクルマだと思う。
真面目さが取り柄の彼は、法定速度を守り、周りの流れに乗せて走る。
運転も上手く、ワインディングも危険を感じることなく楽しい。
良いクルマは包まれているような心地良い安心感がある。
2人で過ごす時間が増え、会話も増え、スキンシップも増えた。
もう大丈夫かなという時が危ないと医者に言われているから気を抜けないけれど、
結婚してわずか数年の間に忘れかけていた会話を取り戻した気がする。
症状も落ち着き、新しい会社にも慣れ、水が合ったように穏やかに出かける彼。
出張が多く、日本全国を駆け回っている印象だけれど、本人は楽しいみたい。
お土産にご当地キティを買ってきてくれることも、私の楽しみになった。
携帯メールも頻繁で、女性の影も見え隠れするが、気付かないフリを続けている。
だって私まで鬱になりたくないもの。
Posted at 2010/07/09 17:05:23 | |
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