勝てない対局が続いている。
将棋を指すのが仕事とはいえ、負けが込めば苦しい。
圧されると受けになり、呑まれて一気に流される。
4歳の時に始めた将棋。
小2の時、優勝賞品でプロ棋士からサイン入りの扇子をもらった。
リレー選手のバトンのように、何かを託された気がした。
天才なんて言われても、上には上がいくらでもいる。
それでも、夢や憧れではなくプロになると決意。
週末、ひとり上京する日々が続いた。
将棋は、礼に始まり礼に終わる。
一手一手が決断の連続で、必ず勝ち負けがある。
ゲームのようにリセットはない。
対局は、静かに、穏やかに見えても、時間との戦いだ。
勝っても喜びを表に出さないのが、相手への礼儀。
礼を重んじるのは、自分が負けることもあるからだろう。
今日は遠縁筋の法事があり、両親の代わりに出かけた。
滅多に会うことのない親戚も、顔だけは覚えてるもの。
僕が成人してから、初めて話す人ばかりだった。
法要後の会食が始まってすぐ、僕の伯父さんが声をかけてくれた。
「呑めないんだろ? 出かけるぞ」
下戸な僕を気遣って、外へ連れ出してくれた。
伯父は変わり者と言われているが、僕は昔から大好きだ。
水道工事関係の会社を経営していて、日に焼けた肌に筋肉質な体型。
親戚中でひとりだけ関西の大学を出ている。
朴訥(ぼくとつ)で多くを語らないが、何かが面白く、格好良い。
庭を抜け駐車場に出ると、黒いクルマの中に場違いと思える1台。
カエルかナマズのような顔つき、薄いベージュのMG。
僕は初めて観るイギリスのオープンカーが座っていた。
法事に黒着てオープンで来るってのもどうかと思うが、伯父らしい。
シートのデザインが凝っていて、畑の畝(うね)のようにでこぼこしている。
生地の元の色は白なのか茶系なのか、かなり年季が入っている。
細く大きなハンドル、軽く乾いたエンジン音。
クラッチを何度も踏み、1速1速丁寧にギアを入れる。
「やっぱり古いと走らせるのが難しいの?」と聞くと
「古いのと難しいは別だ」
「普通にスピードは出せるの?」と聞くと
「スピードと楽しいも別だ」
なるほど、もっともな答えだ。
進学せず僕は棋士になると宣言し、両親に反対された時も、
この伯父だけは反対せず真顔でつぶやいた。
「禿げずに済む」
確かに棋士に禿げは少ないと僕も後で知ったが、因果関係は不明。
既にかなり後退していた父の頭を、皆が見た。
「この不況で、商売は厳しいんじゃないの?」と尋ねると、
「苦しい」と。
しばらく沈黙があった後、
「だが、俺にはこれしかないからな」
プロの厳しさは、どんな世界も同じだろう。
負けられない局面で、相手より勝ちたいという思いが強いほうが勝つ。
負けると思った瞬間、言い訳を考える自分が現れ、集中できなくなる。
苦しい時、僕は子供の頃の大会を思い出す。
どんな小さな大会も、トーナメントは一戦必勝、相手次第で運もある。
負けて悔しくて、泣いて泣いて泣き腫らしたこともある。
でも、もう指すのをやめようとは考えなかった。
必死だったが、楽しかった。
好きだから続けられたのだと思う。
「お前も将棋しかないんだから、楽しめよ」
風を受けながら聞いた伯父の言葉が、胸に響いた。
Posted at 2010/10/06 17:50:18 | |
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