絶縁状態の親父が、大腸がんで手術するとの知らせが入った。
酒好きで見栄っ張りの親父と対立し出したのは、高校の頃。
距離を置くために、地方の大学で寮生活をした。
就職で戻っては来たものの、お互いに干渉する機会がないうちは良かった。
修行のつもりで外の飯を食い、社内恋愛で結婚。
家業を継ぐべく親の会社に入ってからは、お互いの亀裂が修正出来ぬものと悟った。
親父を会社から追い出し、資産を全て処分、自らの血と肉を削った。
僅かな収益を積み重ね、雑巾を絞るように余分な水分を省く努力を重ねた。
若い会社として、アスリートとして、今再び歩き出したところかもしれない。
ひどい状態で会社のバトンを渡された私は、正直、親父を恨んだ。
先を見据えた経営どころか、破綻寸前で逃げ出したとしか思えなかった。
この期に及び責任転嫁としか思えず、許せなかった。
自分さえ良ければいい、そう見てとれた時、親父への遠慮や容赦はなかった。
身包み剥いで、人里離れた山奥の古家に隠居させ、もう2度と顔を合わせぬつもりでいた。
が、私達夫婦に子供が生まれ、成長するに連れ、妻に言われた。
「あなたがお義父様を恨む気持ちは、わかるつもりです。
でも、その恨みを子供達に伝えるのは、間違いです。
子供にとっては、おじいちゃんなのですから」
久し振りに訪れた、親父が住む家。
古いガレージに入ったままの、ジャガーXK8。
資産を処分した時、これは手放さんぞと親父が持って行ったクルマだ。
当時、ジャガーが売り出したスポーツタイプのクーペ。
資産処分の際、古くて価値もないと判断し、そのままだったことを思い出した。
今も動くかどうか定かでないが、ナンバーがついているから車検は通しているのだろう。
物覚えがついた頃から、親父はいつもジャガーに乗っていた。
高速で追い抜くさまを、喜んで眺めていた小学生の頃の自分。
泊りがけで毎週のように通ったスキー場へも、ウェイクボードに出かけたマリーナへも、いつもジャガーだった。
競技会で負け不貞腐れた私を乗せ、家路につく親父とジャガー。
悔しかったのは私だけじゃないのに。
叱るでもなく諭すでもなく、無言で送り迎えをしてくれた親父の気持ちを酌む余裕が、私には無かった。
呼ばれた時間に間に合うよう、直接病院へ向かう。
個室で執刀医からの説明を受け、同意書にサインし押印。
その後、妻子供とやむを得ず親父がいる病室へ入った。
嫌らしい程強い眼光だった親父の面影はなく、枯れた老体がそこにあった。
私に気付きこそすれ、目を合わす気配はない。
5歳になる息子に周りの注目が集まり、和んだ雰囲気を求めるように皆が話しかけた。
人はいつか死ぬ。
60代の死因の半数は、がんだ。
用無しとなれば、死は受け入れるべきものだと私自身そう思っている。
手術で死のうがボケようが、親父を許すつもりはない。
親父も、私に頭を下げる気は毛頭無いらしい。
親類が集まる中、私は無言で病室を離れた。
今生の別れになるかも知れない。
もしここで、親父の口から「すまなかった」と詫びの言葉か「ありがとう」と言われれば、何かが変わったかも知れない。
が、親父はたとえ死を目前にしても、息子である私への態度を変えることはなかった。
言葉ではなく、身をもって伝える生きざま。
すまなかった、ありがとうと言葉にしなければいけないのは、私のほうなのに。
オトコってのは、ほとほと無器用なイキモノらしい。
Posted at 2011/03/08 10:22:02 | |
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