「2、3か月前、何かありました?」
いつもの理容室に来て、変な問いかけをされ返事に困っていると、
「禿げができてますよ。それも何か所も」
髪を切りながら驚いたように後ずさりされると、良い気はしない。
何度も「うわっ」とか「えっ」とか言われては、たまったもんじゃない。
短くしてくれと言った俺が悪いのか。
「これ、たぶんですけど、ストレスによる脱毛だと思います。
はやく戻るといいですけど・・・」
髪のプロにそう言われると、歯科医の俺としては返事に困る。
予期せず膿が飛び出してくると、反射的に一瞬後ろへ引いてしまう時がある。
俺の髪を切る彼が、今まさにそんな感じだ。
ここ半年ほど、忙しいと言うかトラブル続きだった。
多忙とスタッフの退職が重なり、冷静さを装いながらもいら立っていた。
おまけに技工士を替えざるを得ず、慣れない対応に追われていた。
痺れ出したのは、左側の側頭部だった。
だんだんと痺れる範囲が広がり、頭頂部から頬辺りまで痺れていた。
気にしなければそれまでのことと、風呂でマッサージする程度で済ませていた。
理容師のセリフが気になり、内科医の友人に電話してみる。
診療時以外に個人的な相談は避けたいが、病院にかかる気は全く無かった。
「右手で指を鳴らしてみろよ」
健康相談は毎度のことなのだろう。
尋ねると、ダルそうに淡々と告げられる。
携帯電話越しに指を鳴らしてみるが、どうってことはない。
「片足で立っていられるか?」
左手で携帯を耳に充てたまま、右手を横に伸ばし右足をあげる。
これも大丈夫、問題ない。
「ふーん。ま、その2つが出来なくなったら手遅れってことだ。
そのうちに呂律が回らなくなって気付くかもな。
人生、何が大切か、考えろよ」
翌日、大学にお願いし、臨時の歯科医師を交替で派遣してもらうよう依頼。
休暇をとると妻とスタッフに伝え、2カ月間の休養を決めた。
自営の仕事に区切りなんてつくはずもなく、職場放棄のようなものだ。
と言って、家にいても何もすることが無い。
妻は労わってくれる訳でもなく、いつものように家事をしている。
子供たちは学校に出かけ、部活動と塾に通い、会話が増えるでもない。
「どこか1人で旅行でもしてきたら?」
妻にそう言われても、内心ときめく訳もなく、読書にふけるばかり。
散歩するほど年寄りでもなく、ジョギングするほどの体力も無い。
クルマを磨くことにした。
道具としか考えていなかったBMWを、時間をかけて洗車しワックスをかける。
すると、これまで気付かなかった細かな傷や、ボディラインが見えてくる。
ショップでホイールとタイヤを替えてみた。
店員に勧められるまま購入したシュニッツァーにピレリ。
外観も乗り味も、シャープなイメージに変わった気がする。
「カッコイイですよね、このクルマ。
私の一番好きなBMWなんです」
店員の女性に言われると、悪い気はしない。
あまり気にせず乗っていた5年目の530i。
家族4人、安全に移動できれば良い程度の理由で、勧められ購入した。
物事へのこだわりなんて、深く考えてこなかった気がする。
追われるように患者を診て、次々に辞めてゆく歯科助手を募集しては面接し、
ローテーションを割り当てて給料を支払う。
大学を離れ、開業してからというもの、ローンの支払いだけを考えてきた。
「良かったら運転してみる?」
どうしてこんなセリフが出てきたのだろう。
口に出した自分が一番驚いている。
やはり俺は病気なのかも、そう、病気のせいだと言い訳まで考えていた。
「明日は休みなんで、昼からの待ち合わせでいいですか?」
言いながら見つめる彼女の瞳が潤んだ気がした。
こんな気持ちは久しぶりと言うか、熱いものが身体にこみあげてくる感覚。
冷静にと自分自身に言い聞かせつつも、笑顔を押さえられそうにない。
リハビリなんだ、これは。
俺にとって必要な出会いを、神様が授けて下さったに違いない。
はにかむような若い彼女の笑顔が眩しい。
奥のバックヤードから2人を観て、ほくそ笑む男がひとり。
ツナギの袖をたくし上げた彼氏の腕に、黒いタトゥが覗いていた。
Posted at 2012/02/25 16:34:18 | |
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