
丘を越えて、下ると突然その光景は現れた。
『アッ!』
誰もが息をのんだ。沈黙だった。
想像を絶するとは、まさにこの事だった。
海岸から約10キロ、海抜50mは津波であたり一面、瓦礫と土砂だった。
地震から3日後、突然電話がかかってきた。
『45分後に福岡県緊急援助隊として、被災地へ出発!』
『早急に集まれ!』
『よし!俺は被災地へ行きたい!』
っと思ったことを、反省した。
あまりにも軽率な考えだったと・・・。
被災地は、何もかもが不足していた。
朝6時というのに、ガソリンスタンドに400台の列が並んでいた。
気温は、-4℃。
燃料を少しでも節約するために、エンジンを止めて毛布に包まって並んでいた。
水はなく、風呂に何日も入っていないだろう。
現地の消防職員の生の声を聞いた・・・。
『地震から、まだ家に帰っていない。』
『妻が行方不明』
『実家が流された』
などの、話を聞いた。
何も言えない。
何も声をかけられなかった。
活動時間は、日の出から日没までだった。
余震はまだ続いていて、時には退避命令が出た。
津波が来るかもしれない!
死ぬかもしれない!
っと車に飛び乗って、避難した。
怖かった。
放射能は1時間おきに測定された。
帰ってからわかったが、セシウムが付着していた。
活動していると、子供の靴や遊具。
アルバムとか沢山あって・・・。
『この子は生きているんだろうか・・・。』
っと考えた。
警察も自衛隊も、医療従事者も、そして企業も、皆が被災地へ向かっていた。
福岡県隊の第一陣の派遣が終了した。
普通に家に帰れる。
ただそれだけ。
それだけのことだけど、嬉しかった。
蛇口をひねれば、水が出た。
トイレで用を足して、水が流せる。
ただそれだけ。
それだけのことだけど、感謝した。
今も緊急援助隊として、どこかの県で同僚職員が派遣されている。
第何陣まで派遣されるだろうか・・・。
長期化することは、間違いない。
私が行ったのは、ほんの少しの期間。
被災地の方に比べれば、たいした期間じゃない。
これから私の仕事は、一人でも多くの人にこの被害の大きさを伝えることだ・・・。
そして、支援を皆さんに協力して頂く事だ。
よって、写真の一部を載せる。
景観上の復興だけではなく、心の復興まで回復するのは、どれ位の期間かかるだろうか。
被爆の可能性があるため精密検査と、創造を絶する現場へ行ったとのことでメンタルヘルスケアーをうけた。
しかし、これだけは言っておきたい。
『街は死んだが、今も人は生きている。』
Posted at 2011/04/14 11:10:56 | |
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