
最近1年間の訪問国はやはり中国が一番多いです。
またほとんどが東南アジア近隣諸国。
最近は仕入先様の脱中国の動きが目立ってきてます。
一番ハードだったのはシンガポール日帰りに近い1泊出張。
午前便で6時間かけて現地入りし、1日仕事をして深夜便に飛
び乗り翌早朝日本着。
空港到着前に午後10時頃腹ごしらえと軽くお酒を引っ掛け思い
切り寝るぞと意気込んだものの・・・
現地時間深夜1時出発便に搭乗し、やがてすぐ夜食と思いきや
数時間でまた朝食。
「寝かせてくれー」と思いきや寝る間もないあっという間の過激
フライトです。
その他、上海日帰り、ソウル日帰り等々。
考えたら福岡から上記2箇所は東京行くより近いですもんね。
いやー地球も狭くなったものですね。
今は通信インフラが整いどこにいても携帯電話、メール等々を
駆使し時間と場所を選ばずリアルタイムでの無差別攻撃。
逃げ隠れする場所すらありません。(笑)
初めての中国訪問は学生時代の1980年夏。
大学への国賓留学生1人を含む5人で北京→西安→重慶→武漢
→上海へ列車による約2週間の珍道中を体験。
当時はまだ自由化されて間もなく、時間が止まった昭和30年代へ
スリップした感じ。
今、思えばよく当時の中国なんぞ旅行で行ったものです。
無知ほど怖いもの知らずはありません。
この時は勿論携帯電話なんぞあるはずもなくまた現地ではFaxす
ら普及していませんでした。
日本への連絡手段は唯一、シティーホール(聞こえはいいがビルと
呼ぶには程遠い)にある交換手経由の手回し式回線電話やTelex
(死語)のみ。
これがまた全然つながりにくく、かつすぐ途中で切れると言う中華
製超一級品。
外国人が宿泊できるホテル(賓館)などあるべくもなく招待所と
呼ばれる牢屋のような寄宿舎に寝泊りしました。
部屋には今にも切れそうな白熱電球一つがぽつんとある8人部屋。
戦争映画で見る野戦病院の如く鉄パイプベッドが並んでました。
寝る時はバッグを盗まれないよう枕代わりに抱いて寝るようにと・・・。
またどこへ行くにも行く先々で規制があり中国共産党の監視員が
同行。まるでVIP気分!?いや犯罪人扱い!?
街を歩けば人民服を着た老若男女からじろじろ見られ奇声のよう
に聞こえる中国語が飛び交う喧騒の町並み。
とにかく街行く人の声が超馬鹿でかいのなんの・・・
乗用車は皆無で自転車もまばらでした。耕運機のようなトラックが
ちらほら・・・・天然記念物級の木炭車も現役ばりばり。
思わず「アイヤー」の連発でした。
今の中国モータリゼーション等想像すら出来ない時代でした。
当時、外国人は兌換券と呼ばれる専用通貨しか持てず闇両替の
お兄ちゃんが目ざとくぞろぞろ着いて来たものです。
現地通貨の人民元では外国製品が買えず、唯一兌換券でのみ
国営商店(死後)にある外国からの舶来品(死後)を買える為、共産
党幹部から指示された闇両替商が横行し外国人と見るやせっせと
兌換券集めをしていると言うことでした。
非常食としてしこたまカップラーメンを持参するも即なくなり現地の
水にあたり2週間の滞在でげっそり痩せたのを覚えています。
いやー何に一番困ったって?大の方のトイレです。
裏道にある溝だけのトイレ、男女仲良くしゃがんで談話の世界です。
ティッシュも切れチョー硬いごわごわの新聞紙がお尻の友達になり
ました。
移動中列車内のトイレも想像を絶する衛生状態で駅に停車時、一
斉に列車外へ猛ダッシュを何度も繰り返しました。
初めての海外旅行、恐るべし中国を肌で感じもう二度と来ることは
ないだろうと身も心も感動??に打ちひしがれ無事帰国の途に着
きました。
まさか、その19年後、仕事で再び中国の地を踏むとは当時夢にも
思いませんでした。19年の空白の期間を経て1999年再び驚きの
中国が私を待っていました。
また一緒に旅行した友人の内3人はその後上海、北京、深せんで
現地法人で駐在を経験しました。(続く)
Posted at 2011/06/21 02:43:35 | |
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