
皆様こんぬづは。
今日の仙台は曇っでて,あんましはっぎりしねぇお天気でがすが,皆様がお住まいの地域はいかがだすぺが?
さでさで,今朝未明に西岡武夫参議院議長がお亡ぐなりになりました。
各紙が報道しでっげっども,とりあえず以下は読売新聞配信のニュースの転載でがす。
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読売新聞 11月5日(土)7時51分配信
西岡武夫参院議長が死去…文教行政に手腕
参院議長の西岡武夫(にしおか・たけお)氏が5日午前2時24分、肺炎のため都内の病院で死去した。
75歳。告別式は7日午後1時、長崎市茂里町3の31の法倫会館で。喪主は妻の永子(ひさこ)さん。自宅は長崎市館内町5の16。
西岡氏は長崎市出身。早大教育学部を卒業後、1963年の衆院選に27歳で初当選し、政界入り。衆院11期、参院2期を務めた。
1976年、河野洋平前衆院議長らと自民党を離党し、新自由クラブを結成。自民党復党後は文教族として手腕を発揮し、竹下、宇野内閣で文相、海部内閣で党総務会長を歴任した。93年の自民党の野党転落を機に再び離党すると、新進党結党に参画し、自由党を経て、2003年に民主党入りした。新進党結成以降は、小沢一郎元民主党代表と行動を共にした。
98年には衆院議員を辞職して地元の長崎県知事選に出馬し、落選したが、01年の参院選で初当選を果たし、国政に復帰した。
野党だった民主党が参院第1党になった07年参院選後は、議院運営委員長に就任し、衆参の「ねじれ国会」で参院側の議会運営を差配した。
10年7月、菅政権下で参院議長に就任した。与党である民主党出身の議長にもかかわらず、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件を巡る政府の対応などを厳しく批判。11年5月には、東日本大震災発生以来の菅首相の対応を「首相としての責務を放棄し続けてきた」と指摘した上で、「今、(首相を)お辞めにならなければ、原発事故がもたらす重大な課題も解決できない」と退陣を求める論文を読売新聞社に寄稿した。
最近は「1票の格差」是正に向け、参院選挙制度改革の私案を発表し、与野党の意見集約に意欲を示していた。
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いわゆる「文教族」どしで活動さっでおられだ時は,正直あんまし目立つ活動はねがっだし,「政治信条の為せる業」どはいえ,各党に属しでいだ事ば考えっど,「ブレのある人なんだべが?」っつう印象ば受げるよね。多少良い物言いばすれば,「機を見て敏」過ぎだんださね。
でも,TV番組等さ出演して発言さっでおられだ時の姿は,相手の姿ばしっがり見で,丁寧にかつハッキリどモノを語っでだんだよね。
だがら,ともに行動しでだ「河野洋平」だの「小沢一郎」だのと比べっど,「胡散臭さ」は感じねぇがっだんだよね。
そしで,管政権下での参院議長時代の言動はまんず光っでいだし,ずばり「的ば衝く」モノが多かっだよねぇ。
明らがに自身の立場ば超えだ言動で,まがりなりにも「議院内閣制」ば採っでいる訳だがら,下手こけば進退にも関わる訳だっだんだげっども,「苦言ば呈する者」はいでも「進退ば問う者」はほとんどいねがっだよね。
まぁ,そんだけ「正論」だったっつう事なんださね。
今思うに,もしかすっど参院議長時代の言動は,ご自身の体調を鑑み「こん後の政治生命が短い」事ば感じでのモノだったんでねぇべか。
「参院選挙制度改革の私案」も「やれるうちにやっでおがねば…。」っつう「思い」ば感じます。
謹んでご冥福ばお祈りすっどともに,西岡氏と「思いを共有」し,「思いを引き継ぎ,意気に感じて行動できる」政治家さんの登場と活躍を願うばがりです。
そんためにも,次の国政選挙では,みんなで真面目に考えで「選択」しねぇどね。
今の民主党政権を生んだ責任は,「近視眼的」「視野狭窄的」な選択で票ば入れだ我々「有権者」さあんだがらっさ(おいは民主党大嫌いだがら入れでねぇげっども,結果については共同責任ば負わねげねぇしね)。
Posted at 2011/11/05 14:50:22 | |
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