2010年11月22日
しばらくブログを書くことができなかった.兄が急逝したからである.
先月の下旬,中国の山東省の街,日照で兄が倒れたとの一報が入った.会議中に体調不良を訴え,昼過ぎからソファーで休んでいたのだが,昼食を勧めにいった事務員が兄に声をかけたときには既に心肺が停止していた.兄は食品加工系の商社に勤めており,中国には合弁の工場と、その工場内に現地の事務所があったのだ。月に1度か2度,中国に出張し、商品買い付けの会議をしたり、値決めや生産調整をするのが兄の仕事のパターンだった.
「一時的に心肺は停止したものの,今は持ち直している.ただし,意識はまだ無い.」というのが第一報の内容だった.倒れた翌日に義姉(兄の嫁)が現地入りし,その翌日に弟の私が駆け付けた.しかしながら,兄に会った瞬間、我々の希望はこっぱみじんに砕け散った.意識ばかりか,生体反応はまったく無く,瞳孔は開いており,脳波も無し.人工呼吸器でなんとか命を繋いでる状態だった.心肺が停止していた時間が非常に長かったのである.残念ながら、対応が間に合わなかったのだ.
兄が入院した病院は周辺地域でも最大の病院で,最上階のICUに兄は入院していた.設備も十分に整っており、医師たちも非常に優秀で,その点の問題は皆無だった.ただ,我々が到着した時には既に"脳死"の状態だったから,はっきり言えば医療レベルがどうのこうのといった問題ではなかった.臓器の状態を示す数値は日々低下していたから,持って1, 2週間,早ければ2, 3日という状態であった。結局,倒れてから5日後,兄はついに力尽きた.現地の医師によれば,原因は心臓ではなく,おそらく脳幹(の梗塞か出血)が原因だろうとのことだった.
日照市の葬儀場で,現地の法人,工場の方々に中国式の葬儀を行って頂いた.中国風のスーツを着せられ,赤いネクタイをした兄がガラス製の棺に収められていた.現地の葬儀場=火葬場は焼却のにおいがきつく,あまり衛生的ではない施設であり,はっきり言って日本人には辛いものがあった.だが,工場や現地の事務所からたくさんの方々に参列して頂き,兄もきっと喜んでくれたことと思う.
その後,兄の遺体は8時間かけて北京に搬送された.私と義姉,会社の部長さん,現地の支社長さんの4人は,青島の領事館で遺体搬送の手続きを行ってから,兄が安置されている北京に向かった.中国での遺体の搬送手続きはとにかく面倒である.さまざまな手続きを経て、最終的に亡くなってから5日後,やっと日本行きの飛行機に兄を乗せることができた.
なんとか兄を日本に連れて帰り,東京で通夜・葬儀を終え,それから半月ほど経ったところである.中国での死亡,それも突然死だったこともあり,日本での死亡認定の手続きにはずいぶんと時間がかかってしまった.それに伴って,保険や年金の手続きもまだ完全には終わっていない.残された義姉と3人の姪は,これからどうやって生きてゆくのか.就業時間中の突然死ということで,これから労災認定に向けて動き出すことになるが,はっきり言って労災の認定はかなり難しいのである.
写真は,中国で撮影したもの.兄は写真を愛しており,家の中はたくさんのカメラと写真にあふれていた.義姉の発案で,当地での一部始終を撮影して帰ってきたのだ.撮影に用いたカメラは,兄が現地に持ち込んでいたものである.今はまだ見ることすら辛いが,きっといつか,これらの写真が想い出に変わる日が来ると信じている.そして残された3人の姪たちをつれて,いつかまた、兄が仕事に命をかけ、そして息絶えた中国山東省の日照を訪ねたいと思っている。
「義姉さんや子供たちはちゃんと俺が支えるから・・・ずっと見守っていてくれよな」
2010.11.22 弟より
Posted at 2010/11/22 10:49:56 |
トラックバック(0) |
家族 | 日記