もう8月となってしまいましたが、前回のブログの続きです。
FN2に戻った私は駅前を通って日和山を目指します。
旧北上川の河口付近にあり旧市街地を一望できる場所。
古くは葛西氏の城もあり、かの伊達政宗も居城の候補地としたと学生時代の講義で伺った記憶があります。
山頂には鹿島御児神社があり、長渕剛が震災後にライブを行った場所でもあります。
近くの駐車場に車を止めて歩くと、いわゆる茶店の近くでそこで飼われている猫でしょうか?
名前を呼ばれてきょとんとしています。

11日と言う事で津波で何もかもが破壊しつくされた南浜町、海の方向を見て祈りを捧げる人も見受けられます。
またNHKが取材にも来ていました。
少なくとも被災地3県と言われる岩手、宮城、福島では、地元のNHKや民放が震災に関して毎日の様に放送を行っていると思います。
この取材もその様な内容で、震災で被災した方が工場を再建し、再び境内で出店を出すに至った事などをご主人がインタビューを受けている様子です。

この出店ですね。これも何かの縁と大福を何個か購入。
山頂から見た河口の中瀬。
建物の殆どが流されていますが、ここを歩いた様子では、ボートの修理など生活の再建に臨む人の姿が見えました。
山頂から見た南浜などの南部の風景。
震災瓦礫の県外処理が問題となっていますが、このような山がいくつも存在ます。
数キロ北の運動公園に応急仮設住宅が建っていますが、その道路を挟んだ向かいにも瓦礫の山があるのに私が愕然としました。
しかも、今回私が目にしたのは合併前の旧石巻です。
市町村合併でより広域化している事を考えると、とても市で対応しきれるものではありませんし、処理がなかなか進まない自治体が多い事は想像に難くありません。
これまで訪れた福島沿岸地域ではこのような光景に遭遇しなかっただけに大きな驚きです。
日和山から今度は南浜へ向かいます。

画像は日本製紙の工場。
津波被害で閉鎖も検討されたそうですが、日本有数の工場だけに再建され稼働中の模様です。
夏場になると廃液の悪臭に市内が包まれていた記憶がありますが、ここが残ったことは雇用や税金面で石巻には大きな意味がある事だと思います。
山を下り、麓に沿って走るとこのような光景が目に飛び込んできます。
学生時代は自転車で走った道です・・・ですが、本当に何も残っていません。辛うじて鉄筋や鉄骨などの建物は外観をとどめるものもありますが、見渡す限り雑草が広がります。
地図で見るとコンビニなどがあったと思われる駐車場が残っていたので、そこに車を止めます。

木々が見える方向が日和山です。
すぐ近くの門脇小学校の姿。

http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1072/20110529_01.htm
こちらは宮城が拠点の河北新報の記事ですが、火災によって校舎が焼けただれ、校庭は瓦礫で埋め尽くされていたのです。
駐車場で暫しその光景に絶句しているとバスが1台入ってきました。

どうも外国人の観光客の様で、津波被害の光景を私と同様に目に焼き付けている様子です。
ここ南浜には全国的には知られたあの看板があります。
そこまで歩いてみたのですが・・・。

建物の敷地であったであろう場所には「みる貝」の札が。
どこかのすし屋でつかわれていたものでしょうか?その生活の痕跡があるだけに、逆に何も残っていない風景は心に刺さります。
「がんばろう石巻」
石巻に来る機会があったら必ず来ようと思っていた場所です。
そこには震災の種火が灯されています。

日本語と英語で銘文が記されています。
これを見ると平和の灯火を思い起こします。
更にその近くにはここを襲った津波に関する説明もあります。
鉄骨に貼られた説明を拡大してみました。

鉄骨が2.5Mに対して津波が6.9Mだったそうです。
相馬でも津波被害の現場を見てきましたが、具体的な数値と見渡す限りの荒涼とした光景が、その恐怖をまざまざと感じさせています。
ここで亡くなった沢山の方々を思うと私は自然と黙とうしなくてはならない、そんな気持ちになりました。
友人が別れ際に、今度石巻に来たときはその復興ぶりを見てみて下さいと言っていました。
次に来るのがいつになるかは分かりませんし、1年たってこの状況では早々に事態が進展することも見込めないと思います。
ですが、被災地でも人の営みは続き、前に進もうと言う思いも感じます。
次に来る時は今よりも復旧復興が進んでいる事に期待して、夕方には石巻を後にしました。
休みがもっと取れれば岩手や気仙沼、南三陸に足を運びたかったのですが、今回は断念。
またの機会に、そして必ず訪問します。
Posted at 2012/08/03 04:04:01 | |
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