白兎神社

Wikiよりコピペ
白兔神を主祭神とし、保食神を配祀する。白兔神は日本神話に登場する因幡の白兎のことであり、その説話の内容から皮膚病に霊験のある神として、また、大国主と八上姫神との婚姻を取り持ったことから特定の人との縁結びの神としてかなわぬ恋をかなえ、特定の人との親交をより深めると信仰される。さらに、遠国の人もこの兎に願えば早く国に帰れるという。
創建の由緒は不詳である。かつては兎の宮、大兎大明神、白兔大明神とも呼ばれた。戦乱で消失し、鹿野城主だった亀井茲矩により慶長年間に再興された。現在の本殿は明治時代の再建。
鎮座地は身干山と呼ばれる丘で、因幡の白兎が身を乾かした山と伝えられる。境内には、白兎が体を洗った御身洗池がある。御身洗池は旱天・豪雨のときでも水位の増減がないとされ「不増不減の池」とも呼ばれている。本殿の土台には28弁の菊の紋章が彫刻された菊座石が使われており、当社の創建に皇室の何らかの関わりがあるのではと言われている。動物医療の神でもある。
境内ではないが、兎が体を洗ったと言う池ガマ、近くには国道9号を挟んで白兎海岸があり、その沖には白兎がいたとされる淤岐島がある。
現在、神社境内の前に道の駅が完成し、観光客で賑わいを見せている。かつての八上の中心地、因幡の山間に八頭町には3つの白兎神社があるが、その地には天照大神が行幸の際、白兎が現れて天照大神に行宮にふさわしい場所(現霊石山の伊勢ヶ平(いせがなる)まで案内したという伝承が地元の青龍寺(城光寺縁起)、慈住寺(慈住寺記録)に記されている。
天照大神はしばらく八上にとどまり、伊勢ヶ平近くの御冠石(みこいわ)で、因幡の国見をし、その石の上に冠を置かれた、と伝わっている。この伝承には、続きがある。八頭町の隣、兵庫県境に近い若桜町舂米(つくよね)には天照大神の行幸伝承とともに、天照大神の御製といわれる和歌が伝わっている。
かつての国境、現在の鳥取・兵庫県境、氷ノ越え(ひょうのごえ)には因幡堂があり、そこには大兎(おおうさぎ)大明神を祀っていた。それは八頭町福本、池田、土師百井、そして鳥取市内海の白兎神社の祭神と同一の神である。しかし、因幡堂はもはやそこには存在しておらず但馬側に移転され、今その状態が不明となったままである。八頭町の3つの白兎神社も、大正時代に強制的な合祀により、同町宮谷の賀茂神社に合祀され、形式上は廃社となっている。福本にあった白兎神社は、現在鳥居と額、神木と小祠があるのみであるが、元の本殿は紆余曲折の末、同町門尾(かどお)の青龍寺の本堂厨子として再利用されている。かつての本殿正面蟇股(かえるまた)には、見事な波に兎の彫刻が施されている。
八上の3つの白兎神社の鎮座する地点はかつての八上の中心部で、近くには、全国最大規模の八上郡衙(やかみぐんが)跡も発掘、確認されている。3つの白兎神社はかつては、夏至の日の出、冬至の日没を一直線に結ぶライン上にあったと考えられる事から、復活再生を願う信仰、太陽神、月神信仰をも示していると考えられる。また、このラインの南西の延長上に八上姫を祀る賣沼神社および、八上姫の奥都城(おくつき)とされる簗瀬山(やなせやま)嶽(だけ)古墳があること、北東の延長上に胞衣塚(えなづか)が存在していることも単なる偶然ではないようである。古代の人々の英知を感じさせる配列になっている。
ちなみに江戸時代以前に作成されたと見られる、波に兎の彫刻は、因幡の各地に散在するが、最近の調査によって、八頭郡に相当数存在していることが判明しつつある。
1999年(平成11年)、旧船岡町出身の石破洋元島根県立女子短期大学(現島根県立大学)教授の研究発表、翌年の『イナバノシロウサギの総合研究』発刊により、この八上の白兎と天照大神伝承、それに関連すると思われる瀬織津姫祭祀、および白兎神社が脚光を浴びるようになった。現在、地元では、この白兎伝承を顕彰しようとする動きが活発になっている。
住所: 鳥取県鳥取市白兎603番地
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