1930年代後半、ポーランドのワルシャワ。
ユダヤ人、ウワディスワフ・シュピルマンは
ピアニストとして活躍していた。
しかし1939年9月、その生活が一変する。
第二次世界大戦が勃発し、ナチスドイツはポーランド侵攻を開始、シュピルマンがスタジオで録音をしていたラジオ局はドイツ空軍による突然の爆撃を受け被害を受ける。
なんとかスタジオを脱出したシュピルマンは混乱の中で友人ユーレクの妹ドロタと出会い、以降、僅かばかりの友好関係を築く。
帰宅した彼は、イギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告をしたことを海外のラジオ放送で知り、
戦争は早期に終結すると信じて家族と共に喜ぶ。
しかし、状況は好転する事がなかった。
ワルシャワはドイツ軍に占領され、
ドイツ親衛隊と秩序警察による過激な弾圧から逃れるため
屋根裏部屋に身を隠したシュピルマン
ドイツの敗退を予想するホーゼンフェルトは、
一軒家に拠点を設けた後
周囲の目を盗んで屋根裏部屋の
シュピルマンに食料を差し入れる。
包みの中にはライ麦パンと共に、
缶切りが添えられていた
良い人 ドイツ軍将校↓
ヴィルム・ホーゼンフェルト陸軍大尉
当初ナチズムの信奉者であったが、
のちに改心しウワディスワフ・シュピルマンら
多くのポーランド人をナチスの迫害から救った事で知られる。
シュピルマンを見つけたホーゼンフェルトは彼の素性を尋ね、
彼がユダヤ人ピアニストであることを知るや、
一階の居間に残されていたピアノを弾いてみるように促す。
ノクターン(夜想曲) 第20番 嬰ハ短調
ピアノ演奏:小池紘子
1945年1月17日にソ連軍の捕虜となる。
ソ連はホーゼンフェルトが諜報部に属していたと断定しミンスクの獄に投じて拷問を加えたが、証拠も自白も得られなかった。
証拠がなく、
しかも家族の働きかけで多数のポーランド人やユダヤ人が
ホーゼンフェルトを弁護する証言をしたにもかかわらず、
ソ連軍当局によって拒絶され、
軍事法廷で諜報活動に従事した戦犯として
25年の強制労働を宣告された。
拷問や過酷な労働のため何度かの脳卒中を起こし、
精神に異常を来たした末に、
スターリングラードの戦犯捕虜収容所で
1952年8月13日に死亡した。
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