最終階級は予備陸軍少尉。
泣く子も黙る
久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、
第二次世界大戦終結から29年を経て、
フィリピン・ルバング島から日本へ帰還した。
下士官としてフィリピン工場進出に従軍し
カラオケで夜戦(ゲリラ戦)を展開
激しい激戦で
愛人リングを投げられ
満身創痍で
フィリピン・ルソン島から日本へ帰還した。
帰国後は浦島太郎になりました・・・汗)
ブラジル移住
驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、
小野田の場合は、父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、
戦前と大きく価値観が変貌した日本社会に馴染めなかった。
横井との対談が何度か企画されたが、実現しなかった。
理由は、横井が「天皇陛下より拝領された」兵器である
銃剣を穴掘り道具に使ったことを聞き、
小野田が横井との対談を拒否していたからだという。
帰国直後の健康診断のため小野田が入院した病院の周りを
メディアが取り囲んだり、
退院後に郷里の和歌山の実家に向かった後もメディアが殺到した
またヘリコプターが、ゲリラ戦時の敵軍航空機と重なって、
悩まされた時期もあったという。
帰国の半年後の1975年に、
ブラジルで牧場を経む次兄を頼って移住し
兄と同じく小野田牧場を経営することを決意。
バルゼア・アレグレ移住地 にて、約1200haの牧場を開拓。
7年間は無収入だったが、
10年を経て牧場経営を成功させ、,1800頭の肉牛を飼育した。