と言えば、日本ではホンダの影響かフジテレビの影響か92年のモナコと言うイメージですが、
個人的には86年のスペインです。(^^;
まだフジテレビの中継も始まってない時代です。(^^;
とりあえず動画。(^^;
14/1000秒差と言う僅差のレース。
最終立ちあがって並べちゃうホンダパワー恐るべし。(^^;
不甲斐ない今のホンダF1ですが、強かった時代もありました。(^^;
ただ、どうしてもホンダ+セナのパッケージで捉えられがちですが、
そのホンダターボ時代の屋台骨となったマンセルの貢献度は高いと思います。(^^;
そもそも、ホンダのモータースポーツ史において、本田宗一郎氏同様またはそれ以上にキーとなるのが後のホンダ4代目社長の川本氏である。
60年代に後の3代目ホンダ社長になる久米氏の助手として、空冷と水冷の狭間に揺れて撤退する第一期F1に参加。
その後、「またF1やりたい!」と言う、川本氏の想いで第二期ホンダF1が始まるのです。(^^;
この時、川本氏はF1の土台作りのためにF2から始めると言う手順を取ります。
その辺は割愛で、
このあたりや
このあたりをご覧ください。(^^;
そこでマンセルが登場するわけです。(^^;
また、マンセルはコーリンチャップマンと直接コンタクトのあった最後のドライバーと言われています。
ロータスと言うとセナのイメージも強いですが、それはチャップマン亡き後の話なのです。(^^;
ちなみに、チャップマンの死後、遺族はグランプリ部門を除いてロータスを売却してます。(^^;
そしてチャップマンに見出されたマンセルですが、新しいチーム責任者ピーターウォーとの折り合いは最悪。(^^;
85年にトールマンとの契約があるのにロータスはセナと契約、マンセルは弾き出されます。(^^;
ところが、持ってる悲運のマンセルはウィリアムズに拾われます。(^^;
そこでまたホンダとタッグを組むわけです。
あまり知られて居ませんが、この当時からマンセルはエンジンテストに良く鈴鹿に来ています。
日本では中嶋悟氏がテストドライバーをして居ましたがマンセルも参加してました。
その貢献度は計り知れない。(^^;
ところが。(^^;
またホンダの影響でセナに押し出されます。
チームは変わりませんが、ホンダエンジンを取られます。(^^;
ところが!(^^;
持ってる悲運のマンセルはウィリアムズルノーとして復活!
悲願のチャンピオンになるのです。(^^;
んが、今度はプロストに追い出されます。余談ですが。(^^;
っと、言うことで、熱い80年代F1のお話でした。(^^;
マンセルとホンダは日本で言われる以上に関わりが深かった。って事で。(^^;
あ~、今のホンダは・・・(^^;
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Posted at
2017/07/06 10:39:17