2010年08月21日
高松市内のオムライス屋さんにて
至福の一時いただいております
Posted at 2010/08/21 12:15:55 | |
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2010年05月19日
何とか両目のレーシック手術が終わりました
終わった時の感想は
『目がシビレル
』
最初は違和感があったけど、もう治りました
でもこれからのメンテナンスが結構メンドクサイ
今日はパソコン、本、テレビは控えろって今から何して過ごせっての
Posted at 2010/05/19 13:33:03 | |
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2010年05月19日
父親の件があって、なかなか復帰が出来なかったエテ乃助です。
さて、愛車の車検を踏まえる前に、自分のメンテナンスということもあり、会社を休んで病院で今日は目の手術です
視力回復させるで~
Posted at 2010/05/19 08:18:57 | |
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2009年09月12日
先日の実父の事になりますが、9月2日に重症急性膵炎の為に息を引き取りました。
享年62歳でした。
9月2日の朝一番に母親からすぐ病院の方へ来て欲しいと連絡があって、駆けつけるともう脈拍が考えられないぐらい低くなっていました。
担当医からこれ以上の投薬は逆に別の意味で体を損傷する可能性があるので無理だと断言されました。母親と姉と相談して病院に「苦しまないようによろしくお願いします。」と伝えた際には正直足が震えました。
父親の体に繫がれていた点滴や透析の機械がひとつ、またひとつずつ外され低かった脈拍がさらにだんだん低くなっていき、昼過ぎに帰らぬ人となりました。
母親と姉との3人で決めていたことですが、助からないと分かった際には「頑張って!」という言葉は言わないようにと話し合いをしておりました。発病して約50日間、充分に頑張ってくれたんで、声を掛ける時には「ありがとう」という言葉にしようと‥‥
息を引き取るまで、私はずっと父親の右手を握り最後の話をしていました。
その時に言葉の最初は必ずといってもいいほど「楽しかったなぁ、親父」という言葉でした。
父親と一緒に過ごして来た些細な出来事や実家に帰った際に一緒に飲んだ酒の話、数少ない旅行の話、実家の自営業の仕事の事を思い出しながら話をずっとしていました。
実際、父親とは非常に仲が良かったので、楽しい思い出がいっぱいでした。
今では痙攣だったか分かりませんが、意識がないのはずなのに話しかけている最中に、時たま軽く手を握り返されたときには非常に嬉しかったのを覚えています。
息を引き取る間際になると、やはり親父は「父親」から『お父さん』に変わるのでしょうか?(分かりづらくてスイマセン)
息子や娘は子供になってしまいますね。最初は「親父」と声を掛けていましたが、いつからか「おとうさん」に変わっていました。自分の言い方も『俺』から『僕』に変わっていました。うまく声を掛けれなくて『おとうさん、僕と一緒におうちに帰ろうよ』と無意識で言ってました。
父親が息を引き取った後、親父に最後に実家に一度帰してあげようと決めていた。親父が大好きだった庭が見えるよう座敷に一度連れて帰ってやれたのが最後の親孝行でした。
後は通夜や葬式などを終わらせましたが、あまり覚えていません。ばたばたと忙しかったという程度です。
それが終わった後の翌日から親父ともう会えないという実感が湧き始めて、仕事場の人が来ない場所で一人涙を流したりしてました。
皆様に一つだけお願いがあります。親に対しては皆様各個人、人それぞれ様々な感情をお持ちになっていると思います。
この文章を少しでも読んでいただけた方で自分の両親の事を思っていただけたのなら、ほんの少しでもかまわないので自分の親と話をして下さい。自分が出来そうな簡単な孝行を親に考えてしてあげてください。
自分もいつか両親に親孝行をしてやろうと考えていて、父親に実行が出来なかったのでその分、これからは母親にしてあげようと思っています。
私のように、後で後悔をする人が一人でも少なくなればいいと思っています。
最後に最も尊敬する我が父親に対して『ありがとう』の言葉をこの場でささげたいと思います。
前回に引き続き、長文を失礼いたしました。
お付き合いありがとうございました。
Posted at 2009/09/12 02:41:25 | |
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2009年09月02日
久々の投稿なのに明るい話題を持って生きたいのですが、残念ながらそうでない話なので気分が落ち込んでしまう方はスルーして下さい。
実は自分の実父が今、重症膵炎にて危篤状態になっています。
7月16日に医大に運ばれて以来、一度は生死の淵を彷徨いましたが10日過ぎに意識を取り戻し、奇跡の復活を果たし、気管に呼吸器を入れていたので喋る事は出来ませんでしたが、筆談などで笑いながら2週間弱は応対なんかはできていたのですが、その後の経過がどんどん悪化して様々な治療を施していただいたにも関わらず、最後の抗生物質を投与していた結果も効果が無いと昨日、主治医から連絡がすぐに取れる状態にして欲しいと母親に告げられたそうです。
エテ吉と実父とは非常に仲が良かったので、正直に言うと自分の家族がいないと発狂していまいそうな心境です。
父親離れが出来ていないと言われればそれまでかもしれませんが、エテ吉にとっては親父は親友でもあり、相談相手でもあり、遊び仲間でもあり、尊敬できる人でも目標としている人でもありました。
息子に対して厳しくもありましたが非常に甘くもあり、エテ吉の家族3人で実家に遊びに行くことをいつも非常に楽しみに待ってくれていたそうです。
父親はお酒とタバコが大好きで、エテ吉は父親と飲むお酒が大好きでした。
孫には特に甘く、遊びに行くとすぐに孫を抱き上げないと気が済まない人でした。
実家は自営業で、エテ吉は残念ながらそれを継ぐ選択はしませんでしたが、その仕事場に遊びに行くのが楽しみでした。
自営業特有で休みは休みでない事が殆どであり、冬意外は殆ど日曜日も大型連休も仕事で、幼い時には簡単な作業ですが手伝っていたこともあり、それを小さい頃は恨んだ事もありましたが、今自分が社会人になってその大変さと偉大さに尊敬をしてました。
その30年続けた自営業も先月末に閉めて、借りていた場所の片付けをして何も無くなった事務所に足を入れた瞬間、恥ずかしながら号泣をしてしまいました。円満定年にて家族みんなで片づけをするものだと信じて疑わなかったのにこんな終わり方になってしまい悔しかったからです。
今まで自分が出来る事は、精一杯してきたつもりです。
でもいま自分の心境としては、悔しいの一言です。
父親は今62歳ですが、エテ吉の姉やエテ吉が独り立ちを始め、今まで必死に働いてようやく老夫婦二人での時間を作っていけるようになり始めた時にこのような病気になってしまって、あまりにも不憫すぎます。
姉と二人で「世の中、理不尽すぎるなぁ」と泣いています。
恥ずかしながら、このブログを書き込みしている際にも、泣きながらの書き込みです。
エテ吉は最後の奇跡を信じて父親の大復活を願っております。
ただ、もしもの事があった際には意識のあるうちに父親の傍でこういってあげようと思います。
「親父、今までありがとうな。俺はあなたの息子に生まれてきて誇りに思う。そしてそれが俺の唯一の 自慢でもあるよ。俺は親父のことが大好きやで。」
と。
長筆になって申し訳ありません。ここに自分の気持ちを書き留めておこうと思います。
お付き合い、ありがとうございました。
Posted at 2009/09/02 04:40:56 | |
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