みんからをはじめるときに、私はこう書きました。
「最近立て続けに故障があり、この車にいつまで乗り続けることができるかと、不安になりました。
手放す時が来る前に、人生の長い間をともに過ごしてきた、大事な相棒の記録をのこしておかなくては・・と思い立ちみんからをはじめました。」
みんからを通じて出会ったみなさんのおかげで、手放すなんて気は今ではさらさらなくて、むしろ新しいことにチャレンジさせていただいてます。
ホンマにありがたいことです。
しかし、最初に始めるきっかけになった「記録に残す」ってことをあまりしていないことに気づきました。
というわけで、今回は完全に「記録に残しておく」ための「自己満足」な投稿です。
30年後におじいちゃんになって、孫に「わしもわかいころはなあ・・」って見せるための投稿してみます(笑)なつかしいなあって思い出しながら、昔のビデオなんかを引っ張り出しながら書いてみました。自分のFC愛をアップするための取り組みでもあったりします。20年近く前のドリフトの動画もありますが、今よりずいぶんレベルが低いので恥ずかしいですが、当時はこんな風だったなあって思い出していただけると幸いです。
さてさて、FCとの付き合いで一番印象に残っているのはやっぱりこれ・・・最初に書きました。
「一番の思い出から」
「一番の思い出から2」
この出来事はFCに乗り始めて10年以上たった時のことでした。
はじめにこのFCに出会ったのは平成6年のことでした。どっぷりと走り屋ライフにつかっており、fcは
まさにドリフトのためだけに購入しました。当時はS13シルビア、180の全盛期でドリフトでも人気がありました。
fcは「ドリフトしにくい」「とか角度がつかない」「動きがピーキーすぎる」なんていわれていました。たしかに仲間のシルビアとかに乗ると、すごく乗りやすかったんですが、自分はやっぱり好きな車で走りたいってことで、まったく迷いなく購入しました。
5年落ちの中古で買ったんですが、前のオーナーはサーファーだったようで、ルーフにはキャリアのあと。それにトランクは全部ふさいでスピーカーだらけのウーハーボンボン!仕様でした。そのせいか、当時の相場より少し安く手に入りました。ボディは真っ赤でぴかぴかでした。けどウーハーなんて当時の私にはまったく不要!タイヤが積めない!ってことで、速攻で撤去しました。さらに、納車前にすでに足回りの部品が用意されているって状態でした。昔なつかしのKYBクライムギアとRSRのダウンサスでした。この組み合わせにお世話になった方も多いのでは?当時はみんなこの足で走ってました。今思えばウーハーボックスは多分専門店で作ったワンオフもので、音もすばらしかった・・・ちょっともったいなかったかなと思います。
はじめにぴかぴかの赤色だったfcですが、ぶつけたのをきっかけにボンネットだけ白の赤白仕様になりました。
このころから峠ばっかりだった走り場所も少しずつサーキットにも行きだしました。峠でちょっと自信をもっていたんけど、サーキットに行くと自分たちよりうまいチームがたくさんいて、負けたくない一心でガソリンやタイヤをものすごく使って練習をするようになりました。
練習をするうちに自分たちのチームも少しずつ名前が売れて、あちこちの走行会に呼んでもらえるようになりました。
そういえば雑誌なんかの取材もきたり何冊も本に載ったりしました。このころ嫁さんとであったんですが、いつも自分がのる本は2冊嫁さんがかってきてました(笑)
県外にもどんどん遠征しました。当時一番好きだったコースは岐阜のYZサーキットです。よく走ったのは奈良の名阪スポーツランドですね。
チームで貸しきって走行会をよく企画してました。当時はちょっと前に大流行したロングサイドから、流行りは慣性やブレーキングの速さのある地味なドリフトが主流になりつつありました。
車はどんどんチューンが進みました。もう毎週車をいじったり、修理したり・・・仲間で集まってなんでも自分たちでしました。長男が小さいときで、いつも自分の車をいじっている周りで遊んでいました。
色は赤白からワインレッド
ピンク
白
つやけし
と何度も全塗装しました。はじめは缶スプレー10本でとか無茶なことをしてました。
ピンクの時は本当に今思えば若気の至りではずかしいんですが、とにかく目立ちました(笑)警察のお世話にも、何度もなりました。(笑)
当時は改造車にはすごく厳しくて、サスが遊べばすぐ切符を切られました。だからみんないろいろ工夫してサスのがたをなくしてました。警察に止められると決まり文句で「ジャッキアップして!」っていわれたものでした(笑)車高調整が主流になってきたのもこのころです。
つやけしのころからドリコンにもたくさんでました。
毎週サーキット、月1ドリコンくらい走ってました。当然お金もものすごく使って苦しかったです。
当時はドリコンのビデオとかをコンビニで売っていました。自分の出た大会のものは買っていました。
ドリコンでも少しずつ結果が出始め、全国大会を意識しはじめました。車をミッドナイトパープルに全塗装して、当時流行りだしていたエンジンチューンも手をつけ、リビルトエンジンにハイブリッドタービンで330馬力ほどになりました。
このころからクラッチ蹴りが流行りだし、どんどん速くて派手なドリフトになっていきました。
今のドリフトって飛距離も、角度もスピードも本当にすごいですもんね。その原点がこのころのドリフトだと思います。
そのエンジンのならし中に三人目の娘ができました。お金も限界になり、ドリコンからは離れました。
走ることも少しずつすくなくり、仲間も一人また一人とドリフトをやめ・・・・
そして冒頭に書いた手放すという決断になりました。
手放す直前のモーターランド鈴鹿です。このころGTウイングが流行り始めてました。前期型のテールがお気に入りだったんですが、帰ってきたときには後期型になっていました。はずして売られたな・・・今なら高く売れるのになあ。
嫁さんは自分の車のことにいっさい文句をいいません。
それどころか、今でも変わらないんですが、車以外のことも含めて私が楽しいと思うことをいっしょになって楽しんでくれる人です。だから彼女がいなければ、また買い戻すなんてことは絶対にできなかったと思います。
そしてまた我が家にもどってきたfcですが、仕事も忙しいし子育てにも時間がかかるしでモチベーションは下がる一方で・・・維持だけできれば、いやもう手放そうか・・いろいろと感じながらもみんからをはじめました。
その後はこちらで書いてきたとおりです。
ふりかえるといろいろあったなあ・・・ますます乗り続ける決意を新たにしつつ、今回のブログを終わりたいと思います。
さてさて、記録に残すことはとりあえずこれくらいにして、また次は新しいことを書きたいと思います。
実はもうパーツも手配済み^^自分の中では結構大物?です。
みなさん、今後もよろしくお願いいたします。
Posted at 2015/06/28 08:23:10 | |
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