今年に入り、何度となく夢にでるのが幼少期(1歳から7歳迄)を過ごした、福島と新潟の県境にある町の風景。
最期にこの町を訪れたのは、小学校5,6年位の頃に両親に連れられて、町から少し離れた場所にある温泉旅館へ・・・
それから長い年月が流れ、記憶の彼方に去ったはずのこの町。
今月の初旬に思い立ったように出かけて来ました、○十年振りの帰郷です。
日曜日の昼過ぎに自宅を出発、高速道路を乗り継ぎ、約5時間で予約した宿に到着
宿の部屋からは中国の水彩画を思わせるような風景が拡がります
この阿賀野川は福島の山間部から日本海へと続いて行きます、雪解けの水が多く流入してか、濁ってますが、本来はもっと綺麗なはず、微かな記憶ですが、この川で親に連れられ釣りをしたり、夏季は泳いでた記憶が・・
翌日は記憶を辿りながら、当時住んでいた家や駅周辺などを歩いてきました。
驚きました
最果ての地か?と思えるほど、道の両岸は空き地が目立ち、人もほとんど見かける事ができません
私の記憶では、この通りは映画館や飲食店、今で言うショッピングモールやプール、子供が入れないようなネオンが煌めく店なども多数あり、大変賑わって場所なのです。
かってこの地(磐越西線 鹿瀬町)には昭和電工の合成化学工場があり、役場や学校を除けば、文化的・生活的施設はすべ て昭和電工で賄っている、企業城下町的な町だったのです。
しかし、工場から阿賀野川へ流れた排水に水銀が混じり、企業公害(水俣病)として社会問題化し、
賠償に長期間を費やし、この地からの撤退を余儀なくされたのです。
今も系列の会社が細々と操業はしてるようですが、現在の荒廃を見れば・・・・ですね。
結局、当時住んでた家(社宅)もわからず、記憶に残る物に出会える事もなく、その後向かった
小学1年の2学期迄通った小学校も昔の面影は無く、故郷を探す旅もこれまでかと、車を停めた駅まで歩く途中、右手になだらかな坂道があります、記憶はないのですが、誘われるように昇ってみて
愕然としました。
一面の広場の真ん中に大きな銀杏の木が・・・ここは幼稚園だ!(幼稚園があった場所)
大人数人で手を廻さないと届かない位の幹にそっと手を当ててみる。
担任だった栗田先生の顔が○十年振りに脳裏に浮かぶ、
確かに幼少の私を見ていてくれた銀杏だ!
この銀杏は夕方になると私を迎えにきてくれた優しい母や、まだ若くて働き盛りだった父をも見てたはず
そして、昭和電工も活気があり、町も元気で潤ってた、街にはたくさんの人々の生活があり、人生があった。
今は両親も亡くなり、街もなくなり、幼稚園もなくなった・・・
そのすべてを見ていた銀杏よ
「ただいま・・・そして、ありがとう、さようなら」
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Posted at
2017/04/28 19:01:22