5月8日の連休最終日、戸ノ口原の古戦場跡に行ってきました。戊辰戦争で白虎隊が激戦を展開した、まさにその場所です。
ずっと、行ってみたいなとは思っていたのですが、やっと行く事ができました。
戸ノ口原に曲がるとスグ、会津藩士のお墓がありました。
入り口の看板。「白虎隊士中二番隊」というのが飯盛山で自刃した15~17歳の若者部隊です。
(実際には生年月日を偽ってまで戦に参加した13歳の子も居たそうです)
夜泣き石。会津の赤ちゃんの守り神、コレもここにあります。
なんだか切なくなってしまい、そのまま飯盛山へ。
白虎隊のエピソードに感激した、1928年、当時イタリアの首相ムッソリーニから送られた記念碑。コレはなんと古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱です。
(実際には身分を隠し、ローマ市民として寄贈しています)
白虎隊士中二番隊は、この水路を通って飯盛山に辿り着きました。最後は鶴ヶ城での籠城戦に加わり、朽ち果てるまで戦おうとしたのです。
白虎隊士中二番隊、自刃の地。
自刃の地からみた鶴ヶ城。燃え盛る炎の中に霞む主君の城を、少年たちはどんな思いで見たのでしょうか。
ちなみに彼らの事を「悲劇の少年隊士」と解釈している人がいますが、全く間違っています。
彼らは実際には戦に参加することのない「予備兵力」でした。しかし西軍の猛烈な侵攻に全員が署名した嘆願書を提出、城を護りたいという一途な情熱が藩主の心を動かし、出征の許可が下ります。つまり、自分たちの意思で戦争に行ったということです。(しかも敵が一番多い最前線に送って下さい、とも書いています)
また、「ならぬことはならぬものです」を間違っている人も多いです。(特に観光客)。「ダメなことはダメ、って意味でしょ。当たり前じゃん」とか、平気で言う人がいますが、そういう意味ではありません。
「やってはならぬ、やらねばならぬ、ならぬことはならぬものです」、つまり「やってはいけないことはやってはいけない」、また「やらなければならないことは絶対にやらなくてはいけない」といった、2つの意味があります。
会津藩には、藩祖 保科正之公の残した家訓(かきんと読みます)があり、徳川家光の異母弟であった正之公は徳川家への絶対的な忠誠を誓った「家訓 十五ヶ条」を残しました。これを「ご遺訓」として会津藩は代々守ってきました。無理です、と最初は断った京都守護職を結局引き受けたのも、この遺訓に従わなければいけない、という忠誠心からでした。
白虎隊が自刃したのもその教えに従おうとしたからです。最期は敵へ向かって玉砕するか、鶴ヶ城へ戻って籠城戦に加わるかで意見が分かれたそうですが、結局負け戦である事は目に見えており、敵に殺されるくらいなら潔く自決しようという事になり、集団自決は決行されました。
「ならぬことはならぬ」は、ココで出てきます。普段から家訓の教えを耳にタコができるほど教えられていた少年隊士たち。つまり、「いざ城が滅亡するようなことがあれば、自分たちも潔く自決しなければならない」と教えられていた、ということです。彼らは「やらねばならぬ」を普通に実行したに過ぎません。
とは言え、まだ年端もいかぬ15、6歳の少年らが自ら出征を嘆願し、中隊として組織的に戦い、教えを頑なに守り最期を決するその様においては、本当に心揺さぶられるものがあります。
またこのような史実は、世界中のどの歴史においても類を見ず、よって国の境を越え、世界中の多くの人の心にその崇高なる武士道精神が響き、共感を得るのだと思います。私は、同じ会津人として、この地に生まれた事を誇りに思います。
また白虎隊ばかりが有名ですが、会津では「娘子軍(じょうしぐん)」も結成され200人以上の婦女子が戦死しています。また籠城戦の際には家老 西郷頼母邸でその妻子など婦女子21名が自刃、これは人質に取られるのを防ぐ、また兵糧を少しでも長くとの思いからの口減らし、と2つの理由があったと言われています。
会津にとっての戊辰戦争とは、主君に対しての忠誠を貫こうとした会津藩の精神を、これでもかと見せつけた戦争でありました。
今度6月に、息子の「半成人式(10歳)」で白虎隊士が学んだ會津藩校日新館に行ってきます。当時、彼らがどんな教育を受けていたのか、しっかりと見て、そして心に刻んで来たいと思っています。
Posted at 2011/05/10 06:29:12 | |
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白虎隊 | 日記