切り抜き
投稿日 : 2015年10月31日
1
引き出しを整理していたら、昭和56年(1981年)12月18日の新聞切り抜きが出て来ました〜95分署と言うタイトルの記事で、当時起きた事故について書かれています。以下原文をそのまま転載します。
真っ赤なスーパーカー、「デ・トマソ・パンテーラ」が、無惨な姿をさらしていた。ドアはちぎれ飛び、天井がめくれあがっている。血のこびりついた運転席には、果物とケーキが供えられていた。目黒署の入口で今月初め、この光景を目にした時、「あの事故の……」と直感した。
先月二十九日未明、会社員ゲーリー・A・ミツナガさん(三六)(目黒区碑文谷○の○の○)は、この愛車を運転して帰宅途中、目黒通りでタクシーを追い越しそこね、左側の電柱に激突、頭などを打って死んだ。目黒署の調べでは、ミツナガさんは、時速百キロ以上を出していた。
ミツナガさんの両親は日本人だが、アメリカ生活が長く、ミツナガさんはアメリカで産まれた。大学を卒業したあと来日、外資系の音響メーカーに勤めた。事故時は営業部長、働き盛りだった。ミツナガさんは、無類のカーマニア。ある出版社主催の「ゼロヨンタイムアタック」(停止状態から四百メートルを走る時間を競う)に熱中していた。成績も優勝を含め三度入賞と抜群で、その道ではかなり知られた存在だった。
2
「ゼロヨンで日本一になりたい」。そのスピードへの執念は異常とさえ思えるほどだった。この愛車パンテーラも、性能アップのため、二年がかりで改造に改造を重ねてきていた。フォード五.八リットルのエンジンだったのをシボレー七.七リットルに、そして車体もより強固なものに……。その結果、パワーは三百五十馬力から倍近い六百八十馬力にアップした。
某自動車研究所でのテストでは、新幹線以上の時速三百七.六九キロを記録した。素人が改造した車としては、わが国最高だという。ある専門家は、「バケモノ。この世に必要ない車」とまで言い切った。
素人が改造した車を一般の道路で運転することは法で規制されている。ミツナガさんも生前、「スピードを出すならサーキットで。暴走族は大きらい」と言っていたという。だから、一般の道路で愛車に乗ることはめったになかった。だが、この日はたまたま雑誌の撮影のために乗り、その帰りに事故を起こしてしまった。
3
パンテーラは新車だと千三百万円、これにかけた改造費も相当なものだった。それにこれほど大改造したものは、まず車検にはパスせず、二年で廃車にするしかないという。すべてスピードにかけた投資だったのだろうが、それにしても……。
そんなスピードに魅せられ、「日本一」にこだわったのはなぜなのか。日本でよりもアメリカの生活が長かったミツナガさんにとって、「日本一」になることは、日本人であることの”自己確認”でもあったのだろうか。そんなことを考えてみたりもした。
それでもなお、「いくら記録を作っても、みじめに死んでしまっては……」という妻、○○さん(三五)の絶句の前には、すべてがむなしく感じられた。
(西島大美記者)
4
昔を思い出して〜久し振りにナイトドライブへ出かけました。青山のエンドレスに集まっては、夜な夜な走り廻っていたあの頃が懐かしいです。
5
楽しい事も哀しい事もありましたが〜そんな事を忘れさせてくれるほど、夜明け前の空がとても綺麗でした。
関連コンテンツ
関連リンク
この記事へのコメント
ユーザーの設定によりコメントできません。
おすすめアイテム
[PR]Yahoo!ショッピング