御朱印放浪記(千葉県)
![](http://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/040/982/366/40982366/p1.jpg?ct=33d2b53920bc)
-
せっかく久しぶりに千葉へと着てみましたので もうちこっと足を延ばしまして 香取神宮(かとりじんぐう)へと行ってみました (幕張からここまでは高速のインターがすぐ近く在りますので移動が便利でした) こちらはうぃきによりますと ・・・ 香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社[1]。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。 ・・・ となっています さてこちらから境内へとぼとぼと・・ こちらの楼門化をくぐりまして こちらの拝殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
-
4月9日 清滝寺の後すっかり夕暮れな雰囲気になっちゃったので 夜のうちに次の目的地の銚子方面へと移動しまして 某道の駅で車中泊をしまして 翌朝 円福寺(えんぷくじ)へと行ってみました ここは飯沼観音とも言われているそうでして いつものごとくうぃきによりますと ・・・ 寺伝によれば、神亀元年(724年)、漁師が十一面観世音菩薩を網ですくい上げ、その後、弘仁年間(810年 - 824年)この地を訪れた空海(弘法大師)が開眼したという。鎌倉時代以降はこの地を治めた海上氏の帰依を受け、寺運は興隆した。天正19年(1591年)に徳川家康に朱印を賜わり諸堂を整備。 天正6年(1578年)には8間4方の観音堂を建てた。元禄15年(1702年)鐘楼、多宝塔を焼失。安永2年(1773年)には観音堂を10間4方に改築、ほかには仁王門・鐘楼・多宝塔などの諸堂を整備したが、昭和20年(1945年)に空襲で多宝塔以下観音堂、仁王門、鐘楼、太子堂、馬頭観音堂、二十三夜堂、荼枳尼天堂、龍蔵大権現堂(現・銚港神社)など諸堂を焼失した[1]。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三観音霊場の第27番札 ...出典:ぎるでぃさん
-
4月9日 息栖神社の次に 龍正院(りゅうしょういん) へと行ってみました ここは滑河観音(なめがわかんのん)とも言われているようです こちらはうぃきによりますと ・・・ 承和5年(838年)、滑河城主の小田将治が発願し、慈覚大師円仁が開山したと伝えられる。本尊の体内に納められている1寸2分の観音像は、小田将治が出会った老僧が小田川よりすくい上げたものとされている。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三観音霊場第28番札所 です なかなかの雰囲気の仁王門を拝んで境内へ こちらの観音堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
-
4月30日 ふとゴールデンウイークどうしようかなと思って 時間があるときに坂東の観音霊場を巡ってみようと思い立ち 残りは千葉県となりましたので 思いつくままに他のお寺さんとか神社とかのの御朱印も集めてみようかなと思ってみたりで まずは 本土寺(ほんどじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 本土寺は、池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺とともに「朗門の三長三本」(さんちょうさんぼん)(新潟県三条市の長久山本成寺を含めて四長四本ということもある)と称されている。「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味であり、「三長三本」とは、上記3か寺の山号寺号にいずれも「長」「本」の字が含まれることによる。 近年、境内には茶室も整備され、1000本のカエデ・5000株のハナショウブ・10000株のアジサイの名所として人気を集め「あじさい寺」として親しまれている。本土寺過去帳は、歴史を語る重要な資料である。 現住は62世三田村日正貫首(逗子市法勝寺より晋山)。奠師法縁(奠統会)。 ・・・ となっています さて こちらの山門から境内へ 五重塔 アジサイは ...出典:ぎるでぃさん
-
4月30日 本土寺の次に 某ネットで日蓮宗五大本山というものを見かけまして 何気に眺めていますと千葉県にほとんど鎮座しているみたいなので せっかくですのでこそぉりと訪ねてみることに まずは 法華経寺(ほけきょうじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺とも呼ばれる。山号は正中山。日蓮の説法と安息の地であり、境内の鬼子母神も広く信仰を集めている。いわゆる中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺である。 ・・・ となっています さて 今回も(?)ナビ子ちゃんは裏手側に案内をしちゃったりもしましたけれども・・・ 暫く迷子になりつつ丁度散歩中の御仁にちこと訪ねてみますと 「そこですよ」 といって森の方を ・・・・・? ( ゚д゚)ハッ!(こちらの森が境内。。。) とかすっとぼけていたことに恥じ入りつつ(←もう疲れちゃって来たのかなコノヒト) なんとか駐車場へと とりあえず・・案内図を漠然と眺めつつ(うみゅぅ・・ひろ ...出典:ぎるでぃさん
-
4月30日 法華経寺の次に 意富比神社(おおひじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 意富比神社(おおひじんじゃ)は、千葉県船橋市にある神社。式内社で、旧社格は県社。通称は船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)。延喜式では葛餝郡意富比神社の名称で登場する。 ・・・ となっています こちらの駐車場もちとわかりにくいところにあったりもしましたけれども こちらの鳥居をくぐりまして 参道をとぼとぼと・・ こちらの拝殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
-
4月30日 意富比神社の次に 稻毛浅間神社(いなげせんげんじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 稻毛浅間神社(いなげせんげんじんじゃ)は、千葉県千葉市稲毛区にある浅間神社。主祭神は木花咲耶姫命、瓊々杵命と猿田彦命を共に祀る。旧社格は村社。登記上の宗教法人名称は浅間神社(せんげんじんじゃ)。 ・・・ となっています 駐車場に車を置きまして いつもの様に一旦 こちら側から改めまして境内へ(最初間違えてこの写真の左わきの道に迷いこんじゃったのはここだけの秘密です。。) 神門をくぐりますと 手水舎が正面にありますのが珍しく感じてみたりしましたが こちらの本殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
-
4月30日 稻毛浅間神社の次に 千葉縣護國神社(ちばけんごこくじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 戊辰戦争から太平洋戦争に至るまで、国事に殉じた千葉県出身・由縁ある国事殉難者を祀る神社。合祀祭神は現在五万七千余柱。 ・・・ となっています こちらから境内へ とぼとぼと・・ 神門をくぐり抜けまして ちと物々しい雰囲気を感じちゃったりもします扉でしたが こちらの本殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました 記帳待ちに社務所のなかを見回してみますと ( ゚д゚)ハッ! 連合艦隊・・・・ 震電!?零戦52?紫電改?・・武蔵? ・・・・・ほ・・欲しい(艦これ脳 プラモデルと神社って意外と親和性があるのかしら♪出典:ぎるでぃさん
-
4月30日 千葉縣護國神社の次に 千葉寺(せんようじ、ちばでら)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 寺伝によれば、709年(和銅2年)、この地を訪れた東国巡錫中の行基が十一面観音を安置したのに始まり、聖武天皇の命により千葉寺と称したという。1160年(永暦元年)に堂宇を焼失している。千葉氏の居城である亥鼻城(千葉城)に近いことから千葉氏の祈願所となった。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三観音霊場第29番 関東八十八箇所第47番 です こちらが仁王門でして 境内には立派な大イチョウもあります さて こちらの本堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
-
4月30日 千葉寺の次に 高蔵寺(こうぞうじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 高蔵寺(こうぞうじ)は、千葉県木更津市にある真言宗豊山派の寺院。山号は平野山(へいやさん)。本尊は聖観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第30番札所である。通称は高倉観音(たかくらかんのん)。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三観音霊場30番 です さてこちらから境内へ こちらの観音堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
-
4月30日 高蔵寺の次に 笠森寺(かさもりじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 寺伝によれば延暦3年(784年)に最澄(伝教大師)が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み安置し開基されたとされる古刹で、古来より巡礼の霊場として知られており、十一面観音像が本尊であることから「笠森観音」と通称される。 大岩の上にそびえる観音堂は、61本の柱で支えられた四方懸造と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築様式であり重要文化財である。長元元年(1028年)に後一条天皇の勅願で建立されたと伝えられているがその後焼失し、現在の建物は解体修理の際発見された墨書銘から文禄年間(1592年-1595年)の再建とされている。観音堂の 75段の階段を上がった回廊からは、四季それぞれに美しい房総の山々が眼下に眺められ、その景観は一見に価する。他にも重要文化財の鋳銅唐草文釣燈籠など多くの文化財も残されている。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三箇所31番 です さて こちらから参道をとぼとぼと・・ こちらが目的地の 観音堂ですが 階段を上っていきますと 岩の上に ...出典:ぎるでぃさん
-
4月30日 笠森寺の次に 玉前神社(たまさきじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 玉前神社(たまさきじんじゃ)は、千葉県長生郡一宮町一宮にある神社。式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 ・・・ となっていまして・・ 上総国の一の宮 です もう夕方になっちゃったので間に合うか微妙でしたけれども こちらから境内へ 参道をとぼとぼと・・ 赤い鳥居の向こうに見えますのは こちらの拝殿で参拝をしまして(黒くてピカピカ♪) 無事記帳していただきました 本殿まで黒で統一♪ 敷いてあります玉石(でいいのかな?)は対照的に白くて 社殿の黒さがより一層際立って見えました♪出典:ぎるでぃさん
-
5月1日 玉前神社の次は ・・・すでに日が暮れちゃったので 近くの道の駅で(毎度のことですが)車中泊しまして 翌朝 清水寺(きよみずでら)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 清水寺(きよみずでら)は、千葉県いすみ市岬町鴨根にある天台宗の寺院。山号は音羽山。本尊は千手観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第32番札所である。通称は清水観音(きよみずかんのん)。 延暦年間(782年 – 806年)に最澄がこの地を訪れて草庵を結んで十一面観世音菩薩を安置し、807年(大同2年)円仁がこの地を訪れ千手観世音菩薩を刻んで安置したという。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三箇所 第32番 です こちらの仁王門から境内へ 四天門 をくぐりまして こちらの本堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました こちらの 百体観音堂には 赤穂四十七士が出典:ぎるでぃさん
-
5月1日 清水寺の次に 行元寺(ぎょうがんじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 嘉承年間(848年 - 851年)円仁によって現在の大多喜町に創建されたと伝えられ、鎌倉時代初期現在のいすみ市荻原字茶田谷に移され、行元寺と改められたという。天正年間(1573年 - 1592年)現在地に移された。古くから天台宗の拠点のひとつとなり、江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。 ・・・ となっています さてこちらの山門をくぐり抜けまして こちらの本堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
-
5月1日 行元寺の次に・・ 夷隅神社へ行ってみて(いなかった) 養老渓谷に行って 出世観音にも・・(いなかった) で・・水月寺(いなか・・) ・・・・・・・・・・・・・・・・。(まぁ・・たまに計画っぽいことを考えてもこんなもんさね。。) 観光をしまして 遠見岬神社(とみさきじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 神武天皇の側近として活躍した天富命は、阿波の開拓を終えた後、東国により良い土地を求め阿波忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸した。そして祖神である天太玉命を祀る社を建て、安房の開拓を進めたがその後当地で没したという。天日鷲神の後裔の勝占の忌部須須立命は、八幡岬突端富貴島の天冨命の居跡に社殿を建立、開拓の祖神として祀ったのが当社の起こりとされている。 慶長6年(1601年)の大津波で岬突端の富貴島にあった社殿は決壊し社宝の多くが流失した。このとき決壊した社殿と御神体が高磯の浜に流れ着き、流れ着いた「宮の谷」に社殿を再造営、里見氏・安房正木氏および近郷領主の信仰が篤かったという。 その後、万治2年(1659年)に、領 ...出典:ぎるでぃさん
オススメ関連まとめ
-
2017/07/15
-
2023/06/09
-
2023/09/15
-
2023/06/30