武智丸

「軍都」として栄えた呉市の東。呉市街地と竹原市とのちょうど中間くらいの場所に安浦町という場所がある。
現在は呉市に編入されているが、昔ながらの長閑な半農半漁の町だ。
この町の海の玄関口、安浦漁港の入口を護る防波堤は、一風変わっている。
防波堤そのものが船のかたちをしているのだ。
いや、実はもともと船だったのだ。
太平洋戦争も終盤になりつつあった昭和19年。戦況悪化、資源枯渇により軍艦はもちろん、前線に物資を供給する貨物船の調達すら侭ならなくなり、補給線を維持する輸送力の確保が喫緊の課題となっていた。
寺院の梵鐘から家庭の食器まで、ありとあらゆる金属を掻き集めてもなお鉄が不足するご時勢、ならば鉄を主材として用いずに輸送船を建造できないかと研究をすすめ、兵庫県の塩田跡地にある造船所で建造されたのが、世にも珍しいコンクリート船「武智丸級」である。
武智丸という名は、建造に尽力した建設会社経営者武智正次郎に由来する。造船会社ではなく、コンクリートの扱いに慣れた建設会社が手掛けた点も、この船のユニークさを強調する。
武智丸級は「第一武智丸」から「第四~」まで4隻が建造され、遠く南方まで航海し物資輸送に活躍したという。
コンクリートでできているため重く、機動性では鋼船に劣るが安定感は抜群。しかも連合軍が港湾封鎖のために敷設した、金属探知式の機雷に触れないという利点があった。
また航空機から機銃掃射を受けても、鋼板であれば貫通して穴があくところが、多少傷付くものの機銃弾を跳ね返し、補修もモルタルをちょちょっと塗るだけで済む。
強度も水密性も抜群で、現在でも通用するコンクリート技術の粋を凝らした最高傑作と言って過言ではない。
とはいえ、セメントと砂で船を建造するなど、まるでかちかち山のドロ舟である。
賢いウサギの策に嵌り、ドロ舟ごと水底に沈み成敗された狸の如く、日本は敗戦。コンクリート船も苦しい戦況を打開するに至らず、呉や兵庫など各地の港に打ち捨てられていた。
本当にドロ船になりかけていたコンクリート船に目をつけたのが、終戦当時の安浦漁協組合長さんだった。
南東側に大きく開けた安浦漁港は、中国地方に台風が来襲する度に漁船が流される・浸水するなどの被害を受ける。防波堤設置は漁師の悲願だったが、軟弱地盤に因る施工困難を理由に永く叶えられず、更に戦中戦後の物資不足が追い討ちを掛けていた。
安浦の漁民達は、コンクリート船を湾口に移動し固定、防波堤とする事業を計画。広島県に対し事業化の働きかけ、大蔵省に対し国有財産であるコンクリート船の払下げ実現に向け尽力する。
実はこの発想自体は、特段とっぴなものではない。
現在見られる一般的な防波堤は、ケーソンと呼ばれるコンクリート製の箱を海に沈め設置していく。ケーソン製作場所から設置場所までの移動はケーソンを浮上させ曳航するので、ケーソンが箱ではなく船の形をしていたと考えれば、武智丸の堤防化はケーソン工法と大きく変わらない。
廃船利用とはいえ、防波堤として機能させるには海底の整地、船体の沈埋、捨石(岸や堤を保護するための巨大な石材)投入による固定が必要で、費用も相当要する。それでも事業の有効性が認められ、第一武智丸が呉から、第二武智丸は大阪から回航され、安浦漁港で第二の、そして永遠の任務に就くこととなった。
まずは防波堤設置場所の浚渫をし、軟弱な泥を排除。粗朶(ヤナギの枝などを束にしたもの)で組んだ籠状のマットを沈め、石や砂を投入して基礎とする。陸側から第一武智丸、次いで第二武智丸を所定の位置に係留し船底を爆破、沈埋させる。周辺を捨石で固め船体を固定し、晴れて安浦漁港の悲願だった防波堤は完成した。
その後現在に至るまで、2隻の武智丸は安浦港の守り神として任務を継続している。
一度撤去の話が持ち上がったそうだが、調査の結果、強度的に何ら問題が無いことが判明し立ち消えになった。
地盤沈下の進行で船体が全体的に沈下し、若干沖側に傾いてはいるものの、確かに見た目はどっしりしており、何ら不安定な感じはしない。
第一武智丸は甲板近くまで土砂が投入されているが、第二武智丸の船倉は海水が満ちている状態で、さほど土砂に埋もれた様子は無い。船底を爆破して沈め、船体の重量だけで波浪の衝撃を受け止めているようだ。恐るべき堅牢さと重量、そして耐久性である。
追加の補強工事や、灯台管理用の通路が設置されるなど若干手が加えられているが、ほぼ建設当時のまま残されている。一部の船室には、危険のためお奨めできないが立ち入ることも可能。画像は、そんな船室の壁に穿たれた舷窓から望む、平和で美しい瀬戸内海の景色だ。
武智丸が残されているのは、もちろん船体の堅牢さもあろう。しかし最も大きな理由は、戦中戦後の苦労を乗り越えて、ようやく安全な港をもたらしてくれた武智丸への感謝の念が、今でも安浦の人々に息づいているからだろう。
事実、現在の武智丸船体には、「水の守り神武智丸」との看板が掲げられている。そんな防波堤は、全国探してもどこにもない。
今現在、仮に武智丸を防波堤にする事業を提案しても、ほぼ100%実現しない。
そんな工事を積算する基準が無いから、予定価を算出できない。
標準的な構造の防波堤ではないから、国庫補助も引出せない。
失敗したときの責任を取りたくないから、誰も事業化に動かない。
よって史実同様、施工困難を理由に工事が先延ばしされるか、国庫補助を引出すために無意味に立派な港湾施設が巨費を投じて建設されるか、いずれかである。
何れも、住民要望からかけ離れていることは論を待たない。
武智丸は、太平洋戦争史の重要な生き証人であるばかりでなく、住民の発案に始まり、廃船利用という柔軟な発想を実現させ、今もなお住民に感謝される公共事業のあるべき姿を示している。
住所: 広島県呉市安浦町三津口2丁目 安浦漁港防波堤
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