Evernoteに書き貯めるという習慣を身につけると、いわんやブログの更新も合理化できるのではないかという持論の下ですが、そもそもタイピングスピードと書くタイミングが重要であり、だいたいこういう雑記なんてのは他の仕事をしてる間に思いつくものなんですね、不真面目な私です。
体調悪を理由に欠勤した結果、案の定非常に"Boring"な時間ができてしまったため、ここぞとばかりに読書に勤しんでいます。伊丹十三、この歳にしてハマりそうです。
画面というのは本当に眼にキツイなあというのはこういうときに実感しますね。1時間でもiPadやPCと対峙していられない。頭痛と視神経の関係性については否定できないところであります。
先に述べたとおり、AudiまでもがついにA3セダンを発売したことを受け少し衝撃であり、その後の動向を見守っている現在ですが、そのことも含みつつ今日は日本におけるクルマの存在意義みたいなトコについて考えてみようかと。
人にはそれぞれ、モノに対する「位置づけ」があるはずです。ここまでは自分でやるけれど、ここから先は何かに投資して委託する。というような具合で。
わかりやすいところでいけば、ことに日本においては、料理は家事の一つであるとしても炊飯器を自分で修理したりしないはずです。家の掃除もまた家事の一つでありながら、洗車はもしかすると全自動の洗車機に突っ込むかもしれません。
何が言いたいかっていうと、こういう既成概念って我々が意識していないだけで実はこの国ならではのアイデンティティだったりするよね。っていう話なんですね。
アメリカなんかに行けば平気で家電を直しちゃうけど料理は週末大量に買い込んだコンビーフとオートミールとデリバリーピザっていう人もいるし、洗車も掃除も家のお手伝いさんに任せるという文化もあります。
ちなみに先に予防線を張っておくと、こういうことの線引きってのは基本的には個人差があるもので、家事に時間が割けないとか、逆になんでもDIYするっていう極論はナシってことにします。
その上で、です。
この思考を自動車という業界に落とし込んだときにどうなるか。
端的に言えば、日本はクルマに対してはほとんど自分で手をかけないっていう方向で文化が進んでいるのは明白ですよね。良い悪いの問題ではなく、マーケットの需要として。
当然需要が進めばマーケット獲得、拡大、成熟、衰退というひとつの流れができあがります。
だからこそメーカーはユーザーがほとんど全くと言っていいほど手をかけずに、壊れないカーライフをサポートしていく。よしんば、触らないでくださいと言わんばかりに。
ちょうど読んでいた伊丹十三の本に、こんな一節がありました。
ロータスのクルマは当たり前のように油が漏ると。それはなぜか。
つまり、漏れないように作ることもできるがそんなのはこちらが勝手に決めた「漏れない」の基準に過ぎず、そんな不確かな信仰を抱かせるくらいならはじめからクルマはオイルが漏れるもので、油断のならないモノだとユーザーに認識させるべきだ。だから漏れるのだ。と。
この話が言い訳なのか真意であるかはどうにも測り難いですが、つまりはそういうこと。
人と車の向き合い方っていうのは、そういう部分で少しずつその国のアイデンティティとなっていくということ。
だから私はドイツ車のメカメカしさが嫌いだとか、アメリカ車の粗暴さが嫌いだとか、日本車の完成された部分が嫌いだとかって思うよりは、そういう個性なのかなーと思うようにしてます。
日本の話でした。ま言いたいことだいたい言い切った気もしますが、ことにハイブリッドの台頭と操作系の電気化ってのは日本車の日本車たる部分を大きく前進させた要因かなあと思います。
だってさ、あんなのEUやアメリカじゃ流行らないのは明白でしょ。
日本人というのは往々にして従順な国民性だと思います。つまり、「こういう車だからこういう風に乗ってね。」と言われたことを受け入れやすい。だからこそ、仮に土地環境を度外視しても「言われた通りに使えば間違いのない」国産車が売れるんだと思います。
逆にそれを欧米でやろうものなら「こういう風に使えないと困る。」というオーダーが先についてしまうと思うんです。数年前アメリカでプリウスの回生ブレーキの大リコールがありましたけど、アレはまさしくそういう類のものだと私は思っています。CAN繋いで制御系統を直しましたって言ってるけど、ただ単に制御時間を変えてフィーリングを変化させた程度のことではないかと。
アメリカってのはやっぱりクルマとの付き合いが長い国で(本当はヨーロッパのほうが長いんだけどね。)、未だに自動車パーツの野外オークションやフリマなんてものが行われたりしていて、めいめいが気に入ったカンガルバンパーやらサイドステップやらを買って、その場で取り付けて帰る。みたいな文化がありますね。基本的にその程度のDIYは日本の日曜の庭仕事程度の扱い。そんな国で「アフターサービスは万全ですので一切触らなくて結構です。」という商法は通じない。
またヨーロッパってのはことに階級や個性をかなり意識する人が未だに多い。だからこそ、常にクルマも自分のアイデンティティが光っていなければ気がすまない。だからこそ「内装にビロードを貼りたいんですけど。」みたいなオーダーが出てくる。
私自身ロンドンに旅行に行ったとき、なんてオールペンされたクルマが多いんだと思いました。
さて、マーケットとしての日本の話。
そう、つまりは言われた通りにすれば壊れない、なおかつ使用用途に違わない、そしてみんなと同じような背格好でいたい。こういう日本人の特徴を見事に捉えたのがハイブリッドを含む最近の国産に見られる傾向かと思います。
そしてまた、日本人のステータスというのもバブル~経済の低迷とともに変わってきたように思います。すなわちハイエンドカーはもはや成金の見せびらかしというイメージを持たれるようになった。現代のハイソサエティのステータスはいかに社会的であるかということ。だからこそ、みんな好き好んで経済的な(つもりになれる)ハイブリッドを欲しがるのだと。
しかし、EU諸国は日本というマーケットを甘く見ていたのかもしれませんね。ここに気づくのに5年以上かかってしまった。だからもう後手でハイブリッドまがいやCセグ以下の車をアピールするしかなくなった。
しかし、ですよ。
いざ小手先でそんなクルマを作ったところで果たして日本車の良いところにどっぷり浸ってしまった日本人を攻略できるのだろうか…?
私の頭にはそんな「はてな」が浮かぶんです。
そんな矢先にメルセデスのCLA、BMWの320d、そしてAudiまでもがA3セダン…とこぞってCセグコンパクトセダンを日本市場に投入してきたわけです。
これは世界勢力図が変わってきたか…?と思わずにはいられない状況でした。
だって、正直な話ですよ、ドイツのハイエンドメーカーの中途半端なコンパクトセダンなんて、まずそこに乗る意義が発生しますか?と、私としては思うわけです。
聞けばA3セダンも、開発の発端はアウディジャパンだという話なので、これはアジアマーケットを対象にした展開だということは明白です。
となると、ついに彼らもマーケットに合わせたクルマ作りをしなければならないほど市場が飽和してしまった。と結論できないでしょうか。あるいは、アジアマーケットの攻略という一戦略の中でのやっぱり小手先騙しでしかないコンセプトなんでしょうか。
アジアマーケットという言葉に関しての補足を述べるなら、彼らの市場攻略には言わずもがな中国という巨大市場も視野に入れていることは確かです。中流階級の平均年収が随分上がってきたこの国で、ひとつのステータスとして手に入れるべきクラスのハイエンドカー、これがEUのCセグというトレンド(誰が流行らしたのかは知りませんが)であり、価格帯も概してその層を狙っているような気がするからです。
こういう車両に関して私は少なくとも、国産車を比較対象に上げるようなユーザーが買うべきではないだろうなあ。と思います。
ひいては、ドイツ車のエントリーモデルとして、あるいは好き好んでいるメーカーのセカンドカーとして、そんなスタンスで買うなら十二分なクルマであることは間違いないと思うのですが。
社会学的な分野に感情論をもち挟むのは御法度な気がしますが、そうなるとEUのアイデンティティってどこにいったんだろうなあ…と少し寂しくも思うわけです。
決してハリボテが美しいとは言いませんが、洗練された機能美と、削ぎ落とされたコストパフォーマンスっていうのは似て非なるものじゃないかなと思います。
乗りもしないくせにEU車ヒッピーなH-TECでした。
そんなわけで、クサクサしたブログばっかり書いても仕方がないので、次は先日乗った新型フィットハイブリッドのレビューを書く事にします。