20090705 川崎城 その2
投稿日 : 2009年07月11日
1
1の堀を挟んで本丸の北側にあるのが、二の丸です。
2mほど高低差のある2段構造で、合わせると本丸と同じくらいの大きさです。
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二の丸の下段側は、城の東側に向かって傾斜しています。
木が伐採され、まがりなりにも城址公園の体裁が整っているのは、ココまで。
南北約1kmとも言う城域の半分にもならないのですが、案内図には載っている遊歩道はほとんど消えていて、砂利止めの仕切りでそれと分かる程度。
画像の左寄りの木々の中に、白っぽい服を着た人が居るのが分かりますかね?
幽霊ではなく、同じく城攻めに来ていた人です(笑
あの辺に、二の丸と三の丸の間にあった2の堀へ降りる木製の階段があるのですが、その先はジャングルといってもいいくらいの藪。
階段も安全性に問題がありそうで、ここから三の丸へ行くのは一旦諦めました。
3
空堀(1の堀)の北側です。
右が本丸。左が二の丸です。
その1の5.の1の堀の南側も同様ですが、空堀は、東側の斜面に到達すると、斜面に沿って掘られた竪堀(たてぼり)に繋がります。
この本丸周辺の空堀に豪快さは感じるものの、城としてそれほど技巧的な造りではありません。
しかし自然の地形を活かしたその縄張りはとても堅固で、同族間の争いで乗っ取られた以外、外敵の侵略によって落城したことは無いそうです。
4
二の丸の西側の斜面です。
南側斜面と同様に、大小様々な曲輪群が段々になっています。
東北自動車道がすぐ傍を通っています。
5
東北自動車道脇の道から三の丸へ侵入できないか探しましたが、無理。
一旦、駐車場のある内根古屋へ戻って、宮川のある城の東側へ向かいます。
これは、城の南側斜面。
藪で分かりにくいですが、城の西側から南側を流れる館の川の流れによって、斜面の下部は崖になっています。
6
宮川から見た川崎城東側です。
かつては、東側に大手があったそうですが、現在は城へ上がる道は無いみたいです。
川崎城が廃城になった時期や理由には諸説あり、豊臣秀吉の小田原北条攻めの際、単に参陣の遅れを咎められたとか、代理として参陣した重臣岡本氏が主君の反逆を秀吉に訴えたことから改易されたという説もあるようです。
また或いは、塩谷氏の家系図には、文禄4年廃城という記録があるそうな。
文禄4年(1595年)というと、殺生関白 豊臣秀次が謀反の疑いで追放、その後切腹を命じられた年です。
秀次の周囲にいた武将達も、処刑されたりしてますが、塩谷氏も関係してたんでしょうか。
どちらにしても、これらのことから、塩谷氏は宇都宮氏の一族とは言っても決して家臣ではなく、独立した勢力だったんですね。
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三の丸へ侵入できず、諦めて次の城攻めに向かおうとしたのですが、城域の半分も見ていない事実に納得がいかず・・・
意を決して、二の丸に戻って例の階段を下りて三の丸へ侵入!
「立ち入り禁止」になっていないって事は、「降りてもOK!」って事でしょ!と自分に言い聞かせ・・・
よくやるよ・・・
降りた所が2の堀のはずですが、藪でよく分かりません(笑
二の丸と三の丸の高低差が10mほどあるので、元々1の堀のような大規模な堀ではないようです。
8
多少なりとも遊歩道の痕跡があった二の丸と違い、三の丸は完全に遊歩道が消失してます。
森林管理者用の目印が無ければ、遭難しそうです(笑
この先、3の堀までは確認してきましたが、その先は止めときました。
雨上がりの無人の藪の中を歩くのは、さすがに気味が悪い・・・
よくがんばった、俺。
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