20100305 躑躅ヶ崎館3
投稿日 : 2010年03月08日
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味噌曲輪には、ほとんど痕跡という程度ですが遺構が残っています。
左上 住宅の手前に見える西面の土塁跡。
右上 東面の土塁跡。
石積みがありますが、館跡とは関係ない近辺の耕地にも同様の石積みがたくさん見られるので、遺構ではないかも。
左下 北面にあった土塁は残っていませんが、堀の跡が残っていました。
右下 東面の土塁跡のさらに東側には、御隠居曲輪や無名曲輪があったはずですが、耕地や住宅により消えてます。
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味噌曲輪と接続する西曲輪北側の虎口です。
内枡形の形状が非常によい状態で残されています。
土橋の幅は1m強、10m四方の枡形です。
味噌曲輪側にあったはずの馬出しは残っていません。
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西曲輪北側の空堀。
ちなみに武田勝頼が長篠・設楽ヶ原合戦で織田・徳川連合軍に敗れたあと、 この躑躅ヶ崎館や詰城要害山城では襲い来るであろう大軍勢を防ぎきれないと感じたのか?、韮崎に新府城を新たに築城を開始。
よほど慌てていたのか普請半ばの未完成状態で入城し、その際に躑躅ヶ崎館は一旦破却されたそうです。
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西曲輪北側の空堀。
降りて見りゃよかったな。
武田氏の滅亡後、織田信長に命じられ甲斐の守護となった河尻秀隆が躑躅ヶ崎館をどのように扱ったのかは不明ですが、その後甲斐を支配することになった徳川家康配下の平岩親吉は、館を近世城郭に改修し暫くは使用していました。
その後新たに甲府城築城が計画されますが、築城半ばで徳川家康が関東へ国替えとなったため、豊臣系大名数名によって築城が継続され完成。
そのころ躑躅ヶ崎館は廃城になったようです。
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主郭・西曲輪と味噌曲輪等の北面の曲輪の間に稲荷曲輪とい小さな曲輪がありました。(手前が堀跡)
恐らく稲荷が祭ってあったから稲荷曲輪って言うんでしょう。
ほぼ更地ですが小さな祠がありました。
櫓でも建ってたのかな?
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主郭北側、御隠居曲輪などと接続していた虎口跡です。
ここもやはり馬出しを伴っていたはずですが、遺構は残っていません。
武田神社の境内裏手にあたり、内部は立入り禁止区域なので、通行に使用されず藪化しています。
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左上 主郭東面、大手門の前面には平岩親吉の時代に拡張された曲輪がありました。
大手曲輪とでも言いましょうか。
現在この付近は、発掘調査と共に復元工事が行なわれています。
右上 主郭は西曲輪と違い、枡形を持たない単純構造の虎口だけなので、その前面には馬出石垣を置きました。
さらにその上に土塀などを築き、大手門を隠していたと思われます。
この地層の下からは、武田氏時代の遺構、三日月堀を伴う半円形の馬出しが発掘調査で見つかっているそうです。
左右下 この曲輪の東面は、土塁と総堀と呼ばれる水堀で囲っていました。
南側は住宅地の中に消えてしまっている状態です。
ここから主郭南面にかけての部分は何も無いことになっているけど、何も無かったってことは恐らく無いんじゃないかと・・・
そうでないと、主郭のこの部分だけ外からムキ出しってことになるし。
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神社にあった復元想像図。雰囲気出てます。
かつての城下町である住宅街には、キラ星のごとき武田二十四将の屋敷跡地を示す案内板がありました。
探して歩くのも、また楽しいかも。
本当は要害山城へ行くのがメインイベントで、躑躅ヶ崎館は手早く回って移動する計画でしたが、躑躅ヶ崎館は予想以上に見応えがあり素晴らしい城でした。
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