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2019年04月26日

東京裁判研究:(1)弁護人はどう争ったか-清瀬氏の冒頭陳述-2/2

P30(P25)
然(しか)しながら前にも申し上げた通り、凡(およ)そ軍備というものは相対的のものであります。
当年の我国の国防計画が侵略的であったか、防御的であったかは、これと対照せられまする他国のそれと比較せねば判断はできませぬ。

一九三七年頃我国に隣接しておりました陸軍国は、ソ連と中国とこの二国であります。
中国に対しては、日本はいまだかつて全面的闘争を生ずることは予想しておりませんでした。
従って包括的の計画はありませぬ。

ソ連に関しては、ソ連の第二次五カ年計画と、第三次五カ年計画ならびにその一九三六年以後の極東軍備状況を証明いたします。
これによって我が軍備計画の性質は明らかとなるのであります。

どこの国でも参謀本部または軍令部は仮想敵国を定め、年次計画を立てることが行われているのであります。
これはその相手国と戦争する決意を証明するものではない事はいうに及びませぬ。

 ロンドン軍縮会議以後、我国の海軍の計画と、当年以来のアメリカ合衆国及び
大英帝国の計画とを比較対照することによりまして我国の海軍の計画が侵略に非ざりしことを証明する事ができます。

 自衛権の本質とその限界自体は国際法上の問題であって証明を必要としないものであります。
しかしある具体的の条約において自衛権をいかなる限度に留保しているかと言うことは
その条約締結当時の事情に照らして解釈する事が許されます。
一九二八年の不戦条約の締結の際に各国政府が為し


P31(P26)
た交渉顛末、関係者の公式発表、批准(ひじゅん)の際の留保、これらはこの条約上の
自衛権の限度を証明する資料として被告より提出いたしたいと思います。

 またハル国務長官ならびに野村大使との間に行われた一九四一年の日米交渉の際においても、自衛権の解釈が問題となっております。

この際米国側は自衛権の限度について自己の見解を表明致しました。
被告は米国側が自衛権なりとして表示した関係記録を証拠として提出いたします。

「自衛権の存立はこれを行使する国家において独自の判断をもって認定すべし」
こういう事がいわれております。

すなわち国際法においては自衛権を主張する当事者はその権利が確実に存在するや否や
は自らこれを判断する絶対の権能を有すという事は確実に承認せられた原則であります。

 日本における統帥と国務との関係はため国の人にとっては難解なことと思われます。
然(しか)しながら本件においてはある措置を採ったこと、または取らなかった事、
その責任が統帥の系統に属するか、国務の系統に属するかは重要な関係をもっております。

 これは日本憲法、特にその第十一条、第十二条の解釈に、また確定した慣行に基づくのであります。
軍事に関しても統帥責任者、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、この統帥責任者の権限と
陸海軍大臣の権限とが本件においては重要な争点であります。

その他さらに政府の各機関の権限も本件全体に関係あることであります。
被告側より証人によってこれを明白にいたします。我国軍隊における命令権と


P32(P27)
服従の義務は、多少外国と異なっております。これは平時と戦時とに区別されて観察せられます。

 ポツダム宣言ならびに降伏文書の解釈及び適用を明らかにするために具体的の証拠を出すつもりであります。
それはこういう考えから必要なのであります。

ある国が一方においてある種の戦闘方法を使用しつつ相手方に降伏を勧告する場合に
は、自ら使っている手段を正当なものとする建前で降伏勧告をするものと解釈すべきは当然であります。

 もし降伏条件中に犯罪という文字がありとすれば、この犯罪中には勧告者自身が
勧告継続中に用いつつある方法は含まれないと為すべきであります。

 これは文書又は宣言の解釈上正当のことと存じます。
それゆえ連合軍が公然と日本に対して使いましたところのものと同一型の戦法は
ポツダム宣言中の犯罪中より当然除外さるべきものと解釈されねばなりませぬ。

これによって当裁判所で犯罪として取扱われるべきものの限度が確定するのであります。
そのためにこの期間中に連合軍が採用した戦術を証明するために記録や写真や多数の証人を提出したいと思っております。

 検察官は、侵略戦争は古き以前から国際犯罪を構成したと主張し、侵略の定義を与えております。
これを指示するために多数の国際条約または協定も引用しております。
元来侵略が何であるかということを定義することは、かつてジョンパゼット・モーア氏が「理性への訴え」という一文で指摘いた

P33(P28)
しましたように実に不可能であります。かかる点に関し、ただいま法律上の議論をするものではありませぬ。
それは本件の他の段階に於いて述べる機会が与えられることと予期しております。

しかしながら検察官が引用せられた事実の内に脱落がある事を我々はこの段階において指摘する方が適当であると存じます。
検察官はまず一九〇七年のハーグ条約第一を挙げておられますが、この条約では周旋または調停はこれを絶対的義務とはいたしておりませぬ。

それは当事国は「なるべく」また「事情の許す限り」問題を周旋または調停に付することを期待せられているにすぎませぬ。
検察官は次に一九二四年の第四回国際連盟総会に附議せられました相互援助条約案を引用せらるるようであります。

この案は一九二四年の第五回連盟総会で廃棄せられております。
すなわち条約とはならなかったのであります。従っていずれの国に対しても拘束力がありませぬ。

検察官はまた一九二四年のジュネーブ議定書を引用されております。この条約案には各国代表は一旦調印は致しました。
然(しか)しながら英国の批准拒否によりまして他の国もこれに倣って批准を与えませんでした。

さればジュネーブ議定書なるものはついに条約としては成立致さなかったのであります。

 条約として成立しなかったことは、侵略戦争を国際法上の犯罪なりとなすのが当時未
熟でもあり、これを定義する事があまりにも困難であるという事の証拠として引用せられ得ると思います。

一九二八年のケロッグ・ブリアン条約もまた侵略戦争を犯罪なりと規定はいたしておりませぬ。これに


P34(P29)
ついての議論は初めに申し上げました様にこの場合は省略いたしておきます。

 本件起訴状には、訴因第三十七以下にて殺人――マーダー――なる一分類を設けております。
各種の戦争行為によって発生した人命の喪失を殺人と看做(みな)して被告人らを
起訴せんと致しているのであります。

被告弁護人は戦争による人命の喪失は殺人罪を構成するものではないと主張いたします。
これが国際法の定説であります。

またあまりにも顕著な理論であるがために、書証の引用は必要ならずと考えます。
而(しか)して戦争状態は戦闘行為の第一弾が発せられた時に発生致します。

従って訴因第三十七より四十四までに挙げました人命の喪失が戦争状態発生以後の
事実なることを立証致します。これによって検察官の主張を排斥するものであります。

 検察官は侵略戦争の場合に官職の地位にあった者は普通の重罪人、すなわち殺人犯
人、匪賊(ひぞく)、海賊、掠奪者、こういうものとして扱われ、またそれと同様に
処罰せらるべきものであると主張しておられまするが、且(か)つまたこれが
一般に承認せられた国際法上の法則であるとまで確言されているのであります。

これは国際法のできない昔々上代未聞の時代の事を言われるのでありましょうか。
 検察官は度々太平洋戦争中に起こった事件とドイツの欧州戦闘中に行った行為とを
比較しておられます。

殊(こと)に太平洋戦争中に発生しましたテロ行為、残虐事件はドイツにおいて行われ
たものと同一型のものであること、またこれらの行為は偶然に発生した個人的の不正
ではなくして、国家の政策として計画

P35(P30)
せられたものであるとまで極言されております。

被告弁護人は日本の中央政府ならびに統帥部は戦争の法規慣例は厳重にこれを守る事
ならびに一般市民ならびに敵人と雖(いえど)も、武器を捨てた者には仁慈の念をもっ
て接すべき旨を極めて強く希望したことを証明する用意があります。

それがために一九四三年一月には戦闘訓というものが作られて、兵卒には一人残らずこれを交付いたしました。
また海軍ではかねてよりこの点に関する国際法規の徹底には努力いたしました。

そして違反者は軍法会議によって裁かれたのであります。前線の指揮官は常にこの点を強調しております。

ただ戦争の末期に亙(わた)りまして本国との交通も杜絶(とぜつ)し、戦線は分断せ
られ、その司令官との通信も不能となり、食糧は欠乏し、自己の生存は刻々危険となっ
たような場合、または現地人の非道なるゲリラ的妨害を受けたような場合には、非人
道的行為が行われたであろう事は認めねばならぬと思います。

准士官および士官の労務に関しては必ずその自発的の申し出によって労務に服せしめるという事を命じております。
これらの事については第一部門において具体的に証明致します。
我国においては、ドイツにおいて行われたと言われまするユダヤ人らを迫害するというがごとき故意の人道違反を犯したことは曽(かつ)てありませぬ。

この点においてドイツの戦争犯罪の場合と非常に相違のあることを第一部門において証明されなければなりませぬ。
 第二部門は一九三一年以来、満州において犯したと主張せらるる犯罪を反証するものであります。こ


P36(P31)
れは起訴状においては訴因第二及び付属書A、訴因第十八、二十七に関係するものであります。
訴因第四十四もある程度この部門に関係することを含ませてあります。本部門及びこれ
以下の部門において被告の反証せんとする証拠物は極めて多数であります。

 リットン報告書にも「本紛争に包含せらるる諸問題は往々称せられるがごとき
簡単なるものにあらざること明白なるべし。問題は極度に複雑なり。

一切の事実およびその史的背景に関する徹底せる知識ある者のみ事態に関する確定的意見を表示し得る資格ありと言うべきなり」とリットンは言っております。

 満州国における特殊事態を証するため、日本が当年満州において持っておった権益なるものならびにその正当性もまた証明さるべきであります。

日本は何故に満州に特殊の権益を取得したか。何故に日本人は満州に出て行ったか。
日本は土地が狭く人口は多かった。
海外移民が可能であった時にはそれで一部解決せられたのでありましたが、一九〇八年
の頃、いわゆる紳士協約で事実上米国への移民を中止致しました。

この時、外務大臣小村寿太郎君は議会において「我が民族が濫(みだ)りに遠隔の外国
領地に散布することを避けて、なるべくこれをこの方面、すなわち(満州方面)に集中
し、結合一致の力によって経営を行うことを必要とするに至りましたのでございます。

政府はこれら諸点を考慮いたしましてカナダ及び合衆国の移民に関しては、
既定の方針を踏襲致しまして誠実に渡航の制限を実施しつつあ


P37(P32)
ります」とかように表明しております。
この表明は我国では米国側の了解を得た上のことであると了解せられております。

この演説の全文は証拠として提出せられます。米国との関係においては、一九一七年十
一月二日には、ランシング国務長官と石井全権(日本特命全権大使石井菊次郎)との間に一つの協定が出来ました。

その協定の一部においては「合衆国政府ならびに日本政府は領土の接近せる国家の間には特殊の関係を生ずることある事を承認する。

従って合衆国政府は日本が支那において特殊の利益を有する事を承認す。
日本国の所領に接近する地方において特に然(しか)り」という文字が載っております。

この約束はその後、取り消されましたけれども、それまでの間に我が国および我国民は満州において多くの事を成しておったのであります。

これら既設の事項は石井・ランシング協定の取り消しによって除かれぬ(注:文脈から考えると「る」の間違いでは?)ことになってしまいました。

 当時満州にあった政権は日本と緊密なる提携の下にその勢力を維持しておったのであ
りますが一九二五年から全中国に国権回復運動が台頭いたしました。満州における情勢も大いに変化しました。

一九二八年に張作霖の爆死、満州政権の易●がありました。次いで国民党支部の満州進
出を見るに従いまして、日満の紛争は遂(注:「逐」の誤植では?)年増加したのであります。

一九三一年においては未解決の案件は三百件に及んでおるのであります。以上の事柄も証拠によって証明致します。
 日本は条約および協定によって関東州および満州における権益保持のために関東軍を駐在するの権利


P38(P33)
を持っておったのであります。

一九三六年の関東軍の兵力はわずかに歩兵八大隊と砲兵二中隊と一独立守備隊、兵隊の数にしまして一万四百に過ぎませんでした。
これは一九五〇年のポーツマス条約の追加条項による在満鉄道一キロにつき十五人という制限以下の数であります。

これに対して張学良の統括指揮しておりました軍隊は正規軍二十六万八千、不正規軍がこのほかに大きな部隊がありました。

関東軍は二十余万の支那軍により包囲せられましたわずかに一万四百の小兵力に過ぎませぬ。
しかもその任務は南万鉄道線路1千キロメートルの保護と広範なる満州の地域に散在しておりまする百二十万に達する在留邦人の保護を任務としておったのであります。

斯様(かよう)な状態でありますから、一旦事が起きれば自衛のために迅速な行動を取る必要に迫られておったのであります。

 検察団は一九三一年九月一八日夜の鉄道爆破事件を日本側の策謀によるものであると主張しておられます。
 被告側においては実状を証明するために証拠を提出致したいと存じます。

いずれにしてもその当夜、軍隊的衝突が発生しました。
既にこれが発生しました以上は関東軍においては軍自体の自営と軍本来の任務のために
中国軍を撃破しなければなりませぬ。
この間の消息は当時関東軍の司令官たりし故の本庄大将の遺書によって証明が可能であります。
我が中央(政府)においては事態の拡大を希望せず、なるべく速やかに解決せんと欲し
ましたが事件はその希望に反して逐次拡大してゆきました。その真相ならびに

P39(P34)
連盟理事会と米国側との態度については適切なる証拠を提出致します。

 またその真相は既に証言や書証によって検察側からも示されたものであります。
 一方、関東軍が自衛のために在満中国兵力と闘争しておりまする間に、満州の民衆の間にいろいろな思想から自治運動が発生しました。

これらの思想は保境安民の思想、共産主義に反対する思想、蒙古民族の支那共和国より
の独立運動、張学良に対する各地政権ならびに将領(しょうりょう。軍を指揮する人。
将軍。)の不平不満、清朝の復辟(ふくへき。一度退位した君主が再び位に就くこと。)希望等であります。

一九三二年二月には東北行政委員会ができまするし、三月一日には満州国政府の成立となりました。
以上の大略はこれを証明するでありましょう。

 かつて満州建国後においては、日本出身者も満州国人民の構成分子となることが許さ
れ、また満州国建設後には満州国の官吏となって育成発展に直接参与したことは事実であります。
しかしそれは建国後のことであります。
 
 現に一九三一年九月には。日本の外務大臣及び陸軍大臣は在満日本官憲に対して、
新政権樹立に関与することを禁ずる旨の訓令を発しております。
換言すれば、満州国政権の出現はリットン報告の如何にかかわらず、満州居住民の自発
的運動でありまして、このことは証拠によって証明致します。

 満州における事態は、一九三三年五月には一段落となりました。一九三五年、六年の間には中国側においても事実上の地位を承認せんとしております。
世界のほかの各国も逐次、満州国を承認しまし


P40(P35)
た。殊に一九四一年には、本法廷に代表検察官を送っておりますソビエト連邦は
満州国の領土的保全および不可侵を尊重する契約を致したのであります。

 第三部は中華民国との関係であります。
これは訴因としては、第三、第六、第十九、第二十七、第二十八、第三十六、第四十五
ないし第五十、第五十三ないし第五十五に関係いたしております。

 かの一九三七年七月七日の盧溝橋における事件発生の責任は我方にはありませぬ。
日本は他の列国と一九〇一年の団匪(だんぴ。集団をなす匪賊 (ひぞく) 。義和団 (ぎ
わだん) の異称。)議定書によって兵を駐屯せしめ、また、演習を実行する権利を有しておりました。

また、この地方には日本は重要なる平常権益を有し、相当多数の在留者を有しておったのであります。
もしこの事件が当時日本側で希望したように局地的に解決されておりましたならば、
事態は斯(か)くも拡大せず、従って侵略戦争が有りや否やの問題には進まなかったのであります。

それ故に本件においては中国はこの突発事件拡大について責任を有する事、また日本は
終止符拡大方針を守持し、問題を局地的に解決する事に努力したことを証明致します。

近衛内閣は同年七月一三日に陸軍は今後とも局面不拡大現地解決の方針を堅持し、
全面的戦争に陥るごとき行動は極力これを回避する。
これがため第二十九軍代表の提出せし十一日午後八時調印の解決条件を是認してこれが実行を監視す、と発表しております。

しかるにその後、支那側の挑戦は止みませぬ。廊坊(現在の河北省にある行政区)にお
ける襲撃、広安門事件の発生、通州の惨劇などが引き続き発生しました。

中国側は組織的な戦争体制を備えて七月十二日には

P41(P36)
蒋介石氏は広範なる動員を下令したことがわかりました。一方、中国軍の北支集中は
いよいよ強化せられました。豊台にある我軍は支那軍の重囲に陥り、非常なる攻撃を受けたのであります。

そこで支那駐屯軍は七月の二十七日にやむをえず自衛上武力を行使する事に決しました。
書証および人証によってこの間の消息を証明致します。

 それでも日本はやはり不拡大方針をとって参りましたが、蒋介石氏は逐次に戦備を備
えまして、八月十三日には全国的の総動員を下令しました。

同時に大本営を設定いたしまして自ら陸、海、空軍総司令という職に就きました。
全国を第一戦区【●察方面】、第二戦区【察普方面】、第三戦区【上海方面】、第四戦
区【南方方面】に分かちて、これに各集団軍を配置して対日本全面戦争の態勢を完備しました。

 外交関係は依然継続しておりましたが、この時期には日支の間に大規模な
戦闘状態が発生したのであります。

以上の緊迫状態に応じて我方では北支における合法的権益を擁護するために
遅れて八月三十一日に至って内地より北支に三個師団の兵力を派遣するとともに
また駐屯軍を北支方面軍と改称致しました。

その司令官に対しては平津(へいしん)地方の安定を確保する相手方の戦闘意思を挫折せしめる。
戦局の終局を速にすべきことを命じました。
かくのごとく、この時に至っても我方においては北支の明朗化と該地方における
抗日政策の●棄を要求しておっただけであります。



P42(P37)
 日本政府はこの事件を初め北支事変と称して事態を北支に局限しうるものと考えておりましたが、これが八月中には中支に飛び火致しました。
その原因については、別に説明致します。

支那側は、一九三二年英米その他の代表の斡旋によって成立致しました上海停戦協定を
無視して、非武装地帯に陣地を構築し、五万余の軍隊を上海に集中いたしました。

この地にあった日本の海軍陸戦隊はわずかに四千名にも足りませぬ。
かくて日本の在留者の生命と財産は危機に陥ったのであります。

このとき我が海軍特別陸戦隊の中隊長大山中尉が無残にも射殺されたのであります。
日本は八月十三日に在留民の生命財産を保護するために上海へ派兵する事を決定致しました。

中支における闘争が開始しましたのは実にかくのごとき事情の下においてであります。
換言すれば、事件を拡大してその範囲及び限度を大きくしたものは中国側であります。
 我々は、以上の事実に関し承認を申し出(い)で、戦闘開始の責任の御判定に資せんとするのであります。

 中国との闘争は支那事変と称しまして、支那戦争とは称しませんでした。
戦争状態の宣言又は承認はいずれの当事者よりも、また、他の国よりもなされません
で、蒋介石大元帥も一九四一年太平洋戦争の発生するまでは、我国に向かって宣戦を布告しませんでした。

これは欧米の人々にはまことに奇異に感ぜらるる事と思います。
しかし我が方の考え方はこうであります。この闘争の目的は支那の当時の支配者の反省
を求めて、日本と支那の関係を本然の姿に立ち戻そうとするのであります。
中華民国の


P43(P38)
一部分に実際に排日運動を巻き起こしたのは、中国共産党の態度によるのであります。

蒋氏は世間を●動した、かの西安事件以来、共産党を認容するに至っておりまするが、
日本政府は、この時大元帥の行動は遺憾なる一時的の脱線であると見ておったのであります。

当初は日支の間には外交関係は断絶してはおりません。また、両国の条約関係は依然効力を保持しておりました。
降伏してきました中国兵はこれを釈放しました。
日本在住の中国人は敵人としてこれを扱わずその生業を営むことを得しめたのであります。

また中国に対し宣戦を布告しなかった目的の一つは戦争法規の適用によって、
第三国人の権益を制限せぬようにしようというのでありました。
しかしながら我国の希望に反して、戦闘はだんだんと拡大していきました。

その結果、占領地における第三国人は自らある程度の影響を受ける事は免れぬことに
なっていきました。
それが日本とイギリスとの間に一九三九年七月、いわゆる有田・クレーギー協定ができた所以であります。

 もしこれが宣戦した戦争でありましたら、かえって九カ国条約適用の問題も生じなかったかと存じます。
何となればその場合には中国と日本に関する限りは条約の効力は自動的に効力を失うか、少なくとも戦時中効力は停止さるるからであります。

しかしながら実際は中国も日本も双方とも宣戦はしませんでした。
そこでかの九か国条約の適用の問題が生ずるという矛盾した状態に逢着(ほうちゃく。行き当たる、の意)したのであります。


P44(P39)
 九か国条約が成立しました一九二二年と支那事変がおこりました一九三七年との、こ
の十五年の間に、東亜の天地には五つの異常な変化が起こっております。

その変化の第一はこうであります。九か国条約以後、中国は国家の政策として抗日侮日政策を採用しました。
不法に日貨排斥を年中行事として続行するに至った事であります。
中国は反日感情が広く青年層に伝播するようにと公立学校の教科書を編集しております。排日教科書。

 その二は、第三インターナショナルがこの時代に日本に対する新方略を定めて中国共
産党が、かの指示に従いかつ蒋介石政権もこれを容認したことであります。

 その三は、華成頓会議で成立しました支那軍隊削減に関する決議がひとり実行せられ
ざるのみならず、かえって支那軍閥は以前に何倍する大兵を擁し、新武器を購入し、
抗日戦の準備に汲々(きゅうきゅう)たる有様であったことであります。

 その四はソ連の国力が●来非常に増進した事であります。ソ連は九か国条約当時これに参加しておりませぬ。
従ってその条約の拘束を受けませぬ。そして三千里に亙(わた)るソ支両国の国境を通
じて異常なる力を発揮してこれに迫って参りました。
実に外蒙古を含む広大なる地域は中国がその主導を主張しておりまするけれども、
実際はソ連の勢力下に置かれたのであります。

 その五は、九か国条約締結以前世界の経済が、経済的国際主義より国内保護主義への転換を示し


P45(P40)
てきたことであります。

 九か国条約は終了期限のない条約であることに注意しなければなりません。
この五種類の事情が如何(いか)に帰着するかは後に明白となりましょう。
提出せらるべき証拠は自らその内容を語るものでありましょう。

ただ●に申し上げる事はかくのごとき状態において九か国条約は非現実のものとなりました。
その厳格なる実行は不可能に陥りました。
しかも中国も日本も宣戦はしておりませんが、大きな戦闘に進んでおりました。

この場合、占領地であろうとなかろうと、中国の領土に九か国条約の文字通りの実行は
実際上不可能になってしまったのであります。

被告側ではかかる場合にこの条約を文字通りに実行しなかったという事が、
必然的に犯罪を構成する道理はないと主張致します。

この前提の下において、以上の五点が条約当時考えてられておった状況を変更し、
条約の効力適用を無力ならしめた事を証明するのであります。

 検察官は、被告は、経済侵略について責を負うべきものと致しております。
弁護団は中国において何ら経済侵略はなかった事を証明するでありましょう。
さらにまたいずれにするも経済的の侵略はそれ自体犯罪ではありませぬと主張致します。

 麻薬に関する検事の主張につき上申致します。検事の主張は、日本は一方において
麻薬を中国に販売する事によって中国人の戦意を挫き、他方においては、これによって戦費を得たというので


P46(P41)
あります。

 裁判所のご注意を願いたき事は、我国はかつて台湾において阿片吸飲者を殲滅した
特殊の経験を持っておることであります。

 台湾において---その日本の統治下にあった時代には、阿片専売及び統制をしきま
して、これによって阿片の取引を禁じ、漸次(ぜんじ。だんだん、の意)阿片癒者の数を減少しました。

 中国では主としてその西洋との交通の結果、阿片の吸飲は古くかつ広く行われた慣習でありまするが、
日本は出来うる限り今申し上げた経験を中国に利用したのであります。

 この点に関して具体的事実と数字を挙証し、また阿片売買の収入が戦費に使用されざりし事を証明致します。
最後に被告中に、この事に関係を持った者の存在せざることも上申致します。

 日本の一部の軍隊によって中国において行われたという残虐事件は遺憾な事でありました。
これらはしかしながら不当に誇張せられ、ある程度捏造までもされております。

 その実情につき出来る限り真相を証明致します。日本政府ならびに総帥責任者はその
発生を防止することを政策とし、発生を知りたる場合には、行為者にこれに相当するの
処罰を加うることに努めております。

 元来中国の国民との間には親善関係で進むことが日本の顕著なる国策の一つでありまして、また現


P47(P42)
在も左様であります。
それゆえ中央政府にあり、また派遣軍を嘱託されておったような軍の幹部がかかること
を軽々しく行ったり、またこれを黙過するという事のあるべき道理はありませぬ。

我々は被告の誰もがかかる行為を命じたり、授権したり、許可したり、ならびにそうい
う事のないこと、この点に関する法律上の義務を故意に、または無謀に無視した事のない事を証するために
あらゆる手段を尽くすでありましょう。

第四部門たるソ連関係の事は起訴状においては共謀に関する訴因の外には訴因第十七、
第二十五、第二十六、第三十五、第三十六、第五十一、第五十二等であります。

殊に張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)、ノモンハン事件は各々協定済みの事件であります。
またその後一九四一年四月、日本とソヴィエトとの間に中立条約を締結したことによっても疑問の余地はありませぬ。

 かつまた張鼓峰事件なり、ノモンハン事件は、いずれもソ連と満州との間の国境の不明なるがために発生した紛争であります。
いわゆる侵略戦争の型に入るべきものでない事は言を待ちませぬ。
満州国とソ連との国境が確定されたならば、その係争はその時その場で解決されるのであります。

なおこの争いにおいて日本側主張の国境が正当であったことは我々の提出する証拠によってこれを証明致します。
当時かかる紛争が東京政府または関東軍の計画によるものではないということは特にここに


P48(P43)
付言せらるべきであります。
右両事件における軍派遣の状態は日本がソ連に戦を挑む意思のなかったことを確に証明するのであります。

我々はまた当時日本では日本語で「対ソ絶対静観」方針と名付ける方針を立て、これを遵守しておったのであります。

 ソ連を代表する検察官は我国参謀本部の一九四一年の年次計画を示す事によって日本の侵略意図を証明せんと努められました。

が、しかしながらかくのごとき計画は仮定的のものであり、仮定された戦争が起こった場合でなければ実施せられるものではない事は記憶されねばなりませぬ。

 我々の考えではいずれの国においてもかくのごとき計画を有します。
これを有っても他国の疑を受けるものではありませぬ。これは単に各国の軍当局が義務として作成すべきものであります。

 かかる計画が単に存在していたという事で一国政府の敵意の存在を決定すべきものではありませぬ。
本陳述の始めにも述べました通り、一国の兵力の準備は他国のそれとの対照によって判然しなければなりませぬ。
それで初めて攻撃的なりや否やを判定する事ができるのであります。

我々はソ連が一九三六年、日独に対する同時攻勢作戦を立てた事を証明致します。
一九三九年すなわちノモンハン事件の起こった時以後においては、バイカル以東のソ連の兵力は我が満州と朝鮮とに持っておった兵力の二倍という原則を立てました。

検察側は一九三一年に日本が満州の兵力を強化した事を強調されましたが、一九三一年に満州に相当の兵力を持ったことは事実であります。

しかしこれらの兵力は全く防


P49(P44)
御的のものでありました。
これを証するものとしては、その時代における前記ソ連の増兵、ならびにソ満国境におけるソ連軍の情勢よりも有力なる証拠はありませぬ。

殊に一九四五年八月、この時はソ連が我国との中立条約を持っておりましたが、これを
無視して、早くも虎頭(現・中国黒竜江省鶏西市虎林市虎頭鎮。満州国だった頃には
大日本帝国陸軍の要塞があり、国境を接するソ連からの満州防衛を目的とする関東軍
の主要拠点の一つだった)南方より越境して来て引き続き満州国に侵入してきました。

さらに驚くべきはこの決意は既に一九四五年二月十一日にヤルタで為されております。
これは明らかに当時なお日ソの間に効力のありました中立条約の違反であります。
我国が満州においてとりたる防御的措置が当然であった事はこの事情によっても決定的に証明されているのであります。

 我々は●に第五部門、太平洋戦争の説明に到達致しました。これは訴因中、きわめて多方面にわたっております。
訴因第一、第四、第五、第七ないし(=から。以下同様)第十六、第二十ないし第二十
四、第二十九ないし第三十四、第三十七ないし第四十三、第五十三ないし第五十五等に関係しております。

この件につき証拠を規則正しく提出するため、上記訴因のあるものについては、更に小
部門を設けて後に別に詳細に取り扱うでありましょう。

 戦争前に日独伊三国の密接関係が成立しておりましたが、これは太平洋戦争準備のためではありませんでした。
我々はこれを証明するため、適当な証拠を提出いたします。
一九三六年の第七回国際共産党大会では、その破壊的目的をまず日独両国に置くということに定めました。

それゆえ両国は自


P50(P45)
衛上これに対処する策を立てねばなりませぬ。
殊(こと)に日本としては、これは寒心に堪えぬ(=恐怖を感じる)ことでありました。
共産主義は隣邦中国に政治的、社会的革命を使●(口へんに族。読み方不明))してこれを淵に投ぜんとしておったのであります。

ソ連からは革命技術と人的援助という貌(かお)で補助の手を延ばして参りました。
これは一九二三年の孫文・ヨッフェ間に相互共鳴の共同宣言以来、継続されたのであります。
これは日本帝国の安寧上、最も危険な事でありました。

 かくの如くして日本と第一にはドイツとの間に共産主義に対する共同防衛が成立して、次にはイタリアとの間にも同様条約が成立しました。
中国と日本との間の共同防共の原則は、外相広田氏によって提案せられました。

後には一九三八年の近衛声明にも包含せられたのであります。
赤化防止につき共同の利害を有しているので、日本とドイツが締結したのが共同防共協定であります。
一九三六年十一月二十九日の協定がそれであります。
これが後日、日米英戦争を予期してつくったものでないことは説明を要しませぬ。

現にこの協定の第二条にはこう書いてあります。
「締約国は共産インターナショナルの破壊工作により、国内の安寧を脅かさるる第三国
に対して本協定の趣旨により防衛措置を採り、また本協定に参加する事を勧誘すべし」
またそのいわゆる秘密諒解事項というものも何ら他国の侵略を意味するものではありませぬ。

該諒解事項はソ連が締約国の一国に戦を挑んだ場合にソ連の負担を軽からしむるようなことは為さぬという極めて消極的なものでありました。

一九三九年に、


P51(P46)
防共協定強化のために日本とドイツが交渉をしたことがありますが、これはドイツとソ連の不可侵条約によって突如中止されました。
これとても英米への反対を目的としたのでは決してありませぬ。

 一九四〇年九月二十七日の日独伊三国同盟は最も顕著な条約でありますが、この条文は簡単であります。
この条約も日米戦争を目的とするものではありませぬ。この条約において考えられました事は、むしろ日米間の戦争を避ける事であります。

 証拠は、ドイツと日本とイタリアとの間に有効な協力のなかった事を示し、かつまた
ドイツが日本に対して、ソ連に対する戦争に参加すべき事を強調した事を証明するでありましょう。
しかし日本はこれを拒絶しております。

 ドイツは対英戦争につき日本の援助を求めましたが、日本はドイツと協同することをこれまた拒絶しております。
むしろ独立の行動に出ております。

 ドイツは合衆国を戦争の外に置くべく交渉しました。これは成立しませんでした。
証拠はマーシャル将軍が戦時中、米国大統領に対する年次報告において、日独両国の間に軍事共同はなかった事を述べておる事実を証明致します。

 一九四一年秋以前の日本の計画経済、陸海軍備はすべて防衛的であります。
また太平洋戦争を予期して立てられたものではありませぬ。
米英の海軍と日本の海軍の比較ならびに日本海軍の年次計画はそ


P52(P47)
れ自身、非侵略的のものであることを決定的に証明致します。

検察側は我が海軍が委任統治領を要塞化し、これに基地を設けたと主張されるのであります。
しかしこれは事実ではありませぬ。要塞とは陸海空よりする攻撃に対抗する一定の防備施設のある事を必要とします。

基地とは艦隊に対する補給施設のある事を必要と致します。
この島々に当時敷設されましたものは、条約上許可さるべき交通通信の平和的な施設な
いしは海軍がその付近に演習用として設けた一時的施設に過ぎなかったのでありまして、全てこれは許さるべきものであったのであります。

 残虐事件および俘虜虐待に関しては、被告人中の多くの者は法廷において発表せられるまではこれを知らなかったのが事実であります。
被告中の他の者はこれを知ったとしても、これを制止する権能を有しておりませんでした。

さらに他の者はこれを制止するため、またこれを知った場合にこれを処罰するに全力を尽くしました。
また証拠は犯行が行わるる以前にこれを止める有効手段のなかった事も証明するでありましょう。

さらにこれはいかなる被告も残虐事件につき共同謀議をなしたり、命令を下したり、授
権をしたり、許可した事はなく、この点に関する戦争法規慣例を故意にまたは、無法
に法律上の義務に反して無視した者のない事を証拠をもって提出するでありましょう。

 我々は今太平洋戦争の原因自身を証拠する段階に到達いたしました。
これは慎密(しんみつ。つつしみ深くて、よく注意の行き届くこと。また、そのさま。)かつ重要なる研鑽を必要といたします。
我々はこれが真に日本の生存のためにやむにやまれぬ事情の下に自衛権を


P53(P48)
行使するに至った事を証明するでありましょう。

裁判所のご注意を乞いたいのは、日本は一九三七年以来、心ならずも中国との間に戦争
にも比すべき大きな闘争状態、しかも各国よりは戦争として認められておらんものに巻き込まれておった事実についてであります。

 日本は第三国においては、当然この特殊の状態を承認して下さるものと期待しておりました。
一九三九年天津事変に端を発しまして、日英交渉を成した結果、イギリスは前に言及し
たように同年七月二十二日に、我が国との間に共同声明を発して大規模の戦闘行為中
なる中国における現実の事態を承認する旨を声明したのであります。

華盛頓(ワシントン)政府がこの声明をどう諒解したのか我が方においては不明である
が、しかしながら一九三四年七月二十六日に、突如一九一一年以来両国通商の根本で
あった日米通商航海条約廃棄を通告したのであります。

これより両国間の誤解はだんだん増大していったのであります。

爾来(その後、それ以来、の意)米国は我が国に対し種々なる圧迫と威嚇を加えてきたのであります。

 その第一は経済的の圧迫でありました。
 その第二は我が国が死活の争いをしている相手方、蒋介石政権への援助であります。
 その第三は米国、英国及び蘭印が中国と提携して我が国の周辺に包囲的体形をとる事でありました。

以上三つの方法は一九四〇年以来逐次用いられ、ますます強度を加えてきました。

第一の我国に対する経済圧迫の標本を挙げてみますと、米国は一九三九年十二月には
モーラル・エンバーゴー(道義的輸出禁止)を拡大し


P54(P49)
まして、飛行機、その装備品、飛行機組立機械ならびにガソリン精製の機械を禁止品目に追加して来ました。

米国政府は一九四〇年七月中には我国に対し屑鉄の輸出禁止を行いました。
屑鉄は当時我国のとっておった製鉄法から見て極度に必要なるものであります。
その禁止は我国の基本産業に重大打撃を与えました。同年八月には米国は航空用ガソリンの輸出を制限しました。

日本は全体として年に五百万トンの石油の供給を受けなければなりませぬ。
これは国民生活上及び国防上の必要の最小限であります。
しかるに我が国産の石油は非常に大きく見積もって年三十万トンを出でぬのであります。

この間の不足は海外よりの輸入により補うの他はありませぬ。
そこで我国は東亜における唯一の石油の供給国でありました蘭印(オランダ領インド)
に対し小林商工大臣を派遣し、後また芳沢大使を派遣し、蘭印との交渉を続けようと
致しましたけれども、ついに商談は不調に陥ってこちらの努力は水泡に帰したのであります。

これは蘭印が米英と通じての態度であると了解せられております。
これと同様の妨害は仏領印度支那(フランス領インドシナ)及び泰(タイ王国)の当局よりも実施せられました。

すなわち我国の正常なる必需品、コメの輸入及びゴムの輸入は妨■されたのであります。

 第二の蒋政権への援助はどうであるか。
一九四〇年十一月三十日の我国と蒋政権との日華基本条約締結に対して明に報復の意味
をもって米国は重慶に対して五千万ドルの追加借款を供与し、更に別に法幣安定資金として急速に五千万ドルを提供する事が考慮せられつつあると発表し、英国政府

P55(P50)
も十二月十日には一千万ポンドの供給を発表しました。

英国の重慶に対する武器供給は言わずもがな、一九四〇年、雨季明けには英国はビル
マ・ルートを再開して直接、武器、軍需品を我国の当時敵としております蒋介石政権に供給したのであります。

仏領印度支那も重慶への供給路として使用せられました。
加うるに一九四一年に武器貸与法が中国に適用せられることとなったのであります。
我々はこれらの事実を証する直接の証拠を提出いたします。

遂に我々は第三点、日本の周囲に数か国によって張り巡らされた鉄環のことに到達致します。
一九四〇年十二月には米国太平洋艦隊の主力をハワイに集中いたしました。

すなわち対日示威が行われたのであります。
英国は同年十一月十三日、シンガポールに東亜軍司令部を新設いたしました。 

マレー、ビルマ、香港をその総司令官の指揮下に置き、豪州およびニュージーランドとも緊密に連絡をいたし、東亜英領の総合的軍備の大拡張の実施に着手したのであります。
この間、米英蘭支の代表は引き続いて急速に各所において連絡をいたしております。

 殊(こと)に一九四一年四月、マニラにおけるイギリス東亜軍総司令官、アメリカの
比島(フィリピン)駐在高等弁務官、米国アジア艦隊司令長官、和蘭外相との会談は
我方の注意を惹いたのであります。

同年六月中旬にはシンガポールにおいて英蒋軍事会議が行われたのであります。
 これらの詳細は証拠によりこれを証明いたします。これらの急迫した諸表現に対処して、日本政府は


P56(P51)
緊急の災害を避けるために、各種の手段を採用しました。

すなわち一九四一年春以来、在米日本大使は悲しむべき緊張が終了して日米の関係を円滑にするために最善の努力をせよと要請せられたのであります。

大統領と日本大使との会見及び国務長官と日本大使との交渉は数十回に及んでおります。
東京政府はなんとか平和的妥結をみたいと、あらゆる努力を集中致しました。

日本の総理大臣は米大統領に太平洋のどこかで直接会見をして事を一挙に解決せんとしたのであります。
この目的のために米国へ大使を増派した事もありました。
また七月中旬にはアメリカとの交渉を遂げるためというので、内閣を変更したのであります。

これは独立主権国として外交の必要上なしうるべき最後の措置であります。
しかし全ての努力は何らの効果も無かったのであります。

 一九四一年七月二十七日には、米国政府は我国の在米全資金の凍結を行いました。
これは我国の仏印への平和は兵を誤解しての措置であります。
英国及び蘭印も直ちにこれに倣(なら)いました。

我国とイギリス及びオランダとの間には通商航海条約は当時現存いたしておりました。
従って英および蘭の日本資金凍結令はこの条約に違反してなされた違法なものであります。

 裁判所の許可を得て申し上げたいことがあります。
元来我国は国内生産のみにては全国民を養う事は全く不可能であります。
従って、貿易によって国民生活必需品を輸入する他は内地在住者の生命を維持する手段はないのであります。

米、英、蘭の資金凍結によって我が貿易の半ば以上は失わ


P57(P52)
れ、過去八十年間の営々たる労苦は一空に帰してしまいました。
これが、正当に又は違法に米英蘭によって実行せられました資金凍結の結果であります。
日本国民の不可侵の生存権は遂に奪われたのであります。

ちょうどその時米国は七月二十四日の野村大使に対する通告通りに八月一日に
石油輸出禁止を発令いたしました。日本の海軍は現在貯蔵の油を消費した後は移動性を喪失いたします。
支那事変は事実上解決不能となります。我が国防は去勢せられたこととなります。

ここに自衛権の問題は冷ややかな現実問題としての全国民の眼前に姿を現わして来たのであります。
しかもそれは即座の解決を要することであります。

 一言にして言えば、自衛権成立の基礎的事実はこの時期に十分に完備したのであります。
しかしながら日本はこの時においても、直ちにこの自衛権を行使しませんでした。

それとは反対に、忍ぶべからざるを忍んで、なんとか戦争の原因となり得るものを
取り除こうと努力したのであります。
この間の努力は有力にしてかつ信憑力強き証拠をもって証明せられます。

 日本の平和への願望、日本の真摯(しんし)なる努力は遂に実を結びませぬ。
一九四一年十一月二十六日の米国の通告は以上の自衛権構成事実のただの一つも
これを除くことの不可能であること明白疑いなきものといたしました。

ここにおいて日本の政府は部内の各機関の意見及び観察を徴し、最大の注目を払い、
遂に自衛権の行使を為すの外なきに立ち至ったのであります。それは十二月一日でありました。


P58(P53 )
ただし開戦の現実の期日を決定した後でも、軍令には最後の瞬間までこの急迫事情の一
つにても取り除かれ、米国との関係妥結が成立すれば、全て従前の指令を撤回するの条件が付してありました。
この場合には連合艦隊は近海に帰り戻ってくるのであります。

 検察官は我国の開戦意思の通告に欠くるところがあるがため、犯罪を構成するという意見を立てておられます。
 弁護人はこの点につき次の事実を主張し、かつ立証するでありましょう。

まず我国の通告書の交付の時間ならびにその経緯について次の事を証明いたします。
一九四一年十二月六日(ワシントン時間)には東京外務省はワシントンの日本大使に対し、英文の対米覚書を決定した旨、通告いたしました。

そしてこれを米国側に提示する時期については別に電報するであろうが、電報到着の上
は何時にても米国側に交付しうるよう文書の整理その他、万端の整備をなしおくように、この電報は命じているのであります。

これらの電報はすべて米国側に傍受されているのであります。
右通告文は十四部に分(わか)たれておりますが、そのうち十三部は六日夜にワシントン大使館に到着しております。

米国側はこれをも傍受し、六日午後九時半ごろに大統領はこれを読んでおります。

最後の第十四部もまた十二月七日に米国側で傍受しております。
この部分の到着と前後して重要なる通告交付の時間を指定した電報が大使館に到着しております。
その時間は午後十一時であります。そこで野村大使は右交付のために、


P59(P54)
国務長官コーデム・ハル氏に午後一時に面会するの約束をしたのでありました。
この約束通りにこの通告が一九四一年十二月七日午後一時に交付されておりましたなら
ば、この交付はワシントン時間に換算して午後一時二十五分に始まった真珠湾その他の攻撃よりも前になるのでありました。

 しかし大使館における電報の解読と印字に時間を取りまして、検事立証の如くに実際
は野村大使は二時に国務省に到着したのであります。二時二十分に通告書を交付したのであります。

野村大使が国務省到着後、直ちに通告書を交付しえたならば、真珠湾攻撃後三十五分となります。
二十分待たされたがため、これが五十五分の遅延を生じました。

 東京政府は七日午後一時すなわち軍隊の作戦開始より半時間前には、安全に通告文の
交付ができるように電報の大部分を前夜に電送し、ごくわずかな部分がその日の午前に到着する様、発送したのであります。

もし事務が順調に行っておったならば、この通告は予期の通りに攻撃前に交付し得られたのでありましょう。
ただ東京においては、支配する事の出来ない出来事によって交付は遅れました。

この事実を弁護人は適当なる場合に正当に証明いたします。
 なお真珠湾攻撃が不意打ちでなかった事について、貴裁判所のご判断の資料として役立つであろう次の事実を証明します。

アメリカ国務省の当局は一九四六年十一月二十日付をもって日本が米国政府に交付しました通告を最終的のものと看做(みな)しております。
二十六日以後は全事件を軍当局の手に委


P55
ねた。すなわち一九四一年十一月二十七日朝、国務省の最高当局は日本との関係事項は陸海軍の手中にあると述べております。

そして同日に海軍作戦部長および陸軍参謀部長は、ハワイ地区の軍隊に対しで----、戦争警告ウォー・ウォーニングを送っております。

 前にも述べた如く米国当局は十二月六日夜には最終部分を除いた日本の通告を解読しました。
最終部分は十二月七日早朝に解読し、大統領は同日午前十時にはこれを受け取っております。

 米国陸軍省、海軍省は共に外交関係断絶の近きにある事を示す通信を入手し、推測により攻撃の急迫していることは予知しえているのであります。

ハワイ地区司令部は日本をして最初の公然たる攻撃をさせるように導くべしという事は、その防御を危険ならしむる行動を制限するという意味ではないとの訓令を受け取っております。

また同司令部は日本の攻撃前に偵察を実行すべしとの指令も受け取っております。
そこで十二月七日午前六時三十三分より六時五十五分までの間(これはハワイ時間)、米国海軍がハワイ近海において日本の小型潜航艇を撃沈したのは怪しむに足りませぬ。明瞭であります。

我々は十二月七日の午前七時五十五分(ハワイ時間)における真珠湾攻撃がサプライズ・アタックではなかった事を証明するため、小型潜水艦撃沈の事実を引用するのであります。

 検事はさらに右問題たる日本の通告分はヘーグ条約第三に規定せられた理由を付した開戦宣言に該当せざるものなりと論じております。およそ文書の解釈は単にその字句だけでなく、これが作成せら


P61(P56)
れた時の状態を注意深く秤量したうえでなされねばなりませぬ。
またかくの如き文書は常に用語や章句のみでなく、これを全体として解釈すべきであります。
当時の空気より見れば、米国当局の或(あ)る者は前述のごとく十一月二十六日以後に
おいてはもはや問題は政府当局の手を離れて軍に移ったと言っている。

日本の外交文書は極めて長文で二千六百語に及んでおりますが、これを一体と見ねばなりませぬ。
そのうちには米国の態度を非難し、日本が軍事行動を執るの外、方法が無い事を明白にしております。

すなわち日本が米国の態度を了解する事は困難なりと述べた後に、右通告分は次のごとく記載しております。
いわく「世界の平和は現実に立脚し、かつ相手方の立場に理解を保持した後、受諾しう
るべき方途を発見する事においてのみ実現しうるものにして、現実を無視し一国の
独善的主張を相手国に強要するの態度は交渉の成立を促すゆえんのものに非ず」、
曰く「合衆国政府はその自己の主張と理念に魅惑せられ、自ら戦争拡大を企図
しつつありと言わざるべからず」、
曰く「合衆国政府はその固辞する主張において、武力による国際関係処理を排撃し
つつある一方、英国政府その他と共に経済力による圧迫を加えつつあり。
かかる圧迫は場合によっては武力圧迫以上の非人道的行為にして、国際関係処理の手段として排撃せらるべきものである」、
曰く「合衆国政府が帝国に対し要望するところは(中略)いずれも支那の現実を
無視し、東亜の安定勢力たる帝国の地位を覆滅せんとするものである。
米国政府のこの要求は前記援蒋行為停止の拒否と共に合衆国政府が日支間に平和状態の復帰及び東亜平


P62(P57)
和の回復を阻害するの意思あるものなる事を立証するのである。」

 これを要するに、通告の上記部分は、日本はさらに交渉を続くるの希望を失い、
真に自衛のため最後の手段を採るのやむなき様に追い詰められた事を明白にするのであります。

 一九四一年十二月六日夜に、日本の通告の第十三部分までが大統領に達した時でさえ
も彼はこれを読んで「これは戦争を意味する」”This means war,”と言っております。

 通告分の最後の部分においては「日米の国交を調整し米国政府と相携(あいたずさ)
えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望は遂に失われたり。

仍(よ)って帝国政府は●に合衆国政府の態度に鑑み、今後交渉を継続するも妥結に達
するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」とあるのであります。

 これは外交関係断絶の通告と同一価値であります。
また当時存在しておった緊迫した情勢から見れば、疑いもなく日本が戦争を開始せんとする意思の表明であります。

 必要なる各種の制限によりまして、私のこの陳述では最も重要なる争点のみに言及しただけであります。
その他に多数のほかの事項が残っておりますが、これらは、前に申し上げました通り、他の部門の始めに行われるべき劈頭(へきとう)陳述に譲ります。

 裁判長閣下ならびに裁判官各位


P63
私は●に私が被告のためになした長き陳述に対し、公正にお聞き取りを賜りましたご寛大とご忍耐に対し深き感謝の意を表します。

 我々は今後多数の証拠を提出致します。
 我々はこれは貴裁判所の信用とご考慮を賜るべきものと確信しております。
 我々がここに求めんとする真理は、一方の当事者が全然正しく、他方が絶対不正であるという事ではありませぬ。

人間的意味における真理は往々人間の弱点に包まれるものであります。
我々は困難ではありますが、しかし、公正に、近代戦争を生起しました一層深き原因を探求せねばなりませぬ。
平和への道は現代の世界に潜在する害悪を根絶するにあります。

近代戦悲劇の原因は人種的偏見によるのであろうか、資源の不平等分配により来(き
た)るのであろうか、関係政府の単なる誤解に出づるのか、裕福なる人民、または
不幸なる民族の強欲、または貪婪(どんらん)にあるのであろうか、これこそ人道のために究明せられねばなりませぬ。
 起訴状によって示されたる期間中の戦争乃至(ないし)事変の真実にして奥深き原因
を発見する事により、被告の有罪無罪が公正に決定せらるるのであります。
これと同時に現在、または将来の世代のために恒久平和への方向と努力の方途を指示するでありましょう。
  終わりであります。


P64
昭和三十五年七月 一日 印刷
昭和三十五年七月一七日 発行
著者 林 逸郎
発行者 戦争犠牲者顕彰会
    代表 三浦 兼吉
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Posted at 2019/04/26 05:52:28

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