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2019年04月26日

東京裁判研究:(3)戦争はこうして起きたのだ

P1/P2
弁護士 林逸郎 著
戦争はこうして起きたのだ


P3
”戦争は絶対に反対である”とか”軍部がわれわれを無用の戦争にかりたてたのだ”と
か”われわれはあくまで平和を愛好するものである”とか、いくらわめき立ててみたとこ
ろで、それだけで、戦争が無くなるものでもなければ、恒久の平和がやって来るもので
もない。戦争を無くするがためには、戦争の起きた真因を深く探究して、その原因を除くように努める他には方途はありえない。
恒久の平和を希(こいねが)うがためには、何事よりも先づ、戦争の起きた真因を探求することが肝要である。
この故に、われわれは、東京裁判により明らかとなった太平洋戦争の真相を、できるだけ徹底しやすい方法で、究明してゆこうと考えているものである。

戦争犠牲者顕彰会


P4
はしがき
真珠湾の攻撃は、日本国民の大部分にとって、寝耳に水の出米事であった。
それにも拘らず、大本営は、戦争開始の原因を評細に告知することを怠り、戦況のみを専ら報道して、国民を、勝利にだけ狂喜乱舞するように導いた。
更に、敗戦の惨めさは、連合国をして、事後法により、戦争に参加した日本人の一部を裁判せしめる結果となった。
 幸にして、私は、その載判(極東国際車事載判)の弁護人に選任せられる傍ら、弁護団
のスポークスマンに推薦せられたので、戦争開始の真因を真剣に研究して、これを発表する又とない機会を与えられたのた。
 弁護団としては、極めて公正な立場から、戦争原因を解明しようと試み、米、英、
蘭、ソ、中などの国々の対日本行為についても亦(また)、鋭く立証しようとした。
然(しか)るに、法廷は、
”この法延は、日本の行為(アクト・オプ・ジャパン)だけを審判するところであって、
日本以外の国が、如何なる国に対し、如何なる行為をしていようとも、それは悉(ことごと)く審理の


P5
範囲外である”
 と宣言して、連合国側の日本に対して執った挑戦態度についての証明は真ッ向から排斥した。

 そればかりではない。連合国当局は、真実を正直に語る証人の言葉を、新聞やラジオ
で報道することを制限し、敗戦に使乗して安易な生活を求めようとするものの、歯の
浮くような売国奴的な証言のみを、細大となく報道せしむる態度に出た。

従って、法廷の真相は、国民には、大半湾曲して教えこまれたというも、過言ではない。
 また、当時の国民の大部分は、生きんがための苦労に追いまわされていて、開戦の原因を探求するだけの、心のユトリが全く欠けていたようでもあった。
 私は、あらゆる機会に、あらゆる方法で、私の知り得た戦争の真因について発表し続けた。
その間に、十三年の歳月が空しく流れた。かくして漸(ようや)く、私達の言説に耳を傾けようとするものが、多少はできてきた。
 私は、いろいろの角度から、戦争の原因を研究することを私のライフ・ワークとしたいものと、ひそかに決心しているものである。
   昭和三五年七月
   著者  林 逸郎


P6(-1-)
戦争はこうして起きたのだ
林 逸郎
”軍部がわれわれを無用な戦争に追い込んだのだ”ソ、中、米、日が仲良くしさえすれば
戦争は絶対に起こらないのだ”などと、世迷言を得意がって喋舌(しゃべ)ったり、
書いたりしている政治家と自負する代物や、評論家と自称する代物が、余りにも多くウヨウヨしている。

 そんな代物は、何万人いたって、半知半解の徒だから大して間題にするには足りない
が、さて、思慮浅薄な若い者が、ウッカリして、その手に乗りそうなのは、寒心に堪えないところだ。
 そんな代物に限って、戦争の真因を研究したこともなければ、戦争の結果を省察した
こともなさそうだ。

戦争の真因を真面目に探究し、戦争の結果を真剣に省察するなら、そんな安易低劣な判新は断じて出てこないからだ。
 私は、極東国際軍事裁判弁護団のスポークス・マンとして三ケ年半、更に、日本弁護
土連合会の戦犯釈放特別委員会の委員長として七年余り、戦争原囚の探究と、戦争結果
の省察とに、情魂を尽


P7(-2-)
くしてきたので、いわゆる政治家や、いわゆる評論家よりは、多少は優れた資料を持ち、多少は深く推知し得たものと秘かに己愡れているものだ。
 奇怪にたえないのは、戦後歴代の政府が、この問第について真剣に研究しようとする努力をしないことだ。

 清瀬一郎さんが、文部大臣であったとき、年額千五百万円で、継続的に研究をする機
関を設けるように要求したが、予算を僅かに百五十万円に削り去り、法務省の片隅で、
豊田元海軍大佐を中心として少数のメンバーで、戦争載判資料の整理を続けているに過ぎない惨めなありさまである。
 戦争開始の決定的原因は、殆んど凡(すべ)て、国家間の経済事情の対立摩擦であ
る、と結論しても過言ではない。

その経済事情の数低的探究をしようとするものさえも、今となっては全然いないようだ。
 政治的事情についても、外交的事情についても、思想的事情についても、政府は素よ
り民問においても誰一人として、真面目に、真っ正面からこれと取組もうとはしていない。

それのみか、恰(あたか)も頬かむりをして逃げまわっているのではないか、とさえ訝(いぶ)かられる態度をとっているものがかなり多いのだ。
 アメリカにおいては、というと、太平洋戦争の開始原因を研究した文献が、私の知り得た範囲でだけでも、すでに八十二種出ている。


P8(-3-)
 世論に押されてルースペルト大続領が任命した連邦最高裁判所判事オーウェン・J・
ロバーツ委員長とする真珠湾事件真相調査委員会が、一九四一年一二月一八日から翌年
一月ニ三日までかかって作りあげ、大続領の名によって発表したロバーツ報告書と、
一九四五年一一月五日から翌年五月三一日までを調査期間とした、十名の議員によ
る上院下院合同真珠湾事件真相調査委員会の記録とは、その代表的なものといえよう。

 試みに、上院下院合同真珠事件真相調査委員会の記録中にある、陸軍長官スチムソンの証言を要約すると次のようなものだ。
――― 一つの間題がわれわれを大いに悩ませていた・もし敵が攻撃してくると判って
いる場合、 敵が機先を制して飛びかかってくるのを手を拱(こまね)いて待っているということは、通例からみて賢いことではない。
しかし、われわれは日本軍に最初の一発を発射させるということは、なるほど危険はあるが、アメリカ国民から全幅の支持を得るためには、日本単に先に攻撃させて、誰が考えても、どちらが侵略者であるか、一片の疑念もなく判らせるようにした方がよい、ということとなった ―――
その後に出版せられた”スチムソン日記”の一月二五日欄には、この証言を裏書した次の一節が載っている。


P9(-4-)
――― 問題は、どのように日本をあやつってわれわれにはあまり過大な危険を及ばす
 ことなく、 日本に最初の一発を発射させるような立場に追い込むべきか、という
 ことである。これはむつか しい注文であった ―――
 このアメリカ首脳部の注文は、暗号電報の傍受により、日本の行動が手に取るように
判っておりながら、ロを閉して、これをハワイのキンメル海軍大将や、ショート陸軍
中将にだけは知らせず、恰(あたか)も日本が真珠湾を不意打(サプライズ・アタッ
ク)したようにアメリカ国民に見せかけるとい う、大芝居となって実現したのだ。

 これより先、アメリカにおいては、十一月二五日、大統領ルーズベルト、国務長官
コーデル・ハル、陸軍長官スチムソン、海軍長官ノックス、陸軍参謀総長マーシャル、
海軍作戦部長スタークが最高会議を開いて対日開戦を決定し、その翌二六日、日本
に対して最後通課(ハル・ノート)を送ると共に、ハル国務長官名義で、陸海軍首脳に対し
――― 外交交渉はすでに失敗したから、今後の行動は陸海軍が責任をとらなければならない ―――
と申渡している。
 その翌二七日、海軍省は、ハワイの太平洋艦隊司令長官キンメル大将に、陸軍省は、ハワイ方面陸軍司令官ショート中将に


P10(-5-)
―― 本電報をもって戦争警告(ウワー・ウォーニング)とみなすべし。太平洋における
事態の安定を目指した日米交渉はすでに終った。戦争計画によって与えられた任務を道行するために適切なる防衛展開行動を実施すべし――
 との命令を発した。私らはこれを”見敵必撃命令”と呼んでいるのだ。

 即ちアメリカが対日戦闘態勢に入ったのは一一月二七日であり、日本が対米戦争を決
意したのは、それよりも五日後の一二月一日の御前会議であったことを、特に銘記して置かなければならない。

ロバーツ報告書中で、最も重要な部分は
―― 六時三三分から六時四五分の間に、特殊潜航艇は、米海軍哨戒機とウォード号の
一致した行動によって攻撃され、撃沈された ――
とある一項である。
 却ち、わが真珠湾攻撃に先だつこと一時間余り、未だ戦端開かれざるにあたり、わが
特殊満航艇は、アメリカ海により海底の藻屑と葬り去られているのだ。
 太平洋鑑隊駆逐鑑部隊司令官ロバート・A・シオポールド少将は、その上官であるキ
ンメル大将が真珠湾事件の責を負わされて少将に格下げされたことを憤り”真珠湾の審判“(ザ・ファイナル・


P11(-6-)
シークレット・オプ・パール・ハーバー)を著わして、ウォード号が日本の特殊潜航艇
を撃沈した事実を明細に告白した上、
―― ルーズベルト大続領は一一月一一六日の対日通告(ハル・ノート)によって決定的
 に、かつ計 画的に、米国を戦争に引きずり込んだのだ。
 彼はいわば日本の面に籠手を投げつけた如くに挑戦したのだ ――
と、痛烈な非難を浴びせている。
 ハズバント・E・キンメル大将もこの著書に序文を寄せて
―― 一九四一年一一月二六日に米国政府が日本の野村吉三郎、来栖三郎両大使に手交
 した対日通 告(ハル・ノート)は爾後(じご。それ以来)の日米交渉の可能性に、
 事実上終止符をうったもの であり、従って、太平洋戦争を、もはや不可避のものと
 してしまった ――
と断定している。

かくて、スチムソンらアメリカ首脳部が挑戦者を日本に見せかけようとする折角の苦心
も、水泡に帰し、太平洋戦争開始の第一発が、アメリカ海軍により発射せられている
ことは、日本人として束の間も忘れてはならない事実である。
然らば、戦争開始についてのアメリカ国内の与論はどうであるか。


P12(-7-)
シカゴ・トリビューンの論説記者、ジョージ・モーゲンスターンは、その著書”真珠湾の秘密”において
―― ルーズベルトこそ、アメリカを戦争にかりたてた張本人であり、国民を欺瞞
 し、故意に、真珠湾の悲劇を招いた責任者である ――
と論難(ろんなん。相手の不正や誤りを論じ非難すること)しており、アメリカの歴史
協会々長のチャーレス・D・ビャードは、その著書”ルーズベルト大統領とその戦争謀略”で
―― ルーズベルトはヒットラーにアメリカと戦う意図が微塵もないのにかかわらず
 、ドイツを刺激して、アメリカを攻撃させようとし、それが成功覚束(おぼつか)
 なしと見てとるや策を変 じて日本をして、戦争を■がれることのできない窮地に追い込んだのだ ――
 と難詰している。

又ジョージ・タウン大学教授のチャーレス・C・タンシルは、その著書”戦争の裏口”において
―― ルーズベルトの対支政策はいたずらにソ連の台頭を促したものであり、且つ好ん
で対日戦 争を誘発したものである ――
と論断している。

 その他、ウォール・ストリート・ジャーナルの論説者ウィリアム・H・チャンバーレン、国際


P13(-8-)
法学者フレデリック・C・サンポーン、歴史字者ハーリー・E・バーンズなども全く同じような結論に達している。
 これらアメリカ国内の太平洋戦争開始についてのルーズベルト非難には、強烈的な根拠があるのだ。
それはいう迄もなく、アメリカがリードしたABCDの包囲陣型による日本経済の壊滅的圧迫である。
 印度のパール博士は、東京裁判の判決にあたり少数意見において、この問題に触れ、
―― かかる圧迫を受けるときは、たとえ何等の武器をもたない国家といえども、必ず
 や、立って戦うであろう ――
と判断しているのだ。

 静かに当時を顧みて見よう。
 一九三四年七月二三日、アメリカは突如として二十有余年間続いた日米通商航海条約を弊履の如く破棄してきた。
 一九三九年一二月、アメリカはモーラル・エンパーゴーを拡大して、飛行機、その装備品、その組立機槭、ガソリン精製機械を禁止品目に追加した。
 一九四○年七月、アメリカは日本に対する屑鉄の輸出を禁止した。


P14(-9-)
 一九四○年八月、アメリカは航空用ガソリンの輸出を制限した。
 一九四一年七月二七日、アメリカは日本の在米全資金の凍結を断行した。
 一九四一年八月一日、アメリカは日本に対し石油の輸出を禁止した。
 英、蘭、中、仏印、蘭印、泰等はアメリカと歩調を合わせ、資金の凍結を断行し、或は米、ゴム等の日本に対する輸出を禁止した。
 経済上の対日戦闘態勢が整ったので、A、B、C、Dの包囲陣は、軍事上の対日戦闘態勢を整えることを急いだ。
 一九四一月九月には、アメリカの特使クレーディと、イギリスの特使ダフ・クーパーとか、蘭印、シンガポール、重慶、フィリビン、印度、仏印等を飛びまわって重大打合わせをしている。
 同年一○月には、ルーズベルトの軍事使節マグルーダ准将を迎えて、イギリスの東亜
軍総司令官ポッパム大将と、アメリカの東亜軍総司令官マックアーサー大将とが、マニラに会合し”太平洋における米英の共同作戦“について重要決議をっている。
 四月未にはオーストラリア首相カーチンが”太平洋における共同戦線の交渉は、米、英、蘭印、ニュージーランド、オーストラリア間において完全に締結せられた“と発表している。
 これと時を同じうしてアメリカ海軍長官ノックスは、米国海軍に就役している戦闘用艦船は三四


P15(-10-)
六隻、建造中又は契約済のものは三四六隻、就役している補助艦艇は三二三隻、建造中
又は契約済のものは二○九隻、海軍飛行機は四五三五機、製造中のものは五八三ニ機と発表した。
続いてアメリカ陸軍長官スチムソンは、航空士官候補生及び徴集兵の数を三倍の四○万人に増員したと発表した。

 ルーズベルト大続領は、飛行機製造費として四四九七万ドルを計上したと発表した。
 これは、太平洋における軍事共同戦線を張った群小諸国に対し、安心してアメリカと行動を共にせよ、との威嚇である。

 その結果として、オーストラリアの首相カーチンは、新たに四五万人を入営せしめた、と発表し、フィリピンの陸軍参謀総長は、現役兵の除隊を中止した、と発表した。
 かようにして軍事上からも経済上からも対日戦闘準備が完了すると、米英は、対日戦争の開始を露骨に打ち出した。

 同年一○月末、アメリカ海軍長官ノックスは”日本が現在の政策を変更せざる限り、日米の衝突は不可避である“と声明した。
 一一月一○日にはイギリス首相チャーチルが、ロンドン市長就任披露宴で”米国が日
本と開戦したときには、英国は一時間以内に対日宣戦を布告する”と演説した。


P16(-11-)
その翌一一日、すなわち米国休戦記念日には、ルーズベルトが”米国は自由維持のため
に、永久に戦うものである”と言明し、ノックス海軍長官が、その尻馬に乗って”対日決意の秋がきた”と説明している。
 その翌一二日には、英国王ジョージ六世が議会の開院式にのぞみ”英国政府は、東亜の事態に関心を払うものである”との告辞を述べている。

 かくて、一一月二五日のアメリカ最高首脳会議となり、対日戦争へのウワー・ウォーニングとなったのである。
 これ位の常識は、日本人全体が持っていて貰いたいのだ。然るにそれを持っているものは極めて少ない。

 それは何故か、というと、アメリカの国内で、日本を刺激して無用な戦争を起こし、
多数の犠牲者を出し、多額の財宝を失ったホワイト・ハウスに対する非難が余りにも
強くなり、どうしても”戦争は日本から仕かけたものである”と云訳しなければならなくなった。
 そこで考えついたのが、事後法による極東国際軍事載判であった。
 理論も、証拠も一切無視して、ひたすらに”日本だけを悪いもの”にしようと努力したものだ。
しかし、既に早く、進んで戦争原因を説く追究していたアメリカ国民は、こんな猿芝居には、テン


P17(-12-)
デだまされなかった。
 ところが敗戦便乗主義者によって各万面が指導せられていた日本及び日本人が、マンマと、このトリックに引っかかってしまったのだ。

 かくして戦争犯罪者と名付けて審判せられたものと右翼とだけによって、無用な戦争が実施せられたもののような錯覚に、善良な人々までが陥れられてしまった。
 私は今、”戦争と平和に関する不朽の記念館”を造って、太平洋戦争開始の原因から、
終戦、更に平和への苦心を、一目瞭然とする資料を展示し、少しも勉強しないいわゆる
進歩主義、余りにも無知ないわゆる革新政治家などの洗脳に当てたいと思っている。

 イヤ、それはどうでもよい。そんな代物はドプの上に湧く泡のようなものだから、打っちゃらかして置いても何のことはない。
 私の願うところは、次の時代を背負う若い人々をして、真実を十分に理解した上で、民族の血を湧き立たせて生きて行かしめたいのだ。

 そこで私は、この記念会館の設立場所を、三河湾の西北隅に聳(そび)える三ケ根山上としたい希望をもっている。
私達は、先ずここに、三文字正平弁護士が保土ヶ谷の久保山火葬場から奪取したA級戦犯七士の遺骨を埋葬して、殉国七士の墓を建てた。
次には戦犯の汚名を雪ぐに由なく刑死した多く


P18(-13-)
の犠牲者のために、神社を建てようとしている。

私達は、誰にも彼にも、お詣りをして貰うがために、そんな計画を建てているのではない。
この墓や、神社に、首を垂れてお詣りすることがよいかどうかを改めて考えてみて貰いたいのだ。

 福知山城趾には知霊社という神社がある。明智光秀を祀っているのだ。
附近の人々は、ここのお祭には”お詣りする”といわない。”お祭を見に行く”という。
光秀が築城を急ぐあまり福知山城の石垣に附近の墓石を使ったことを、子々孫々に至るまで深く怨んでいるからだ。
それでいて、祭典は年と共に盛んになっており、光秀の研究もまた次第に進んでいる。

 殉国七士の墓や、戦争議牲者の神社も、唯単に見て貰うだけでよいのだ。
 そこに行くことにより、戦争開始の真因を改めて探究してみようとするものが、1人でも多くなれば、それでよいのだ。

 この山には毎日数千から数万のハイカーが登っているから、それらのもののうちに、
少しでも深く真実を研めようとする心が動けばそれだけで結構なのだ。

 戦犯釈放に頭から反対していた革新勢力と自称する政治家輩も、イザ総選挙となる
と、巣鴨プリズンにお百度を踏んだものだ。

新東宝の依嘱により、私がその構成に参加した映画″大東亜戦争と国際裁判”は、
参議院議員の選挙には、たいへん沢山の候補者に利用して頂けたようだ。

誠にあり


P19(-14-)
がたいことだ。

徳川を倒そうと志した山鹿素行は、由井正宙の失敗に鑑み、その志を一子万助に托した。
万助の後七代にして、これを平戸において、吉田松蔭に伝えた。
かくて松下村塾の思想は遂に明治維新の原動力をなすに至っている。その間三百年近くを費している。
戦争に負けたのだもの、当分のあいだはインチキが栄えるのも、また止むを得ないことであろう。

P20
昭和三十五年七月 一日 印刷
昭和三十五年七月一七日 発行
著者 林 逸郎
発行者 戦争犠牲者顕彰会
    代表 三浦 兼吉
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Posted at 2019/04/26 05:53:20

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