2019年04月26日
東京裁判研究:(4)真珠湾奇襲の真相―戦争は仕かけられたのだ―
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弁護士 林 逸郎 著
真珠湾奇襲の真相
――戦争は仕かけられたのだ――
P3
”戦争は絶対に反対である”とか”軍部がわれわれを無用の戦争にかりたてたのだ”と
か”われわれはあくまで平和を愛好するものである”とか、いくらわめき立ててみたとこ
ろで、それだけで、戦争が無くなるものでもなければ、恒久の平和がやって来るものでもない。
戦争を無くするがためには、戦争の起きた真因を深く探究して、その原因を除くように努める他には方途はありえない。
恒久の平和を希(こいねが)うがためには、何事よりも先づ、戦争の起きた真因を探求することが肝要である。
この故に、われわれは、東京裁判により明らかとなった太平洋戦争の真相を、
できるだけ徹底しやすい方法で、究明してゆこうと考えているものである。
戦争犠牲者顕彰会
P4
はしがき
この拙文は、私が、東京裁判弁護団のスポークスマンとして入手し得た汗牛充棟(か
んぎゅうじゅうとう。引くと牛が汗を流すほどの重さ、積むと家の棟に届くほどの多
さの意)の資料と、その後、注意して人手した若千の資料とにもとづき、研究検討を重ねたうえで、できあがったものである。
もとより、この事実は、東京載判の法廷を通じて世界に訴えようと試みたのだが、法廷は、”日本以外のいかなる国家の行為をも審判の対象としていない”との煙幕を張って、これを拒否しつづけたので、如何ともすることができなかった。
私は、この拙文によって素描せられたところを、さらに深く、鋭く研究することを終生の仕事とする決意をしている。
もしも私の考え方、私の資料の取扱い方に間違ったところがある、とお感じになった方は、思いきってご叱正下さらんことを希う次第である。
書類をもって、ご注意を賜わることができれば、これに越した幸いはない
著者 林 逸郎
P5
(白紙ページ)
P6(-1-)
真珠湾奇襲の真相
――戦争は仕かけられたのだ――
『白紙還元の御諚(ごじょう。貴人の命令)』
一九四一年(昭和十六年)十月十七日、陸軍大将東条英機(陸軍大臣)は、組閣の大命を拝した。
同時に、海軍大将及川古志郎(海軍大臣)は、「陸軍と協力せよ」との御言葉を賜った。
まもなく、内大臣木戸幸一が、大将の控室に入ってきて、
「只今、陛下より、陸海軍協力せよ、とのお言葉がありましたことと拝察しますが、国策の大本を決定せらるるについては、九月六日の御前会議の決定に捉われることなく、内外の情勢をさらに広く深く検討して、慎重なる考究を加うるを要す、との思召であります。命により、その旨申しあげ
P7(-2-)
ておきます」
と述べた。いわゆる”白紙還元の御諚“である。
九月六日の御前会議というのは、太平洋の雲行きが次第に悪化し、座視するにおいては、米、英、蘭、支の蹂躙にまかさなければならない重大な段階に立ち至ったことを、杉山参謀総長、永野軍令部総長から奏上したところ、陛下は”四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ちさわぐらむ“という明治天皇の御製をお詠みになって、統師部に対し、外交交渉に全面的に協力することを、御下命になったものだ。
近衛内閣は聖旨を奉じて、誠心誠意、対米英外交交渉を続けたが、米、英の態度は日一日と硬化するばかりで、妥結の見通しはほとんどなくなった。
近衛首相は、進退両難に陥り、いきなり内閣を投げだした。十月十六日のことだ。
『ABCD包囲陣、日本に迫る』
十月十八日成立した東条内閣は、ひきつづき連絡会議を開いて、対米問題の打開策を協議する一方、若杉駐米公使をして、交渉継続の意思のあることを伝達せしめた。
この意思表示は、二十四
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日に、国務次官ウェルズに通じている。
閣議は、ようやく”日米の関係は、あくまで外交交渉によって打開を計る。
不幸にして外交交渉が不成功に終ったときには、そのときに改めて開戦の決定をする”ことにきまったので、十一月四日、陸海軍合同軍事参議官会議に諮り、その翌五日の御前会議にその旨を報告した。
かくて、新構想を携えた来栖三郎大使は、五日に東京を発ち、十五日にワンントンに着き、ただちに交渉に入った。
わが国が忍びがたきを忍んで作りあげた最後の提案を提示したのは十一月二十日であった。
その内容を要約すると、
一、日米両国は仏印以外の南東アジア及び太平洋地域に進出せざること。
二、蘭領印度における物資の獲得。
三、資源凍結の解除及び石油の供給。
四、日支和平を妨害せざること。
にあった。
米国が、もしもこの項目のいすれかに、承認を与えてくれたなら、事態は、急転して解決をみたであろうと思われる。
当時の日本としては、米国が資産の凍結を解除するか、蘭印からの物資の取得を承認するか、または日支間の和平を妨げないことを約東してくれたならば、それで
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活路が開かれたに相違ないからだ。
ところが、このころ米、英はどんなことをもくろんでいたか。
ルーズベルト大続領の特使グレーディは、一九四一年九月から十月にかナて、蘭印、シンガポール、インド、重慶、香港、フィリピンをとびまわって相互の連絡をしている。
英国の特使ダフ・クーパーは、時を同じうして、フィリビン、蘭印、シンガポール、インド、仏印ををとびまわって、同じく相互の連絡をしている。
ルーズベルトの軍事使節マグルーダ准将は、同じ十月に、フィリピン、香港の打合せをすませてから重慶に乗り込み、大見得を切っている。
同じ十月にはまた、英国の東亜軍総司合官ポッバム大将、米国の東亜軍総司合官マックアーサー大将、米国の援蒋軍事使節団代表マグルーダ准将らが、マニラに会合して、「太平洋における米英の共同作戦」など軍事重要事項の協議をしている。
ポッバム大将はその結論を■たらすため、オーストラリアを訪問した。
オーストラリアの首相カーチンが、「太平洋における共同戦線の交渉は、米、英、蘭印、ニュージーランド、オーストラリアの間において、完全に締結せられた」と発表したのは、十月の末であった。
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『十一月二十五日、米国対日戦争を決定』
これとはとんど同時に、米国海軍長官ノックスは、米国海軍に就役している戦闘用艦船は三百四十六隻、同じく建造中か契約済のものは三百四十五隻、就役している補助鑑艇は三百二十三隻、同じく建造中か契約済のものは二百九隻、海軍飛行機は四千五百三十五機、同じく製造中のものは五千八百三十二機であると発表した。
米国陸罩長官スチムソンは、航空士官候補生及び徴集兵の数を三倍の四十万人に増員した、と発表した。
ルーズベルト大続領は、このため、飛行機製造費四億四千九百七十二万ドルを要求した。
オーストラリアの首相カーチンは、四十五万人が入営したと発表した。
フィリピンの陸単参謀総長は、現世の除隊を中止した、と発表した。
各国の戦争準備が整うや、米国海軍長官ノックスは「日本が現在の政策を変更しない限り、日米の衝突は不可避である」と言明した。十月の終りのことである。
十一日、英国の首相チャーチルはロンドン市長の就任被露会で「米国が日本と開戦したときには、英国は一時間以内に対日宣戦を布告する」と演説した。
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その翌十一日、すなわち休戦記念日には、ルーズベルト大続領は「米国は自由維持のために、永久に戦うものである」と演説し、ノックス海軍長官は「対日決意の秋がきた」と演説した。
その翌十二日には、英国王ジョージ六世が議会の開院式で「英国政府は、東亜の事態に関心を払うものである」との勅語を述べている。
かくて十一月二十五日、ルーズベルト大続領は、最高会議を開いて、日本に対し戦争を仕かけることを決定した。
この会議に参加したものは、大続領ルーズベルト、国務長官ハル、陸軍長官スチムソン、海軍長官ノックス、陸軍参課総長マーシャル、海軍作戦部長スターク、以上六名であった。
『まず日本に一発撃たせよ』
スチムソンが後に、上下両院合同の真珠湾事件調査委員会で証言したところを要約すると、
「一つの問題が、われわれを大いに悩ませていた。もし、敵が機先を制してとびかかってくるのを、手を拱(こまね)いて待っているということは、通例からみて賢いことではない。しかし、われわれは、日本軍に最切の一発を発射させるということには、なるほど、危険はあるが、アメリカ国民から全幅の支持を得るためには、日本軍に先に攻撃させて、誰が考えても、どちらが侵略者であるか、一
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片の疑念もなくわからせるようにした方がよい、ということとなった」
となっている。
また、スチムソンの日記の一月二十五日の欄には次のように書かれている。
「問題は、どのように日本をあやつってわれわれにはあまり過大な危険を及ぼすことなく、日本に最初の一発を発射させるような立場に追い込むべきか、ということである。これはむずかしい注文であった」
この注文は、暗号電報の傍受により、日本の熊度が手にとるようにわかっていたにもかかわらず、これを、ハワイのキンメル大将とショート中将にだけは、極秘にしておくという、背徳行為によって達成しようと試みられた。
ルーズベルトがどちらが侵略者であるかについて、アメリカの国民をたぶらかそうと試みたこの謀略は、あざやかに成功した。
アメリカにおいてばかりではなかった。日本において、さらに見事に成功した。
日本人の中からは、日本を侵略者と考えるものは、おそらく一人も出てこないであろうと確信していた、と思われるルーズベルトの謀略は、アメリカよりも、かえって、日本において成功したのだ。
ルーズベルトは、さだめし地下で唖然としていることだろう。
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『無理難題のハル・ノート』
開戦の決意をした米国は、その翌二十六日、日本に対して、最後通牒を通告してきた。
いわゆるハル・ノートである。
その第二項第三目には、
”日本国政府は、支那及びインドシナより、一切の陸海空軍兵力及び警察力を撤収すべし”
とあり、同第四目には
”合衆国政府及び日本政府は、首都重慶における中華民国国民政府以外の、支那におけるいかなる政府、若くは政権をも軍事的、政治的、経済的に支持せざるべし”
とあった。
いうまでもなく、日本は、満州、蒙古はもとより、支那本土においても、雄大なる条約上の権益を持っていた。
上海、青島などの各地には、紡績その他の日本の企業が大発展をしていた。
ひとたび、兵力または警察力を失ったならば、たちまち起る残虐行為は、通洲事件、済南事件で、眼が痛くなるまで烙きつけられている。
この残虐が思い当らないものは、終戦が確実となったとき、
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満州になだれ込んできたソ連軍のやったことを思い出せばよい。
幾百万の同胞の生命と、財産と、八十年にわたり巨費を投じて築きあげた権益とを、そっくりかなぐり捨てて無条件に降伏せよ、というのだ。
居直り強盗でなくて何であろうか。
父祖伝承の日本人の血が、屈従を許すであろうか。改めて、ここのところを考え直してみてもらいたい。
さらに、ハル・ノート第二項第九目には、
”両国政府は、そのいずれかの一方が第三国と締結しおるいかなる協定も、同国により、本協定 の根本目的、すなわち太平洋地域全般の、平和確立及び保障に矛盾するごとく解駅せられざるべきことに同意すべし“
とあった。
これは、とりもなおさす、日独伊三国同盟を死文化することによって、独、伊両国の面に泥を塗れ、との無理難題である。
雲助のゆすりかたりとなんら択ぶところはない。
ハル・ノートは、全文を通じて、妥協しようとする意思の悉(ことごと)くを捨て去ったものであった。
転んでいるものを、これでもか、これでもか、と踏んだり蹴ったりしたものだ。
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『見敵必撃命令を発令』
この通告は、宮中において政府と統師部とが連絡会議を開き、外務大臣東郷茂徳が、日米交渉の経緯を報告している最中に、到達した。
会議場はしばし呆然自失した。
何度読み直しても、この覚書こそ、米国の日本に対する最後通牒である、と認めざるを得なかったからだ。
ルーズベルト大統領は、この通告を日本のワシントン駐在大使に手交せしめると同時にハル国務長官をして、陸海軍首脳部に対し、「外交交渉はすでに失敗したから、今後の行動は、陸海軍が責圧をとらなければならない」と申渡させた。
海軍省は、ハワイの太平洋艦隊司令長官キンメル大将に、
「本電報をもって、戦争警告とみなすべし。太平洋における事態の安定を目指した日米交渉はすでに終った。戦争計画によって与えられた任務を遂行するために適切なる防衛展開行動を実第すべし」との命令を発した。
いわゆる”見敵必撃命令”である。キンメル大将は、二十七日これを受取った。
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陸軍省は、ハワイ方面陸軍司令官ショート中将に、海軍省のものと同文の命令を発した。
ショート中将が、これを受取ったのも、また二十七日であった。
ここにおいて、米国陸海軍は、完全なる対日戦闘態勢に入ったのだ。
『米国より五日遅れた開戦決定』
東条内閣は、十一月二十八日午前十時から閣議を開いたが、この閣議では、開戦の決議はせず、すべてを、十二月一日に召集せられる御前会議の決定に待つこととした。
十一月三十日午後三時、陛下から、突然に東条首相に御召があり、
「高松宮から、海軍は手一杯で、できることならば、この戦争は避けたい、との話があったが、総理の考えはどうか」
との御下問があった。首相は、閣議の次第を言上して退下した。
十二月一日の御前会議は、東条首相が議長となって開かれた。この会議は、ハル・ノートは、″米国の最後通牒である。””米国は、日本がハルノートをもて米国の最後通牒と理解することを期待している””米国においても、ハル・ノートを最後通牒と考えている””米国陸海軍はすでに対日
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戦闘態勢に人った“などの諸情報の重圧下で行われたものであったから、長時間にわたり、真剣な質疑応答がくり返された。
最後に、極密院議長原嘉道が、出席者の意見を取まとめて、
「米国の態度は、帝国として忍ぶべからざるものである。このうえ手をつくしても無験である。よって開戦は致し万ないのであろう」と述べた。
『豈、朕が志ならんや』
特筆しなければならないことは、あくまでも平和を愛好せられる陛下が、この長時間にわたる会議を通じて、ただの一語をも発せられなかったことだ。
この陛下の聖慮は、開戦の詔勅に、
”今や不幸にして米英両国と戦端を開くに至る。海に己むを得ざるものあり。豈、朕が志ならんや”
との一句を挿入せしめられたことによっても、明察せられるところである。
こうして開戦の決定は米国の開戦の決定に遅れること五日にしてなされたのだ。
ここにおいて、日本陸海軍は、ようやく戦闘態勢に入った。
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政府は、野村吉三郎駐米大使をして、対米外交交渉断絶の最後通告を、十ニ月八日の朝(ワシントン時間は七日の午後一時)ハル国務長官に手交せしめることとした。
この通告に関する外交上の取扱いは、すべて外務省の青任においてすることとした。
在米日本大使館に対しては文書の整理その他万般の手配に手ぬかりのないように、外務省から特に訓電を発した。
わが南雲忠一中将●下の精鋭は、北太平洋を迂廻して、ハワイに向って一路南下した。
『火蓋は米艦より切られた』
一方、真殊湾の入口の掃海を実施していた、二隻の特殊掃海艇のうちの一隻であるコンドル号乗組のR・C・マックロイ予備少尉は、日本軍の真珠湾攻撃よりも完全に四時間前、すなわち十二月七日午前三時三十ニ分(ハワイ時間に)、湾ロ浮標の外方二浬の沖合で、日本海軍の特殊潜行艇の潜望鏡を発見した。
マックロイ少尉は、このことをただちに、夜間蛸戒中の駆逐鑑ウォード号に発光信号で報告した。
六時三十三分、カタリナ飛行艇は、真珠湾に向って、空のライターを曳航していた工作鑑アンテ
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ーリス号を尾行していたと思われる一隻の特殊潛行艇を発見して発煙弾を現場に投下した。
駆逐艇ウォード号は、六時四十五分、この特殊潜行艇を攻撃して、砲弾と爆雷とでこれを撃沈した。
日米戦争は、ルーズベルトが、日本に第一発を打たせることにより、日本を侵略者の地位に追込もうと苦心した謀略の裏をかいたように、米国の方で第一発を放ったのだ。
ルーズベルトならびにその幕療が定義した侵略の烙印は、千古不滅の事実によって、ルーズベルトみずからの額の上に、はっきりと刻み込まれたのだ。
天は、いつまでも、この事実を暗闇の彼方に置き忘れはしなかった。
『ルーズベルトこそ戦争製造者』
世論は押されてルーズベルトが任命した真珠湾事件調査委員会は、連邦最高載判所判事オーウェン・J・ロバーツを委員長として、一九四一年十二月十八日から翌年一月二十三日までの開に調査をつづけた結果、「真珠湾事件の責任は、当時の米国太平洋鑑隊司令長官キンメル大将及びハワイ地区陸軍司令官ショート中将の職務怠慢に帰すべきものである」
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との、いわゆるロバーツ報告書を提出した。この報告書は、大統領の名において、全米に発表せられた。
この報告書中にある”Between 6:33 and 6:45, this object which was a small submarine, was attacked and sunk by the conserted action of a naval patrol plane and U.S.A Ward."(六時三十三分から六時四十五分の間に、この小型潜水艦-特殊潜航艇は、米海軍哨戒機とウォード号の一致した行動によって攻撃され、撃なされた。)
の一節は、”ルーズベルトこそ、世紀の侵略者、戦争の製造者なり“として、人類の続くかぎり、痛罵し続けられなければならない絶対不動の確証でなければならない。
ウォード号が暗号無電で、第十四海軍区司令官に、次のように”戦争開始の報告”をしたのは六時五十四分であった。
”本鑑は、防禦海面を行動中の一潜水鑑を攻撃し、これに砲撃を加え、かつ爆電を投下せり″
この報告は、戦争についての最切の発信であったため、暗号を翻釈する下士官がまごつき、第十四海軍区の当直将校の手に人ったのは七時十二分であった。
当直将校の報告をうけた第十四海軍区司令官プロック少将は、ただちに応急任務の駆逐産モナガン号に出港を命じ、ウォード号を救援せしめた。
ブロック少将が、太平洋艦隊司令部の当直幕僚マ
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ーフィー中佐に連絡したのは七時二十分から七時二十五分の間であった。
析から、電話交換台が幅輳(ふくそう。物が1か所に集中し混雑する様態)していたために、マーフィー中佐が、キンメル大将に電話報告をするまでには、かなりの時間がかかった。
キンメル大将が、司令部に向って急いでいるとき、はじめて日本軍の爆撃が起ったのだ。
以上の証明は、一九四五年十一月十五日から、一九四六年五月三十一日に至るまでの間、十名の委員(両院議員)で構成せられた米国上下両院の合同調査委員会が作成した査問記録のうちに厳として集録せられているところだ。
『飲めよ踊れの大使館員』
かような動かすべからざる事実が存在するのにもかかわらず、何故に、日本は侵略者として、国際法廷の審判を受けなければならなかったか。
その責任は、あげて外務省が負わなければならない。もっと極限(極言?)すれば、ワシントンの日本大使館が負わなければならないのだ。
このことは、後世史家のために、あくまでも正確に書き残しておく心要がある。
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日本の最後通牒は、暗号の解釈に要する時間、タイプに要する時間、ギャザーに要する時間等を考え、これを十四部に区分してワンントンの日本大使館に打電することとした。
前の十三部は十二月六日中に(これはワシントン時間で、日本時間に直せば七日)大使館に着き、最後の短い第十四部だけが、七日の早朝に着くように、万般の打合せが整った。
外務省は、極度の緊張をもって、約束通りに打電した。約束通りに、正確に日本大使館に入った。
すなわら前の十三部は、六日夕刻までには翻訳、ならびにタイプができる状態に置かれたのだ。
ところが、大使館では何故か、他に転動を命ぜられた一下級館員のために、わざわざ六日の夜を択(えら)んで盛大なる晩餐会を催したのである。
呑むほどに、踊るほどに夜はふけて行った。
堀内電信官、梶原、堀、川畑、近藤、吉田各書記生らが、ダンスに波れた足を引摺り大使館に帰りついたのは、実に夜の十時頃であった。
それから、やっと、酔眼もうろうとして、暗号の翻訳にとりかかったのだから、埒のあこうはずばない。
ようやくにして第十三部までのを翻訳を完了したのが払暁であった。
そこで井口参事官の部下を受する熱情(?)により、宿直一名だけを残し、その他の全員は宿舎に帰って休養させられた。
そのとぎには、またタイプは、ただの一行も打たれてはいなかったにもかかわらず・・・・。
七日の朝は、七時頃から日本からの電報が到着しだした。
宿直者は、あわてふためいて電信課員
P23(-18-)
全員を料集した。しかし、それは無駄であった。
呑み疲れ、踊り疲れたものが、ほとんど事例のない深夜の任務についたのだから、どうしても眼があかない。
やっとのことで全員揃ったのが昼近い十時であった。
『二日酔で最後通牒を翻訳』
煙石通訳生が野村大使に命ぜられて、国務長官ハルに、午後一時に面会したい旨を申込んだ。
ハル長官は自身で電話口に出て、「正確に午後一時に国務省で会見する」と返事をした。
奥村書記官が、九時頃からタイプを打ち始めた。前の十三部を打ち終ったのは十一時であったが、それは下書だから打ら直す、といいだし、煙石通訳生に手伝わせて、また始めから打ちだした。
のみならず、第十四部すなわち、”惟(おも)うに、合衆国政府の意図は、英帝国その他と荀合策動して、東亜における帝国の新秩序建設による平和確立の努力を、防碍せんとするのみならず、日支両国を相闘わしめ、もって英米の利益を擁護せんとするものなることは今次交渉を通じ、明繚となりたるところなり。
かくて、日米国交を調整し、合衆国政府と相携えて、太平洋の平和を維持確立せんとする、帝国政府の希望は遂に失われたり。
よって、帝国政府はここに、合衆国政府の態度
P24(-19-)
に鑑み今後交渉を継続するも、妥結に達するを得ず、と認むるの外なき旨を、合衆国政府に通告するを、遺憾とするものなり”
という部分が、翻訳せられてタイプに廻されたのが、驚くなかれ、午後0時三十分頃であった。
しかも、その時は、まだ前の十三部のタイプが終っておらず第十四部のタイプどころではなかったのだ。
野村大使は、何度も何度も、タイプを打っている部屋に出入りして、まだかまだか、と督促をしつづけた。
来栖大使は、身仕度を整えて、タイプを打っている傍でジリジリとしていた。
やむなく、煙石通訳生が、ハル長官の秘書官に「必要な書類の準備が終らないので、大使の訪問は遅れるかも知れない」と野村大使の意を受けて電話した。
ハルは「準備ができしだいにお出で下さい」とあっさり返事をした。
最後通牒のタイプができあがったのは実に午後一時五十分であった。
P25(-20-)
『大使館員は切腹もの』
野村、来栖大使は、リレーの選手がバトンをタッチするような敏捷さで、これを受取り、宙を飛ぶがごとく、国務省に向って車をとばした。
午後ニ時到着したが、あいにく、ハル長官がさしつかえて二十分ばかり持たされたので、最後通牒がハル国務長官に手交せられたのは、二時二十分といえば聞違いない。
ところが、日本軍が、真珠湾を急襲したのは、それよりもわずかに三十分前であったのだ。
思うに、ハルが二十分の猶予を求めたのは、真珠の攻撃が入電したためではなかったろうか。
政府が、海軍と外務省とに要望した、最後通牒を手交した後、三十分にして真珠湾を攻撃することとした苦心は、チンピラ役人のふしだらによって、水泡に帰した。
外務省の小役人に、こうも国を愛さない人々がそろっていなかったならば日本は、断じて、サプライズ・アタック(不意討ち)の汚名を蒙らなくてすんだのである。
日本の企図したところは、国際法上、正々堂々たる開戦であったのだ。あたかも英国に対してのごとくに。
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なお、ここに附加したいことは、オランダは、わが国よりも先に、わが国に対して宣戦を布告したことた。
したがって、外務省のチンピラ共の六日夜の宴会さえなければ、”わが国がダマシ討ちをした“という言いがかりは、どこからもいい出せなかったのだ。
この意味からも、当時、大使館の最高責任者であり統轄者であった野村、来栖、井口三氏に、重大な責任のあるべきことは論をまたない。
一国の連命を賭する開戦が、もはや時間の問題となっているような場合に、部下の緊張を促すのは統卒者としての当然の責務である。
それを怠り、しかもその結果、日本が永久に侵略者としての汚名を着せられるとしたら、単にチンビラ役人共の所行と片付けられないものがある。
世が世なら腹を切らねばならない筋のものであろう。
今次戦争でも、みずからは直接手を下さずとも、部下の非行により、その責を負い自決し、または処刑された武将も数多いのである。
『片腹いたい侵略者呼ばわり』
米国太平洋鑑隊の司令長官であったキンメル大将の忠実なる部下として、真珠湾で活曜した太平洋艦隊駆逐艦部隊司令官ロバート・シオポールド少将は、その不朽の名著”The Final Secret of
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Pearl Herbor"(日本語訳、真珠湾の審判)の中で、次のように論断している。
「ルーズベルト大続領は、十一月二十六日の対日通告(ハル・ノート)によって、決定的に、かつ計画的に、米国を戦争に引ぎすり込んだのだ。
彼は、いわば日本の面に籠手を投げつけたごとくに挑戦したのだ」と痛烈に批難している。
ハズバンド・E・キンメル大将も、この著書の序文に、
「一九四一年十一月ニ十六日に、米国政府が、日本の野村吉三郎、来栖三郎両大使に手交した対日通告(ハル・ノート)は、爾後(じご)の日米交渉の可能性に、事実上、終止符をうったものであり、したがって太平洋戦争をもはや不可避なものとしてしまった」と、断定している。
また、連合国南太平洋鑑隊の司合長官であったウィリアム・F・ハルゼー元師も、この著書に序文を寄せて、
「この書物はフェア・プレーを信条とするすべてのアメリカ人にとって、必読の書である」と述べ、つづいて、
「私はつねにキンメル元海軍大将と、ショート元陸軍中将については、こう考えてきた。この優秀な二人の軍人は、自分のカでは絶対に自由にならない、ある目的のために犠牲の山羊として、狼群の前に放り出されたようなものだ。
この両人の軍人は、戦備の点でも、情報の点でも、ただ与えら
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れただけのものによって、行動しなければならなかったのだ。この二人こそ、わがアメリカの偉大なる軍人の殉教者である」と結んでいる。
アメリカが、日本に対し、侵略者なり、と見せかけようとして、東京載判という猿芝居を興行したことが、アメリカ人に腹の底までも知れ渡った。
正しい人たちは、この人道上許すべからざる陰謀(陰謀)を恥じ入っている。
十五年ばかりおくれているものは、日本の指導者といわれる人々と、その人々に踊らされている善良なる日本の民衆だけではないだろうか。
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昭和三十五年七月 一日 印刷
昭和三十五年七月一七日 発行
著者 林 逸郎
発行者 戦争犠牲者顕彰会
代表 三浦 兼吉
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東京裁判研究 | 日記
Posted at
2019/04/26 05:53:57
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