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2019年04月26日

東京裁判研究:(5)BC級戦犯

P1/P2
弁護士 林 逸郎 著
BC級戦犯
――真実はこうだ――


P3
”戦争は絶対に反対である”とか”軍部がわれわれを無用の戦争にかりたてたのだ”とか”われわれはあくまで平和を愛好するものである”とか、いくらわめき立ててみたところで、それだけで、戦争が無くなるものでもなければ、恒久の平和がやって来るものでもない。
戦争を無くするがためには、戦争の起きた真因を深く探究して、その原因を除くように努める他には方途はありえない。
恒久の平和を希(こいねが)うがためには、何事よりも先づ、戦争の起きた真因を探求することが肝要である。
この故に、われわれは、東京裁判により明らかとなった太平洋戦争の真相を、できるだけ徹底しやすい方法で、究明してゆこうと考えているものである。

戦争犠牲者顕彰会


P4
はしがき
 私たちは戦犯という言集を使うことを、妥当でないと考え、専ら、戦争搬牲者という言葉を使った。
しかし、一般には、戦犯という言葉の方が判かりやすいと考えるので、殊更に、戦犯という文字を書名に使うことにした。

 去りながら、本書により、戦犯と挈ばれたものの真相を了解せられるならば、必ずや、戦争犠牲者と挈ぶ方が妥当である、との主張に同意せられることと確信する。

 それ程までに、BC級戦争績牲者は、世間から誤解せられ、排斥せられ、侮辱せられて苦しい生活を続けて居られるのだ。
 私は、この真実を、できるだけ早く、一般に知って頂きたいと希うものである。

著者 林 逸郎


P5
『BC級戦犯』

林 逸郎
昭和三十三年六月十八日ワシントン発のAP通信は、アイゼンハワー米国大続領が、記者会見で、ナジ元ハンガリー首相の処刑について次のように語ったと伝えた。

″ナジ氏やハンガリー暴動に参加した彼の同療たらの処刑ほど、文明界にショックを与えた事件は、ほかに考えることができない。
これらの人々は、罪を犯したのではなく、国のために戦ったのだ。
この人々の所刑で、誠意はふみにじられた。
これは、ソ連が完全な従属を押しつけるために、テロリズムと強迫の政策を遂行しようとしていることの、明自な証拠とみなすことができよう――各地のソ連大使館のまわりに、ピケが張られたという動きなどに明らかなように、ナジ処刑のニュースに接して、世界各国の民衆の気持には、急激な変化があらわれた”

六月二十一日行われた、巣鴨プリズンの閉所式で逢った星野直樹さん(A級戦犯として無期禁錮に処せられ本年四月七日赦免となった)が、”ナジ処刑についてのアイクの意見を、今一度意し


P6(-1-)
てみて下さい”といわれたので、新聞のバックナンバーを探して得たものが以上の記事である。

 アイゼンハワーによって代表せられる全アメリカ国民も亦、私のように、今一度あらためて、この談話を検討してみてもらいたい。
そして、十三年前すなわち、戦争に勝った喜びに有頂天となったアメリカが、戦争に敗けた日本及び日本人に、理不尽極まる態度をもって臨んできた当時のことを、静かに反省してもらいたいのだ。

要点を端的にいえば、戦犯として処刑せられた日本人のどこがどんなに悪かったのか。
(幾つかの例外はあるではあろうが)悪くもないものを不倶戴天の仇として犯人に作り上げて、快を叫んだのではなかったか。
今、即刻考え直してみてもらいたい。そして、違っていたところは、率直に勇敢に是正してもらいたいのだ。

 これは、ひとりアメリカ国民にだけ、いいたいことではない。
日本人を、戦争をしたという理由で裁判をした諸国即ち、英、仏、濠、蘭、中、ソ、印、加、比、西蘭の各国々民にもいいたいところだ。
 A級はもとより、BC級の全部は、ただ”日本の国のためにのみ戦った”のだ。
アイクの言葉を、そのまま使って表現すれば”これらの人々は罪を犯したのではない”のだ。
 この道理は、このごろになりアイゼンハワーによって始めて指摘せられたのではない。凡ての戦

P7(-3-)
争載判を通じて、われわれ弁護に当ったものが、血の出る思いで、叫びつづけたところだ。

 しかるに、国民には、この自明の事柄が、どうしても納得できないように見かけられる。
それは識者とか指導者とかと、おだて上げられた人達が”戦争は日本の軍人と右翼とだけが仕かけたものだ。
われわれは反対であったのだ”とヌケヌケとしたことをいって、敗戦に便乗しようとした。

その誤魔化しに、善良な(お人よしの)国民が、マンマと引っかかったからであるといい切れる。
 ソロソロ悪夢からさめて貰いたい。

 戦犯に問われて、刑死したものはA級七名。BC級九二七名。合計九三四名だ。
獄死及びこれに準ずべきものはA級一一名、BC級一○五四名。合計一○六五名だ。
このうちには、不法な裁判をうけることを潔ぎよしとしないで進んで自決したものが、実に三五名ふくまれている。

 これらの人々は、一人残らず国民総意の戦争に、″勝ってくるぞと勇ましく”送り出されたものだ。
日本の国のためにのみ、雨の日も、風の日も、我を忘れて戦い続けたものだ。
しかも、今もって靖国神社に合祀することを拒否せられているのだ。戦争犯罪者という汚名のもとに。

 ここにおいて、私ら有志は、万止むを得ず、私ら有志だけで、私立の靖国神社を建てて、その功績をたたえるとともに、その冥福を折りたいと考慮している。
すでに、その確立地として、国定公園三河湾を一望のもとに見下ろす愛知県幡豆町三カ根山を選定し、その設計を進めているところだ。


P8(-3-)
 私ら有志が、かように思い切った態度に出るに至ったのは、戦犯と呼ばれて蔑視せられ、排斥せられている人々の実相を、あまりにもよく知り尽しているからである。

 連合国が、戦勝に酔うて無理やりに押しつけた戦争裁判こそは、空前絶後の猿芝居であり、戦争犯罪人の製造こそは、地上最大の人権蹂躪であるこどを、その弁護の任務を通じて、マザマザと見つめてきているからである。

 戦犯として、巣鴨プリズンに収容せられたものは、ABC各級を合わせれば、四○○○名を越すのだ。
 そのうち八○○余名が在所していた昭和二十七年十一月に、在所者によって、組織されていた巣鴨委員会で取りまとめたアンケートが残っている。
 これにより、いわゆる級戦犯の実体をつかむことは、決して無駄ではない。

 回答は、全在所者の九○パーセントの七三一名から集まっている。
残余の一○パーセントは、回答をすることだけさえも嫌がるまでに、自棄的になっていた、ともいえる。

 先ず、裁判前の取調は、どんなものであったか、というに、

(イ)拷間をうけたもの  九九
(ロ)脅迫をうけたもの 一八〇


P9(-5-)
(ハ)虚偽の陳述書に署名を強要せられたもの    一〇五
(ニ)白紙の陳述書用紙に署名を強要せられたもの   二〇
(ホ)読み聞けなく練述書に署名を強要せられたもの 一一九
(ヘ)無能の通訳のために禍せられたもの      二八〇
(ト)何等の取調べもなく直らに載判に付されたもの  三五

となっている。無能の通訳のうらには、難解な日本語が、マルッキリ判っていないものと、日本のカスタム(習慣)に一切通じていないものとが含まれている。

 以上で明らかなように、陳述書の任意性、信憑性を争うこととなれば、採用すべき陳述者は殆んど絶無であったともいえるのだ。

 次に罪責についての回答を見ると、
(イ)虚構又は捏造で罰せられたもの  二〇六
(ロ)人違いのもの          二六九
(ハ)上官の行為であったもの     一九一
(ニ)部下の行為であったもの     一八五
(ホ)巻添えをくったもの        八九


P10(-6-)
(ヘ)単に日本人であるということのため 二八

由是観之(これによってこれをみるに)、正しい裁判(例えば日本の裁判のごときもの)によって審理せられたならば、この殆んど全部は、直ちに青天白日となれたものと思われる。

 罪責についての回答は、更に詳しく調べられている。
即ち、上官の命令による行為についても、深く反省して、

(イ)正しい命令であったと今でも信じているもの   一五二
(ロ)止むを得ない命令であったと考えるもの     二九七

となっている。
このことは直らに、日本の上官が戦闘行為として、無理な命令を下していない証左ともなるものだ。

 自らの意思に基く行為についても亦、十二分に反省のあとが見える。
(イ)今でも正しいと信じているもの     一〇七
(ロ)止むを得なかったと考えるもの     二〇〇
(ハ)日本の社会通念では悪いと思えないもの 一三四
(ニ)不当であったと悔悟しているもの     一三

日本の社会通念では、悪いとは思えないもののうちには、”野戦病院のために適切な薬が急場の


P11(-7-)

間に合わないで、俘虜が助からなかった“などの実例が、あげられている。
 殊に、自らの行為が不当であったと海悟しているものが一三名あることは、
“誠に日本人らしく”このアンケートの価値を、どれだけ貴いものにしているか判らない。

罪責についての回答は、更に続いている

(イ)職務行為で処罰せられたもの       九八
(ロ)不可抗力の結果の責任を負わされたもの  七四
(ハ)事実を著しく誇張又は歪曲せられたもの 三二四

不可抗力の結果の責任を負わされたものとは、例えば”俘虜収容所が爆撃せられたために、待避させた俘虜が、計らずも殺られる結果となった“というような場合だ。

 然らば、裁判はどんな風に行われたか、というに
(イ)審理されたと思うもの         二一
(ロ)形式だけだったもの         四一二
(ハ)判検事馴れ合いと思うもの      三三六
(ニ)陳述を抑圧せられたもの       二二七
(ホ)有利な証言を採用せられなかったもの 二八一


P12(-8-)
(へ)証人を拒否せられたもの        一六〇
(ト)偽の証言で罰せられたもの       二七八
(チ)伝聞証拠で罰せられたもの        七一
(リ)真偽不明のロ述書だけで罰せられたもの 一八一
(ヌ)裁判官が俘虜または抑留者であったもの 一五七
(ル)裁判官が当該事件の被害者であったもの   七

となっている。
 虚偽の証言で、罰せられたものの多数は、被害者という証人が、あらかじめ雇われていて、どの事件にもそれが証言をするために罰せられたのだ、といっている。
 俘虜や抑留者が、裁判官となって審理したものである限り、報復以外の何ものでもあり得ない、ともいえるのだ。
されば、審理せられたと感じたものが二一名あったことを、せめてもの慰めとするの他はない。

 それなら、裁判の結果はどうかというに、これ亦(また)驚くべき限りである。
(イ)裁判を公正と感じたもの      一三
(ロ)裁判を著しく不公正と感じたもの 四五九
(ハ)弁護人が●肘を受けたもの    一七〇


P13(-9-)
(ニ)日本人以外の弁護人が判検事と馴れ合いであったもの  二〇〇
(ホ)通訳が無能であったもの               二三五
(へ)通訳が検事と通謀していると感じたもの        一三九
(ト)弁護されないで判決されたもの             四七
(チ)判決理由を明示されないもの             二二六
(リ)判決書を受けないもの                三二八

これによると、判決書を受けないものと、判決理由を明示せられないものとが、合計五五四名いる。
七三一名中五五四名即ち七五バーセント強は何のために処罰せられたのかを、確認できないままで、服役したことになる訳だ。

 ここにおいて、刑のことを述べなければならない。
(イ)刑を不当と考えるもの     五二六
(ロ)刑を著しく重いと考えるもの  三五一
(ハ)刑を適当と考えるもの       一
(ニ)刑を軽いと考えるもの       一

刑が軽かったと思ったものが、タッタ一名。適当と考えるものがタッタ一名というにおいては、


P14(-10-)
巣鴨プリズンは、僅かに二名ばかりのもののためにのみ適切な場所であった、と観察できるのだ。
 以上は、一部の在所者によって作られたアンケートの集計であるから、四○○○名以上に及んだ全在所者について、これを求めたならば、更に詳細なことが判ったであろうに、残念で堪らない。

 若(も)しもまた、刑死者や、自殺者や、獄死者の凡てについて、アンケートを求めることができたとすれば、概ね、このアンケートの集計と似たものが得られたのではなかろうか、と考えられる。

 とすれば、戦犯としての死刑執行は、単に戦争裁判という美名の下に行われた大量虐殺以外の何ものでもないことと相なるのだ。
文明の耻辱これより甚だしいものはあり得ないであろう。

 それでは、日本のためにのみ戦いながら、概ね十カ年以上を犯罪者の汚名をきて、隔離せられた、いわゆる戦犯の家庭は、その間に、果してどうなっていたであろうか。

右のアンケートに依れば、
(イ)極度の困窮に陥ったもの     一七五
(ロ)一家離散したもの         三五
(ハ)離婚を余儀なくせられたもの    二八
(ニ)婚約を解消せられたもの      四一
となっている。


P15(-10-)
 そればかりではない。世の中の冷たさは、その家族の上をも用捨なく吹きまくったのだ。
戦犯の家族ということだけで、

(イ)就職を拒否せられたもの   二二
(ロ)結婚を拒否せられたもの   一二
(ハ)社会的追害を受けたもの   五六
(ニ)自殺をはかったもの     一二
(ホ)発狂したもの        一六

であった。またプリズンに拘禁せられている間に、

(イ)父母が死亡したもの     一八六
(ロ)妻子が死亡したもの      三九
(ハ)その他の肉身が死亡したもの 二七〇

となっている。

 この調査は、前にも述べたように沼和二十七年一月のことだから、全員がプリズンから出所できた昭和三十三年五月三十日までの間には、更にはるかに無残冷酷ないろいろな問題が起こっているに相違ない。

P16(-12-)
 かような人達を捨てて顧みないような無情な態度をとることが果たして日本人の本然の姿といえるであろうか。
 
 私は、東京裁判で弁護団のスポークス・マンをつとめた関係から、昭和二十七年五月二十七日設置せられた日本弁護士連合会の戦犯釈放特別委員会の委員長に選任せられた。

 この委員会は、去る六月二十一日の理事会で”任務終了による解放”が承認せられたが、それまでの間、弱腰一方の歴代政府と果敢に渡り合うばかりか、裁判をした各国の大公使館始め、国会などへ通いつづけて戦犯の全面釈放のために、出来る限りを尽してきた。

 昭和二十七年六月二十一日には”平和条約第一一条による赦免の動告に関する意見書”を内外各方面に送って平和条約第一一条の解駅についての外務省の謬見(びゅうけん)を是正した。

 これが機縁となってアメリカではスノー委員会が設けられ、バロール(仮駅放)が急に進むこととなった。

 ついで、昭和二十八年一月十九日及び同年五月三十一日の両回に渉り、政府並に国会に対し″戦犯の全国釈放につき特使団派遺に関する要望者”を送った。
 直接審理にたずさわった弁護人を中心とする特使が、裁判をした国の当事者に対し、直接に、裁判の失当を訴えたならば、無下にはこれを斥け去ることも出来まい、と信じたからだ。
 しかしへッビリ腰の政府は、これに踏み切り得なかった。


P17(-13-)
 昭和二十八年七月二十二日には、比島モンテンルバから帰国した一一○名(遺骨一七体)を迎えた。
同年八月八日には豪州マヌス島から帰国した一六五名(遺骨二体)を迎えた。横浜港に入港した輸送船の客室で、無言の凱旋をした勇士の遺骨や病臥する戦犯の前で、渡辺はま子さんが心のかぎり捧げた”モンテンルバの歌”に催した涙の記憶は、いまだに新しい。

 昭和二十九年の暮、鳩山内閣が成立したので、首相に直接交渉して、戦犯の釈放を、国会での”施政方針の演説中に挿入する”ことに成功した。

 昭和三十ニ年六月五日、私は、相馬カ原事件として知られるウィリアム・S・ジラード米国三等特技兵の事件を受任したので、これを機会に、戦犯の全面赦免を実現しなければならないと考え、戦犯釈放特別委員会の副委員長であった三文宇正平弁護士にお願いして、ジラード事件の副主任弁護人となって頂き、共に計って、米国駐留軍並に米国陸軍に対し、あらゆる手段をとって、その目的の実現に努力をつづけた。

 かたわら、この事件を傍聴のために来朝した米国上院のシェベル、スリーマン、フェンストワールド諸氏や、元在郷軍人会々長のオーズリー氏や小説ヒロシマの作家ハーシー氏などに、米国々内における釈放工作を依頼すると共に、AP、UP、INSなどの特派通信記者諸君とも話し合って、釈放の空気をつくりあげることにカめた。


P18(-14-)
 私のアイディアとしては、もと戦犯の弁護人であった方々に、バロールの審査権限を委かせて員うことにあった。
その後、ヤットの思いで、スノー委員会の権限を、日本に渡さすことに成功した。

 しかし日本の政府は、何故か、パロール委員会のメンバーに、弁護士を加えることを反対した。

しかも出来上った三人委員会の委員は凡て激務を持った人達ばかりであった。
左様な人達にサイド・ワークとして至難なパロールのことに当らしめたのだ。
加うるに、内閣直接の委員会でありながら、一厘の金、一枚の紙片をも与えようとはしなかったのだ。
恰(あた)かも、戦犯の釈放を、できる限り長びかせようと努力するような態度であった。

 私らとシェベル上院議員との間で意見の一致したところは、昭和三十三年一月十五日までには、全面赦免をする、ということにあった。
それには、私らをパロール委員に加えて迅速に処理することが条件の一つとなっていたのだ。

 かくて、●くにして、全部釈放にはなったものの、仮駅放のままで赦免とならないものが、アメリカ関係三四四名、オランダ関係一一○名残っている。
 
この人達の全面赦免に政府が力を入れて呉れようとは、重なる過去の実績に照らして想像すらできない。

私は、釈放委員会の委員長としての最後の仕事として、″この人達の全面赦免こそ日本人凡ての心の祈りである”ことを書面として、マッカーサー駐日米国大使並びにロースリン駐日和蘭大使にあ

P19(-15-)
てて申送り、その本国政府にこれが伝達方を希望した。
マッカーサー大使からは、六月十六日付でその旨を了承したとの鄭重な返信が屈いた。

 私は、最後に、刊死した人々が遺した歌の幾つかを、巣鴨遺書編集会でまとめた”世紀の遺書”の中から拾い出して、日本に残す尊い魂を、あとにつづく若い人達の胸に鋭く烙きつけたい、と思う。

征く日より捧げし命情しまわど 口惜しを科をいかにとやせん   (山田 恒義)
我なくもあとを頼むぞくれぐれも やがては伸ばせ我が子孫ひこ  (中村 鶴松)
いわれなき罪に問われて独房に 国を憂いて涙かわかず      (木村 歳雄)
おののきも悲しみもなく絞首台 母の笑類を抱きてゆかむ     (木村 久夫)
いまさらに散る身借しとは思はねど 心にかかる国のゆくすえ   (前田 三郎)

P20
昭和三十五年七月 一日 印刷
昭和三十五年七月一七日 発行
著者 林 逸郎
発行者 戦争犠牲者顕彰会
    代表 三浦 兼吉
--------------------------------

以上が「戦争犠牲者顕彰会」会長だった三浦さんが発行した小冊子の中身全文です。(冒頭に述べたとおり「2.戦争はなぜ起きたか」は奉賛会HPのpdfのリンクが切れているので入手できてませんが(^^;)


昭和35年にこれだけの事が既に判っていながら、何故にわれわれ日本人は

太平洋戦争=邪悪な日本が中国や東南アジアを侵略した戦争
真珠湾攻撃=卑怯なだまし討ち
A級戦犯=極悪非道な戦争犯罪者
太平洋戦争のことを「大東亜戦争」なんていうのは侵略戦争を美化したい恐い右翼のやることだ

という間違った認識を持ってるんだろう???

「真珠湾攻撃はだまし討ちじゃない」
「開戦前、アメリカは日本の暗号電文を解析していて全てお見通しだった」
最低限、この2点をきちんと報道するだけでかなり是正されるはずなのに。

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Posted at 2019/04/26 05:54:42

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