
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
若手エンジニア二人のヨーロッパ行きには、もちろん、具体的な目的があった。それは当時のパルサー(N13型)欧州仕様の「足」のスペックを探ることである。それを現地を走って決めて来い、これが宮田の吉川へのオーダーだった。そして宮田は吉川に、次のようにひと言付け加えることを忘れなかった。「向こうのクルマにも乗って来いよ」
1週間の間、パルサーのバネを換えショックアブソーバーをいじりながら、吉川は同僚の中村郁夫とともにヨーロッパを駆け回った。パルサーにもたっぷり乗ったが、宮田に指示されたように、他社のクルマにも乗った。そしてそこで、シャシー屋として重大な発見をする。欧州にはこんなに素晴らしいクルマがあるんだ!という驚きである。そのクルマとは、VWゴルフのGTIだった。
ベルギーからスイスへ、アウトバーンを一日に1000km以上、文字通りにノンストップで走る。このクルマは、それができた。一日ずっと乗っていられる、クルマで走り続けることができる、そういうクルマがあるのだ。この事実は衝撃だった。
それができるクルマとは、どういうクルマか。何がどうなっていれば、そんなことが可能なのか。吉川は必死でゴルフGTIというクルマを探究した。
まず、人間の身体によく馴染むということがあるだろう。だから、クルマに乗りつづけられる。また、触れつづけてイヤにならないためには、クルマが余計な動きをしないこと、そしてクルマを操縦することがずっと“快”であり続けることが必要になるはずだ。単にシートの出来云々だけで語るべき問題ではない。
さらには、情報性という問題もある。いまクルマがどうなっているか。もっと言えば、タイヤがどういう状態か。ゴムはどう接地していて、さらに、これからどうなろうとしているのか。これらをドライバーが感知できるから、ドライビングが積極的な喜びにも変わるのだ。重要なのはインフォメーションだった。そしてもっと絞れば、それはステアリング・インフォメーション──この一点に集約される。
また、ドライバーの「入力」に対してのクルマのレスポンスという問題もある。その自然さ、もっと言えば“人間らしさ”だ。それは、ただ反応が速ければいいというものではない。動こうという人の意志がそのままクルマの動きとなるような、そんなレスポンスだ。
吉川は少しずつ、ゴルフGTIを解析していく。そして思った、これは確実に負けている、と。同時に、だからこそ、必ずや越えねばならないとも思った。
キャッチ・ザ・GTI。帰国後の吉川は、このコピーを掲げて、社内で新しい「走り」を語る“宣教師”となった。それは、シャシー屋の同僚への具体的な目標の呈示でもあったし、同時に、現実をしっかり把握しろという檄でもあった。実力の差、わかってるのか、本気でやれよ! シャシーは、一番劣ってるんだぞ! こういう問いかけである。
ここから始まった吉川の設計屋としての足回りでの先行開発は、フロント・マルチリンク・サスペンションとして、後にプリメーラ、そしてR32スカイラインで結実することになる。
そして、帰国後の吉川が語る、以上のようなあり得べきクルマの挙動について、大いなる共感を示したひとりに、実験部の矢崎幸明がいた。ステアリングを切ったら、切った通りに曲がるクルマ、勝手に横を向いたりしないクルマ。彼らはまずそれをめざし、そこから、それだけではダメだとして、ドライバーとクルマとのコミュニケーション、具体的には“尻のGセンサー”へ、さらにステアリング・インフォメーションへと課題を作って進んで行った。
そういう活動に、実験の現場の立場から、加藤博義や川上慎吾が加わり、こうすればいいんじゃないかという意見を出した。たとえば、操舵感の向上とそのダイレクトさを創るためには、前輪だけのチューニングでは不十分で、リヤ・サスのグリップとの相関関係が不可欠だというのは、加藤と川上からの問題提起だった。
後に、R33スカイラインのテーマとして対外的に掲げられることになる「意のままに」というフレーズは、こういう活動の中から、矢崎がふと口にしたものが、そのオリジンである。
さらに吉川は、その「ステアリング・インフォメーション」を重視したニッサンとしての新しい「走りの理念」を、つまり、クルマは決してハードだけではないというスタンスを、もっと世に知らしめたいと考えはじめる。素材は、デビューしたばかりのR32GT-R。それを使って、「ニュル」を攻めるGT-Rのビデオを作ったらどうだろうかと思いつく。その提案に、宮田が乗ってきた。
だが、話がそこまで行くと、コトはエンジニアや実験スタッフの手に余るレベルになる。制作費の問題も絡むし、社内誌なら手作りでやれても、映像となると制作スタッフも必要だろう。これはもう、営業に相談するしかないなと、宮田が言った。そこなら、この種の制作についてのノウハウもありそうだし、何より彼らは販促費というものを持っているに違いないのである。
宮田と吉川が出向いて行った先の部長席にいた恰幅のいい男は、「本当にやれるのか?」と聞き、すかさず「で、いくら要るんだ?」と言った。この男に会ったのは、吉川はこの時が初めてだった。決断のすばやいこの男の名を、吉川は一瞬で記憶した。
もちろん、このとき二人が交渉に行った当時の営業部長が、後に商品本部長となって、吉川正敏や渡邉衡三に「R33GT-R作り」という“ハード・ジョブ”を強いることになるとは、このとき吉川は想像だにしていない。彼こそ、ニッサン屈指のマーケティングの才人、三坂泰彦その人だったのである。
(タイトルフォトは、P10プリメーラのフロント・サスペンション)
(第4章・了) ──文中敬称略
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90年代の書棚から 最速GT-R物語 | 日記
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2014/11/23 15:56:36