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家村浩明のブログ一覧

2016年10月30日 イイね!

ディランは完黙……しなかった!

この10月に、2016年のノーベル文学賞の受賞者が「ボブ・ディラン」であることが公表され、その一種の意外性に世界中が沸いた。ただ、最も驚いたのはディラン自身であったかもしれず、このニュースが世界を駆けてもボブ・ディランだけが無言だった。

そしてノーベル賞のアカデミーは、発表から数日が経った時に、ディランとは連絡が取れず、また、何のリアクションも得られていないことを認め、「もうディラン氏とは、こちらからはコンタクトしない」という意味のコメントを発表した。それ以後、この件についてのニュースは途絶えて、今日に至っている。

私自身はボブ・ディランのよきリスナーではなく、彼の言動をずっとウォッチしてきたわけでもないので、この件について何か語るに適任ではないのだが、個人の感覚として言えば、ディランはこのまま「完黙」すると思う。

この件についてのディランの立場を短く言うと、「関心がない」ではないか。ノーベル賞にまず関心がなく、ノーベル文学賞と自身の仕事に関係があると思ったこともない。ディランにすれば、見知らぬ国の、たとえばそこの大学から、自分に対して何か学術的な(?)賞を出すと言われたようなものかもしれない。そんなことに、いちいち反応できない。俺はアメリカの、ただの歌手だぜ! これがディランの率直な反応と気分なのではないか。

もちろん彼の周囲や友人は、今回の件は何よりキミの詞が高く評価されて……などと、彼に語っているかもしれない。でも、ディランは嬉しくない。「詞」を評価だって? 「音楽」じゃないのか? そのアカデミーとかいうのは、俺の演奏を聴いたことがあるのか? 

ボブ・ディランの経歴をちょっと調べてみると、彼は基本的に“賞嫌い”ではないことがわかる。グラミー賞を始めとして、アメリカ国内の音楽関連の賞は数多く受けているし、フランスの勲章まで貰っている。彼のキャリアは各種の賞で充ちていると言ってもいいほどで、そういう意味では、ディランは“孤高の人”ではない。

そういえば、ジョン・レノンって、何か賞を貰ったことはあったのか? ふと思い出す彼のエピソードは、レノンが「ビートルズ」として初めてロンドンの“高級な劇場”に出演した際のこと。「安い席の人は拍手をして! でも高い席の人は、宝石をジャラジャラ鳴らしてください」と言ったと伝えられている。

でも、この種のエピソードや伝説を、ディランについてはあまり知らない。そのため今回の件でも、ディランがどういう反応をするのかイマイチ“妄想”できない。

たとえば、この2016年からノーベル「音楽賞」が新たに設定されて、その第一回目の受賞者として、歌手ボブ・ディランが指名された。こういうことなら、ディランは反応したのか? いや逆に、この場合こそ、そういう学術的な賞(?)なら、もっと相応しい人がいるとディランは固辞するのか? 

これまた想像でしかないが、「詞」だけを単体で“文学的に”評価された(らしい)のも、ディランには不本意なのではないか。たとえば「ライク・ア・ローリングストーン」にしても、ハーモニカやギターによるメロディーやベースラインとともに、この言葉が発せられて、初めてカッコいい! 彼の詞はすべて、音楽と協調・共鳴するライブ感覚を前提に書かれたものであり、“読まれる”ための言葉(現代の文学)ではない。これがディランの自負とスタンスではないのか。

ただ、今回の“ディラン・ケース”で、明らかになったことがある。それはノーベル賞という賞典は、何の“根回し”もなく、ノーベル賞側(アカデミー)が好き勝手に受賞者を決めているということ。まあ、だからこそ「価値」があるという見方もできるし、ゆえに、ディランのような「無反応」は歴史的にも超・例外になるのだろう。

ちなみに、数少ないノーベル賞の「辞退者」のひとり、ジャン・ポール・サルトルは、ノーベル賞側に、辞退する旨の手紙は送ったのだという。ただ、その到着が間に合わず、サルトルが賞の対象者であることが先に公表されてしまった。また、旧・共産圏諸国に属する「辞退者」は、自分の意志というより、当時の政府の判断によって受賞が拒絶されたものだった。

さて、ノーベル賞側は、もうディランとはコンタクトしないとしつつ、12月の授賞式は予定通りに行なうとも述べている。連絡をしないのなら、ディランは今後、この件にはもう関われないことになる。そして、文学賞以外にも賞があるはずだから、ディランの動向とは関係なく、各種のスケジュールは進むということであろう。

ただ一方では、こんな“妄想”もする。それはディランはジョークがわかる“陽気なアメリカ人”だったというオチで、12月には、ディランは何故かストックホルムにいて、授賞式会場にはギターとともに登場。ウインクのひとつもした後で、一曲歌ってステージを去る……というストーリーである。果たして、そんなことが起こるのか。いや、ディランに限っては、それこそがあり得ないことか? 

もうひとつわからないのは、受賞予定者から何の返事もなく、「拒否」かどうかも不明だという場合に、ノーベル賞サイドはどうするのかということ。「なかった」ことにしてほしいというのがディラン側の願望だとすれば、ノーベル賞側も「なかった」ことにするのか? それとも、受賞予定者の意向とは関係なく(というかその意向がわからないのだが)、その年の受賞者はこの人物であるとノーベル賞の歴史に刻むのか?

         *  

──と、ここまで「?」だらけの文を書いていたところに、「ディラン、受諾」のニュースが飛び込んできた。ボブ・ディランがスウェーデン・アカデミーに連絡し、「素晴らしいことだ」と、ノーベル賞の受賞を喜んでいるというニュースだ。さらにAFP通信は、12月10日にストックホルム行われる授賞式への出席の意向を問われたディランが、「もちろん、できることなら」と答えたことを報じた。

……ウーン、12月10日が最終回で、みんながそれを楽しみにしていたドラマが、一気にエンディングになってしまったというオモムキだ。そして、何よりディラン氏は、普通で常識的なアメリカ人だった。彼は12月にストックホルムで、これまでの受賞者とまったく同じように行動するだろう。正装で授賞式に出席し、そして、歌手ではなく“文学者ディラン”としての立ち居振る舞いに終始する。ドラマは、まるで当たり障りのない内容の最終回とともに、幕を閉じることになった。

それにしても、ひとつ、わからないことがある。それは、「拒否」にせよ「受諾」にせよ、それを決めるのに、何故「二週間」という時間が必要だったのかということ。右顧左眄(うこさべん)なんて、ふと、自分でも読めないような(笑)言葉を思い出してしまったが、ディランはこの半月の間、何を考えていたのか? 世界が「自分」をどう見ているかを「見ていた」? 即断すると“俗人”になると思った? いや、俗人すぎて判断ができなかった? 

そして、事ここに至っても、授賞式の出席を英紙に問われて、「うん、できたらね」と、何となく含みを持たせているのは虚しい。喜んで受諾したと言っているのだから、ノーベル賞サイドが望むことはすべて受け入れるというのがスジであろう。“ディラン劇場”は結末が見えたこともあり、もうほとんどの観客は劇場から出て行った。ひとりディランだけが、まだ、そのことに気づいていない? 
Posted at 2016/10/30 03:03:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 茶房SD談話室 | 日記
2016年04月30日 イイね!

色はバラバラ(笑)

色はバラバラ(笑)最初に“乗った”のが白いギャランで、その次に買ったのがFRジェミニだった。そして、そのジェミニの色は濃い茶色。カタログには“オータム何とかメタリック”とか、そんなふうに書いてあった記憶があるが、ただ実車をひと目見た友人たちは、みんな、私のジェミニを「ゴキブリ色」と呼んだ(笑)。まあ、言われてみればその通りで、チャバネゴキブリというのか、あのタフな昆虫の背中のあたり、“照り”まで入った深い茶色が見事にクルマで再現されていて、(うまいこと、言うよなあ!)と、私は彼らのセンスに秘かに感心した。

このジェミニは新車での購入だったので、実は、色は何でも選べた。ギャランは中古で買ったが、色は「白でいい」と思っていた。それに続いての“ゴキブリ・カラー”、濃い茶色の登場である。……あ、そういえば、ほとんど走れなかった私の「ゼロ号機」である某欧州車は黄色だった。

こうして三台のクルマを買ってみて、ふと、気づいた。それは、少なくともクルマにおいて、私には「好みの色」というものがないんじゃないかということ。こういう色のクルマに乗りたいとか、また、こういう色では乗りたくないとか、そういう感覚がほとんどない。そして、どんな色のクルマにも乗れるというのは、色についての関心もセンスもないということではないのか。

また、女性の友人とクルマの話になった場合のことも思いだした。いま、このクルマがいいと思うよとか、あのクルマはカッコいいよね!とか。そうやってクルマが話題になると、女性たちはさり気なく、しかし鋭く訊いてくるのだ。「そう。……で、そのクルマ、《色》は何があるの?」

──その質問に、まったく応えられない私(笑)。こんなコンセプトで、あんな狙いで、そのクラスとしては画期的なナニソレが盛り込んでとか、そんなことは知っていても、そのクルマに「何色」があるかなんて考えたこともない。当然、色のラインナップを調べることもない。せっかく女性たちとクルマの話題になっても、この局面になった途端に話は止まり、話題はほかへ移って行く。

しかし、興味や関心がなくても、クルマの色を考えなければならない時がある。例の“ゴキブリ・カラー”にしても、私が決定したから、購入者である私のもとに来たわけで、誰かに押しつけられたわけではない。なぜ、私は“ゴキブリ”……じゃない、濃い茶色、つまりオータム何とかメタリックのジェミニを買ったのか? 

それは「似合っていた」からだった。カタログ巻末のボディカラーの一覧にも目を通したし、実車も見に行った。そうして、こういう格好のこのクルマに一番「似合う」のはどの色だろうか? そういう考察や見極めをした。その結果、ジェミニについては、コーヒーにミルクを入れすぎたような色(笑)よりも、濃密な茶色の方がボディがキレイに見える。そういう判断をしたのだ。

白のギャランから、茶色のジェミニへ。一台目から二台目へという時に発揮された、色に関する“節操の無さ”は、その後も引き継がれた。ジェミニに続く、同じいすゞの117クーペのカラーは黄色で、次のVWのゴルフ(二代目)は白だった。でも、同じVWでも、ジェッタを買う際には藍色にした。

この二台のVWは実はディーゼル仕様で、走り(足)と燃費は良かったが、当時(1980年代)の欧州製ディーゼルは、エンジンの騒音については“あるがままに”の垂れ流し状態。ある日、その音量に耐えられなくなり、このクルマはもう販売元に引き取らせようと、買ったディーラーに行った。

そして、外国車のトラブルにも懲りていたので、次は日本車にしたいと思ったのだが、そのディーラーが扱う国内車はピアッツァ・ネロだけだった。そのネロは「黒」が売りもので、ほかにもカラーはあったのかもしれないが、私はそのまま素直に、ピアッツァ・ネロのイルムシャー仕様を選んだ。まあ「黒」は似合っていたので、このカラリングに異議はなかったが。

さて、何だかんだ言ってるけど、「似合う色」ってカタログで表紙や最初に開いたページに載ってるメインカラーであり、要するに、それを選んでるだけなんじゃないかという声は、どこからか聞こえる。メーカーやデザイナーの思惑や戦略に乗せられてるだけではないか、と。あなたは“自分の色”は、ついに持てなかったのだね、と。まあ、たしかにその通りであるかもしれない。

色についての、そんなこだわりの無さは、職業としてクルマの雑誌を作ってきたことにも関係があるだろうか。このページのこの部分に、Aというクルマの写真を載せるとしたら、どうする? そんなことばかりやって来た結果、“自分の色”ではなく、似合う/似合わないというモノサシだけで、クルマを見るようになった?

そして1990年代。その後の十数年を一緒に過ごすことになる「P10」(初代プリメーラ)というパートナーを決める際も、私はそれまでと同じことをしていた。メーカーが、このクルマのメインカラーはこれです!……という、まさにその色である「エンジ」を選んだのである。

──そういうヒトって、着るものの色やセンスもメチャメチャなんだよね! ……はい、そうかもしれません。たしかにテキトーに、いろんな色、着てるような? というか、ジーンズのインディゴ・ブルーはどんな色にも合うので……と、小さな声で言ってみる(笑)。
Posted at 2016/04/30 16:22:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 茶房SD談話室 | 日記
2016年04月29日 イイね!

最初のクルマ

最初のクルマ○コルト・ギャランAⅡGS 1971年

友人から預かるという格好で──といっても対価を払って譲り受けたのだが、そんな経緯でやってきたオンボロ欧州車が一時期、手許にあった。ただ、そのクルマはスターターが不調で部品もなくて直せず、ロクに動かなかったので、とにかく自由に動き回れるクルマを手に入れたかった。

こんな購入動機がまずあって、時は1973~74年頃。私は社会人になって何年か経った20代の後半、30~40万円くらいの中古車なら、まあ買えるという状態。そこで購入したクルマが、自分にとっての実質的な一台目だと思っている。ただ、前述の欧州車の件があるので、初めて「買った」というより、最初に「乗った」クルマというのが正しいかもしれない。この時には、新車はまったく考えなかった。

──というわけでクルマを買うことだけを決め、けっこう“現場主義”でもあったので、夜中に友人のクルマに乗せてもらって、実車が展示してある中古車売り場を巡り、市況を探ったりした。一方ではカー雑誌で情報を収集し、某誌でその「足」が高く評価されていたモデル、コルト・ギャラン(初代)に注目。そこからツインキャブの「AⅡGS」が我がアイドルとなり、ある時期以降はこのモデルにこだわって中古車を探した。

このチョイスでもわかるように、クルマの「速さ」にはある程度のこだわりを持ちつつ、しかし見た目は、あくまで控えめな格好(セダン)で……という「速いハコ」志向。それには世代的なものがかなりあって、自分でも気がつかないまま、写真で見た1964年の日本グランプリでポルシェを追い回した「スカG」の無骨な姿が、脳裏に刷り込まれていたようだ。ともかく、雑誌記事と“プアマンズ・スカG”探しが組み合わさって、コルト・ギャランの「GS」に行き着いたと思える。

ただ、「速いハコ」志向でも、そのまま素直に「スカG」に行くのではなく(スカイラインは大きくて高かった)、また同じく“大手”の作になるブルーバードのSSS(「スリーエス」と読んでください)にも行かず、さらにはトヨタ系も無視して……というのは、やっぱりその頃から若干ひねくれていたというか(笑)一種のマイナー志向だったのだろう。ちなみに少年期の私は、関西とは何の縁もないのに野球は阪神ファンで、三宅秀史と吉田義男の三遊間に胸をときめかせ、もし野球チームに入ることがあるなら背番号は「16」か「23」のどちらかだ!と思っていた。

その「AⅡGS」は4枚ドアのセダンで、ミッションはマニュアルの4速。SUツインキャブのエンジンは低速トルクがなく、市街地ではトップ(4速)に入れられなかった。そして、ファンベルトが定期的にトラブるという持病があり、これはたぶん、そのクルマが事故車だったから? でも、エンジンを機嫌のいい状態に“回して”使うなど、クルマとの対話をしつつのドライビングは“GS乗り”としての愉しみで、そういえば京都旅行をするのに新幹線を使わず、わざわざこのギャランで行ったりしたな! 

動力性能など、このクルマにべつに不満はなかったのだが、なぜ、ファンベルトを支えるステーが折れるのか(そのためベルトも切れる)を考えたときに、(そうか、これは事故車なんだ……)と思い至り、諦めて手放すことにした。二台目のクルマもギャランにコンセプトは似ていて、フットワークのいい4枚ドアのいすゞジェミニ(FRの初代)、そのMT車だった。

○タイトルフォトは初代ギャランの宣伝用写真から。私のGSは後期型だったのか丸目の四灯式で、色はこれと同じ白。登録ナンバーの四桁の数字は、いまでもなぜか憶えている。今度、何かの暗証番号に使おう!(笑)

(「ベストカー」誌 最初のクルマは? 2009年5月より 加筆修整)
Posted at 2016/04/29 06:49:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | 茶房SD談話室 | 日記
2016年03月14日 イイね!

60年代! ホンダ! F1!

60年代! ホンダ! F1!二輪ではなく四輪で、ホンダが初めて、それも「F1」というかたちで“世界”と闘った「1960年代」──。その時代とレースに焦点を当てた本が出た。タイトルは「双頭の夢 HONDA F1 魂のルーツ」(三栄書房)、著者は山口正己氏。

「終戦から立ち直り、クルマがその後の日本を支える基幹産業として活発な活動をはじめた1960年代という特別な時間のなかで、世界に打って出た第一期ホンダF1をテーマに、モーター・レーシングの魂やあり方を、自分の中で整理しながらまとめた」……というのが著者からのメッセージである。

1960年代ホンダのF1レース活動は、1964年から1968年までの5年間で終わった(休止と発表された)が、それぞれの年について、この本では以下のようなタイトルでまとめられている。

  * 1964年 F1GP 無限の“荒野”へ ホンダはホンダの道を歩む
  * 1965年 ラスト・チャンス、ファースト・ウイン! 1500ccF1最後のメキシコ
  * 1967年 F1タイトルが見えた! 劇的な二勝目、モンツァ! 
  * 1968年 光明と悲劇、そして終幕へ… 宗一郎の“夢”が走った 

もちろん、コンテンツはこれだけではなく、巻頭に並ぶ当時の写真、ホンダF1各マシンの紹介、CG誌による日本の雑誌初のF1グランプリ・レポート、ホンダが参戦したGPの戦績、ナカサン(中村良夫)に捧げるエッセイなどが盛り込まれる。

また、(察しのいい読者は、もうおわかりかもしれないが)実はタイトル(書名)にも、ちょっとした“ナゾ”がある。ただ、ミステリー小説を紹介する際に結末には触れないのが礼儀であることに倣って、ここでは、これ以上は書かない。

……たとえば、東京オリンピックの開催が1964年で、新幹線の開通も、それと同じ年だった。1966年にサニーとカローラが売り出されて、本格的なマイカー時代も始まった。1945年の敗戦から、日本は1950年代を何とか突き抜け、華麗なる1960年代に突入していく。

世界的に見ても、1962年にビートルズがデビューするなど、さまざまなモノゴトがなぜか異様に“熱かった”のが「60年代」だった。それをステージに、日本から飛び出して“世界”に立ち向かったのが「ホンダ」と、そして「宗一郎」だ。そして、何と言っても「60年代ホンダ」はF1で二勝していて、彼らのそのバトルもハンパなものではなかった。

ちなみに、この本の帯には、本田宗一郎のこんな言葉が載っている。「だから、もし『水のいらない車』ができれば、それは革命です。そして現在の知識では『空冷はうるさい』という。だから、その音を取り去ってしまえば、完全に自動車の革命ができるんですね」
Posted at 2016/03/14 14:53:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 茶房SD談話室 | 日記
2015年12月18日 イイね!

「パジェロ」を消すな!

「パジェロ」を消すな!あのパジェロが消滅するかもしれない……というニュースがある。もう新型の開発は行なわない、つまり次期型を作らないというもので、12月5日の日経電子版でも「新規の開発は中止」することが報じられている。

一世を風靡したモデルが現行型を最後に消える(かもしれない)というのは寂しいし、いろいろと感慨もあるが、しかし逆に、これはチャンスではないのか!という気がする。あるコンセプトで通したモデルが、時が流れて、状況や市場に合わなくなった。こういうのはアタリマエのことであり、もし、合わなくなった(売れなくなった)のなら、「時代」や「人」に合わせて変貌させればいい。消してしまおうではなく、どう変えるかである。

“あの頃のパジェロ”は、「時代」とさまざまな幸運にも恵まれ、空前のヒット作になった。人々が「クルマ」に関してフリーな感覚を持ち始めた時期、従来のジャンル以外で「乗用車」にできるものを探し始めた。マルチパーパス(多用途性)はその通りだったし、クルマ(乗用車)はこうした“変種”であってもいいという提案をメーカーとユーザーで共有できた……など、さまざまな“ヒット要素”が1990年代のパジェロを取り巻いていたと思う。

一方でメーカーは、パジェロのヒットの原因をどのように捉えていたのだろうか。強力なオフ性能を持つクロスカントリー車、それを証明するためのモータースポーツ・シーンでの活躍と実績。これらがメーカーがパジェロに与えたポジショニングだったようだが、ただ、ユーザーそしてカスタマーは、このクルマをもっと「広義」に受け止めていたはずだ。

そもそもパジェロが一世を風靡していた当時に、既に、オフロードを一切走ることなくその生涯を終えるパジェロがいる……という笑い話があった。「クロカン+スポーツ」というメーカーの措定は、カスタマー&マーケットによって別のものに置き換えられていた。(アメリカはそういう現象に対して、新たに「SUV」という言葉を作ったのではないか?)

「乗用車」にはいろんなタイプがあっていい。そういう“受け皿”にパジェロも収まっていて、そして2000年代になると、その“受け皿”に「クロスオーバー」という言葉と要素が絡み始めた。もちろん三菱もそれを読んで、アウトランダーという新しいクロスオーバー・モデルを世に問うたのだろう。アウトランダーは、私見では「セダン+ミニバン」のクロスであり、これは正しい戦略だと思うが、だからと言って“あのパジェロ”を消してしまうことはない。

たとえば全輪駆動車とかオフ性能、あるいはクロカン車をイメージしたい場合に、米人なら「ジープみたいな」というかもしれないが、私たちは短い言葉でわかってほしいなら「パジェロみたいな」と言うのではないか。そのくらいに、この国では「パジェロ」は浸透した。

そういえば、“本家”ともいえる「ジープ」は、2015年に「史上最小のジープ」と謳って、コンパクトSUVの「レネゲード」をデビューさせている。われらがパジェロだって、この種の手口は使える。仮に、いま作ってるパジェロが売れなくなったのなら、どんなパジェロなら売れるのかと、新たにコンセプトを立てればいいのだ。

1990年代の「RV」ブーム以後、わが国のクルマは多様化した。クロスオーバーという言葉が日本でついに流行らないのは、極言すれば、90年代後半以降の日本のクルマがすべて“クロスオーバー車”であるからかもしれない。それぞれのジャンルが他のジャンルを互いに学びあって、世界に類例がない“脱カテゴリー”状態のマーケットになっている。

そんな状況であるからこそ、2010年代後半から2020年代に向けて、伝統のパジェロをどう作るか。あるいは、どんなニューモデルに「パジェロ」という名を与えるか。それがメーカーとしての腕の見せ所であろう。

たとえば、米国の高級ブランドというキャデラックでも、1950~60年代の華麗なるテールフィンの時代と、ダウンサイジングしてSUV風までラインナップに加えた今日のキャデラックでは、バッジ以外の共通性はほとんど何もない。しかし、それで通る、もしくはそれで押し通す。これがブランド戦略というもののはずだ。

クルマのカテゴリー、その“垣根”が消失しかけている今日とこれからだからこそ、「パジェロ」のようなブランドが活きる。パジェロを──正確には「パジェロ」という「名」を消すな! 2015年、メーカーに提言したい。
Posted at 2015/12/18 17:56:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 茶房SD談話室 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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