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2014年11月24日

第5章 決断!

第5章 決断!  ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

ニッサンの社員は毎年、暮れが近づくと少しソワソワするという。当時、つまり1990年頃のニッサンの人事異動は1月1日付けで行われたからだ。上司から、何月何日には席にいられるかと尋ねられたり、いついつキミは居場所をはっきりしておくようにという指示が出されたら、それは確実に「何かあるな」と思わなければならなかった。吉川正敏は、1991年にそういう12月を迎えた。その時に所属していたのは、技術開発企画室である。

「901活動」の中枢から、設計屋としてフロントのマルチリンク・サスを作り、それがプリメーラとR32スカイラインに活きた。R32GT-Rのブレーキを中心とするモディファイに没頭し、より高性能のGT-Rの可能性を発見した。あるいはPRビデオや社内のモータースポーツ誌の編集に関わり、サーキットでのR32GT-Rの動向に注目し、そして89年からは企画室のスタッフとして、次期GT-Rのそれを含む社内のすべての「先行」に首を突っ込んだ。

そういう吉川が、12月のある日、技術開発企画室のボスである専務の三浦登から、某日の居場所の問題を打診されたのだ。(あ、来たな……)と吉川は思った。それは、どこへ行くのかはまだわからないが、どこかへ異動することは確実になったことを意味していた。

「ただねえ、それが微妙な言い方なんですよ……」、吉川はいまにして、こう明かす。三浦は吉川に、「このたび、商品開発に行ってもらうことになった。そこでスカイラインを担当してほしい」とだけ言ったという。担当すべき機種はあくまでも「スカイライン」、この時「GT-R」という名は出なかった。

おそらくだが、この時点での三浦にとっては「新GT-R」はまだ「やる」と決まったわけじゃないというものだったのだろう。あるいは、やれるかどうか、世に出せるかどうか、まだわからないというクルマだった。

「でも、だからといって(新GT-Rの)リサーチをやれというんじゃないんですよね……」(吉川)。新GT-Rを、やるべきなのか、やるべきでないのか。さらには、旧型を明らかに超える新GT-Rは可能なのか。ニッサンの役員会のレベルでも、最終的な決定あるいは判断を、なかなかしかねていた、そのことが窺える挿話であるかもしれない。

ただ、はっきりしていたことがある。この数週間ほど前に「決断」はなされていた。少なくともひとりの男の中では、新GT-Rを「やる」ことが決まっていた。決断したのは、商品本部長になっていた三坂泰彦である。

1991年の11月末。場は、商品部と開発部の合同検討会の席だった。三坂はそこで開発部に、「R33GT-R」を商品化してほしい旨の強い希望を述べた。同席した車両設計と実験のトップは、そこまで言うならと、商品本部からの要請を受けた。そして、異論がなくはなかったからこそ、三坂の決意は固かった。「やると決めた、決めたからには不退転でやる」、三坂はこう宣言した。

新GT-Rへの、2年間にも及ぶ「先行開発」と模索の時期が終わった。ついに、ゴーサインが出たのだ。

ただちに、1992年の1月1日付けで、R33GT-Rの主管に渡邉衡三が任命される。そして、基準車の実験主担とは別に、GT-R専任の商品主担として吉川正敏が就任した。それまでに例のなかったこの「専任主担」職の存在は、GT-Rがほとんど独立した別機種であることの証明であるとともに、商品本部長・三坂の「R33GT-R」完成への強い決意と期待の現われでもあった。

三坂はひと言、渡邉に「やれるよな?」と言った。渡邉は、ついに来たと思った。実はこの半年ほど前に、三坂から「やるかもしれないぞ、そのときは(おまえで)行くぞ」という決意を聞いていたからだ。そして同時に「江夏の21球」(注1)を思い出していた。(ノーアウト満塁……もう後はない!)

そして一方で、事の重大さに身を引き締めた。「GT-R」という名声を傷つけることは絶対にできないし、商品として失敗することも許されない。また、もしここでGT-Rが成功しなかったら、会社は二度と、このような高性能車を作ろうとしなくなるかもしれない。責任は重大だった。主管となった渡邉衡三はこれ以後、心の中で書いた辞表を常に懐にして、仕事をしていくことになる。

主担に指名された吉川正敏にとっては、この人事は青天のヘキレキだった。何の予兆もなく、いきなりGT-R(の専任主担職)が飛び込んできた。そして、この三坂の決断には「賭けに近い期待」を感じた。三坂は技術屋出身ではない。だからこそやれた、飛躍も含んだ決断にも見えた。(ブツや技術がどうなってるからというのじゃなくて、まず然るべき人間を集めて仕事をさせる。そうすれば、きっとR32は超えるであろう、いや、超えるに違いない……。これはそういう要求をこめた人事だ)

渡邉が満塁のピンチを迎えた投手の心境なら、吉川は好機に起用された代打者のようだった。ただし、これは絶対に凡退することが許されない代打である。吉川は思った、もしここで三振でもしたら、選手生命が問われるな、と……。

吉川正敏は、1976年の入社というから、渡邉衡三とはほぼ10年違いになる。入社当時に「荻窪」で、初めて自分が仕事をする社屋と向かい合ったとき、吉川は(これはけっこう汚い建て屋だなあ)と思ったという。その社内の廊下を一緒に歩きながら、人事担当者が言った。「キミの上司はすごくきびしい人だから、ぜひ頑張るように」。

誰なんだろう? ……その名前を聞いた吉川は驚愕した。彼はプリンスR380が勝利する「日本グランプリ」をTVで見て、路上にS54Bが止まっていると舐めるように見続けた自動車少年だった。そのクルマの設計者の名は、もちろん知っている。それと同じ名前が、そのとき自分の上司として、人事担当者の口から発せられたのだ。吉川正敏もまた、渡邉衡三と同じく、「桜井真一郎」と「荻窪」をルーツとするエンジニアであった。

こうして、R33と新GT-Rのプロジェクトが、ついに回り始めた。

(第5章・了) ──文中敬称略

○注1:江夏の21球
1979年のプロ野球日本シリーズ、近鉄バファローズ対広島カープ。両者3勝3敗で迎えた第7戦。広島1点リードの9回裏、マウンドにはリリーフ・エースの江夏豊。先頭打者にヒットを打たれ、無死満塁・一打逆転サヨナラ負けのピンチとなる。しかし江夏は犠牲フライも打たせず、さらにスクイズを外して、近鉄を無失点に抑え勝利した。広島カープは初めての日本シリーズ制覇。「21」は、この9回裏に江夏が投げた球数。

 ── 『最速GT-R物語』 第1部 了 
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Posted at 2014/11/24 09:55:35

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