
そして、1950年代から60年代前半にかけては、自動車文化史上での“事件”があった。それは、当時のアメリカ車が巨大な「テールフィン」を強調するデザインであったことだ。たまたま、1960年に製作というビリー・ワイルダー監督による『アパートの鍵貸します』を見ていたら、画面の中のニューヨークのタクシーがその高い「フィン」を持っていた。プリムスあるいはダッジとおぼしき画面の中のキャブと似た造形のアメリカ車は、当時の日本の路上でも同様に、少年たちのクルマへの興味を鼓舞するかのように“棲息”していた。
高級車であるというキャデラックの「フィン」はむしろおとなしく、テールが派手ななのはダッジとかシボレーとか、比較でいえば廉価なモデルの方だった。その「フィン」の高さではダッジが勝っていたが、しかし、派手ということではシボレーも負けていなかった。1959~60年頃のシボレー・インパラは、ほとんどテールグリルとでも呼びたいような、リヤ・コンビランプを中心とする厚化粧の“顔”をリヤの全面に貼り付けていた。
その頃に少年であった世代として、この「テールフィン」による“刷り込み”が後の「リヤこだわり」を生んだのではないかといわれれば、それはそうかもしれない。また、コドモの好奇心としてクルマに関心を持ち出した時期が、ちょうどセダン、そしてクーペの時代だったということも、後の「リヤこだわり」に影響していたとも思う。
たとえば今日のようなミニバン時代では、ことリヤビューにおいてはそんなに「デザイン代(しろ)」がない。これは衆目の一致するところであろう。こういう時代に、仮にクルマに関心を持ち始めた少年少女がいても、大きなテールゲートがあるだけで比較的変化に乏しい「リヤ」にこだわるという志向は生まれないのではないか。
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しかし、セダンを主役とする「乗用車の時代」においては、リヤビューは雄弁であった。ルーフ、リヤウインドー、トランクルームのそれぞれで、造形的に多様な選択肢があり、それらをどう組み合わせるかということでもバラエティがあった。ルーフをどこまで、どういう形状で引っ張ってきて、その先のリヤ窓はどのくらい寝かせて、そしてそれらとトランクの出っ張り具合をどう組み合わせるか……とやっていくと、ほとんど無限に近い「解」があったはずだ。
そしてこれに、「セダンの時代」だからこそ、じゃあ「クーペはどうするんだ?」という嬉しい難題が絡んでくる。セダンである限り、実用性や日常使用における有用性といった要素をどこかで気にしなければならないが、しかしクーペであれば、それらは一切無視していい。造形として、ただただ「美学」のみを追える。そのことがデザイナーに許されていただけでなく、実はカスタマーの側でも、その種の奔放さや非・日常性の具現化をクーペには望んでいた。
日本クルマ史上における1960年代は、クルマについて作り手と受け手の間で、このような合意があった「美的な10年間」ではなかったか。そして見方を変えれば、この時期のクルマ──いや自動車は、まだまだ、見て楽しむもの。さらにいうなら、見て憧れるためのものであり、クルマを“使い倒す”などというのは、庶民にとってはまったく想像の外にあった。
そんな“憧憬の時代”に咲いた最も美しいリヤビューといえば、やはり、イタリアに生まれて日本に降臨した、この貴婦人をおいてほかにない。また、ジゥジアーロというデザイナーの作品史から見ても、このクルマの優美さと「艶っぽさ」は群を抜いていると思う。そう、あの「いすゞ117クーペ」である。
当時のフローリアン・セダン(コードネーム117)のカスタム・クーペという出自だったこのモデルは、その生産においても、手作りの部分をいくつか残していた。そのひとつが、ルーフからリヤ・クォーターに連なる、柔らかい光を持つアルミ製の長いガーニッシュである。そのパーツは生産現場では「長刀」(なぎなた)と呼ばれ、きちんと「合わせる」のが大変な大型部品として、文字通りに手のかかる難物であった。このクーペが生産ラインに一台加わると、生産の“流れ”の速度が恐ろしく遅くなった……とは、いまに残る「117伝説」のひとつである。
ただ、このクルマは、当時の言葉でいう「外車」(輸入車)並み、あるいはそれ以上に高価であった。そんな117クーペに対し、その四分の一程度の価格で、しかし造形の切れ味では決してヒケを取らないという和製のクーペがあった。それが初代サニーのクーペである。このクルマの背中が見せたシャープさと軽快さ、そしてその「潔さ」に匹敵するデザインというのは、その後もなかなか登場しなかったと思う。
(つづく)
( JA MAGAZINE 2010年 Jan vol.44 より加筆修整)
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2016/01/04 21:45:44