
レーシングカーの歴史の中ではほんの一瞬だが、しかし、鮮やかな記憶を残す「翼の時代」がある。時は、1960年代の後半だった。ボディとは別体の巨大なウイング(羽根)が、マシンのテールに高々とそびえた。クルマのスピードが上がり、ついに空気(エア)が「壁」として立ちふさがったのだ。その「壁」をどうすり抜けるか。また、それを「壁」とせず、利用する方策はあるのか。
その答えのひとつが「ウイング」であり、これは今日にまで続くエアロダイナミクスの登場と、そこでの闘いが始まった瞬間でもあった。独立した「羽根」が許されたのはは短い時間だけで、すぐに禁止された。しかしそれ以後、車体のどこかに「ウイング」を持たないレーシングカーは存在しなくなったし、車体そのものを“ウイング化”するところまで話は進んだ。
その短い「翼の時代」に、その先端性をすかさず採り入れ、そこに独自の新しいアイデアを盛り込み、日本レース史に輝けるリザルトを残したマシンがある。それが、ニッサン「R381」、1968年・日本グランプリの優勝車だ。
当時の「日本グランプリ」は年に一度だけの、極めてヒートアップした祭典だった。F1による今日の「鈴鹿日本GP」だって年に一度じゃないかと思われるかもしれないが、F1は各地で十数戦闘ったマシンとドライバーが、今度は目の前で走るという祭りだ。
だが、「日本グランプリ」はそうではなかった。たとえば、誰がどんなマシンで出場するのか。そのクルマはどれほどのチカラがありそうなのか。このへんのところから、もうニュースであり、未知や“神秘”がいっぱいあった。あらゆる意味で草創期であり、だからこそ人々は熱狂した。
現在の日本で、もし、これに似ているイベントを探すとすれば、二輪の「鈴鹿8耐」、それもその初期の状況がそれに当たるのではないだろうか。ワークスはどうする? ヨシムラは出るのか? スター・ライダーは何に乗る? このような事前情報も含んで祭りは盛り上がり、年に一度だけの本戦へと突入していく。
ただ、「鈴鹿8耐」と決定的に違うところは、「レース」という闘いそのものが当時はレアだったことだ。四輪のレースを、みんながあまり見たことがない。そういう状況下での、クルマ(四輪)関連の最大にして唯一のビッグ・ショー。それが「日本グランプリ」だった。
また、このイベントは、当時のメーカーの技術と意欲を世に問うという意味では、事実として“走るモーターショー”でもあった。程度の差こそあれ、各社はこのイベントのためだけのクルマを作って5月の富士スピードウェイに集まった。そのうち、最もアグレッシブなチームは、やはりニッサン・ワークスだった。
もうひとつ、当時のグランプリで人々を熱狂させた要素がある。それは、今日に至るも、なぜか日本人を熱くさせるファクターなのだが、先進の外国製マシンに日本製のハードウェアがどう挑むのかというテーマだった。
「日本グランプリ」は、その第三回(1966年)から富士スピードウェイにその闘いの場を移したが、それ以後のウイニングマシンは、1966年=プリンスR380、1967年=ポルシェ・カレラ6となっている。そういう経緯の後に、この「R381」の1968年がやって来たのだ。当時は、タキ・レーシングというリッチなプライベート・チームがあり、外国製のマシンによって、日本のワークス・チームと同等以上のバトルを演じて、グランプリを盛り上げていた。
さて、1968年の「日本グランプリ」である。レース結果だけを見るなら、それはニッサン・ワークスの完勝だった。3台の「R381」は予選で1/2/8位を占め、スタート後も一度も他社マシンに首位を譲ることなく、80周を走りきった。ポールポジションは高橋国光。ウイナーは北野元だった。
5・5リッターV8の「R381」にとって、3リッター・エンジンのトヨタは敵ではなく、そしてニッサンのビッグマシン戦略(R380は2リッター・エンジンだった)を知って、タキ・レーシングが用意したローラT70よりも「R381」は速かった。リザルトでの2位は、ポルシェ・カレラ10(2リッター)。これを一周遅れにしてのニッサンの勝利だった。
(つづく) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
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モータースポーツ | 日記
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2016/01/22 14:45:04