坂戸市立北坂戸幼稚園跡

埼玉県のちょうど真ん中あたり。埼玉県坂戸市の北坂戸団地に隣接した敷地にあった幼稚園。少子化の影響を蒙り入園希望者が激減した結果、2005(平成17)年を以て閉鎖。同じく北坂戸団地に近い末広幼稚園と統合されてしまった。
北坂戸幼稚園は1973(昭和48)年の開園。同年、当時の住宅・都市整備公団(現・都市再生機構/UR)が東武東上線の新駅(=後の北坂戸駅)を扇の要に据えて開発を進めた北坂戸団地が街開きを迎えており、北坂戸駅・北坂戸小学校等々、街の重要施設の開設とほぼ時を同じくしてスタートを切った公立幼稚園だった。
開園当初は1F(年少・5歳児)4教室・2F(年長・6歳児)4教室の合計8教室だったが、若年層中心の団地入居者からキャパシティを上回る入園希望が殺到したため、1F2Fそれぞれ1教室増築し合計10教室で周辺地域の保育要望に応えていた。
文部科学省令(当時は文部省令)「幼稚園設置基準」に拠れば、幼稚園1学級の人数は原則35名と定められているが、北坂戸幼稚園の最盛期には1クラス35名を超過し、10クラスで370名もの園児が通っていたという。
それが末期には100名を割り込み、教室の半分以上が余っている状態。行政としては同様な状態に追い込まれた幼稚園を統合し、運営を効率化したいと考えるのも無理からぬことである。
北坂戸幼稚園で増築工事が施工された頃、私と私の実弟が通っており我が家にとっては思い出深い場所である。
そして統廃合の末30年余りで歴史を閉じてしまったことを知り、一抹どころではない寂しさを覚えると同時に、未だに若いつもりでいる私の身の回りにも少子高齢化の影響が忍び寄っていることを痛感させられた。
団塊ジュニアに属する私たち兄弟は、運よく2人とも北坂戸幼稚園に通うことができたが、競争率の高いくじ引きの末に兄弟姉妹が泣き別れになってしまった家庭もあったように記憶している。
公立・私立を問わずどこの幼稚園でも、当時の父母は入園枠を確保するのに苦労させられた。
団塊ジュニアの受難は、その後も続く。
私が通った小学校は、街開き当初に開設された小学校では対処しきれなくなったため更に新設された学校。真新しい校舎へ最初の新入生となる栄誉を得たが、私の在学中にも生徒がさらに膨れ上がったため校舎を増築。教室の間近で鳴り響くパイルハンマーの、強烈な打撃音に妨害されながらの授業が続いた。
中学校は新設が間に合わず、私の弟は夏暑く冬寒いプレファブ校舎での生活を強いられた。
高校も大学も厳しい受験競争の連続。卒業してもバブル崩壊で就職口は少なく、運よく就職できたとて同期入社組が過剰だったり、組織のスリム化でポストが少なく出世の機会に恵まれなかったり………。
団塊ジュニア個々人のレヴェルでは、くじ引きや入試で人生を大きく左右され、あらゆる場面で「椅子取り競争」を強制されてきた。
社会的には、巨大な消費の担い手であるうちはまだいいが、私が通っていた幼稚園や小・中学校の新設などインフラ整備に莫大な公費支出を要請し、将来的には極めて重い年金・福祉負担の原因として煙たがられることが明白である。
思い返せば、同年齢帯の人数が膨大であるが故に曝されてきた競争や悪弊の原点は、この幼稚園だったのかもしれない。
しかし30年以上前の幼稚園児が、将来そんな状況に陥るなどと知る由もなく、とにかく毎日が楽しかったという記憶しか残っていない。
子ども心に入園申込みの大行列は鮮明に記憶しているが、入園後は友達も多く賑やかな幼稚園生活を愉しんでいたし、先生方のサポートは万全だった。
長じてからも、校舎の整備や学校運営で遅れや不備が見られたが、小・中・高とそれぞれの学び舎で思い出で深い先生方との出逢いがあった。
激しい競争の結果、喪ったものも少なくない。人数の多さゆえ、私たち一人一人への注力が希薄になってしまったこともあったろう。それでも当時の大人たちがそれぞれの立場で尽力してくれたからこそ、今日の私があるのだと思う。
団塊ジュニアを育んでくれた団塊世代、当時の行政担当者、幼稚園の先生方、そして既に中年に至ったOBを迎えてくれたこの園舎に、大きな感謝を捧げたい。
住所: 埼玉県坂戸市伊豆の山町12 旧坂戸市立北坂戸幼稚園
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