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2012年01月15日 イイね!

二七日の法要でして

本日は娘の二七日の法要でした。

娘が亡くなってからは、まだ12日しか経っていないのに、
何か時間だけが超特急で過ぎていくような感じです。


病院で亡くなって自宅に帰り、数時間も経たないうちに、
自宅で枕経が始まった時は、正直、何故、今まで生きてたのに?
もうそういう話!?とそう思いました・・・。

12月はほとんど病院で生きる事に家族必死だったので、
呼吸が止まってからは、何故もう南無阿弥陀仏と手を合わせる??
(何のためにとか私は和尚さんではないので、
詳しく説明は出来ませんが・・・。)

お通夜、葬儀、そして初七日、二七日・・・、

亡くなって、娘は当然いなくなり、
だからと言って、それを忘れての生活なんて到底出来ない。
今はこの世にいないけれど、確かに生きていた私の娘、
まだ心の中はにはぽっかりと大きな穴が開いた状態。
見た目は気丈に出来ていても、
じゃぁ、また今日から頑張ろうと、
気持ちの切り替えがすーっと出来るはずも無く


家に居ると、まだ娘は九大病院で
治療を頑張っているんじゃないかと
そういう感じがまだ残ります・・・。


発病してから亡くなるまで3年7ヶ月でした。
約4年、私達は娘の病気と闘っていたと思うと
この現実を受け入れるのは少々時間が掛かりそうです・・・。






せっかくなので娘のイラストを紹介しますね。

病院で描いたイラストです。
なかなか、正面から動物を描くってのも難しいんですけどね。
ちゃんと後ろ足を描けている所がいいですね。
Posted at 2012/01/15 20:51:02 | コメント(2) | トラックバック(0) | 子供病院 | 日記
2012年01月12日 イイね!

小児がん闘病記 後記 (その3)

治療とは・・・、
今回の娘の病気で、治療の難しさを考えさせられました。

どこに行っても、同じ結果だったのか?

答えは、たぶんNO!!

私達が選んだ病院は、九州でも最大級の九州大学病院。
間違いは無いだろう、設備はどこよりも整っているはず、
症例数も多いだろうと、そう思ってその病院を選びました。
それに、娘の病気(神経芽細胞腫)を多く診ていると言う事もありました。


初発時は、11ヶ月の入院。
左副腎(腎臓の上の臓器)を原発とする神経芽細胞腫。
リンパ節と鎖骨に転移ありのステージ4、5年の生存率は40%、
化学療法(抗がん剤)、放射線、手術、
しかし治療が奏功し、寛解、本退院になりました。

それで、すべて終わったと思っていました・・・。

しかし、初発時に言われていました、再発したら治った例は無いです・・・と。


まさかの1年半後の再発・・・、


再発って初発と何が違うの?
再発なら何故治らないの?
初発と同じ治療法では駄目なの?

疑問ですよね・・・、


こう言われました。

初発時の抗がん剤に耐えた残った細胞が増えていきます。
抗がん剤の届きにくい場所(血液の届きにくい)に出てきます。
(一度強い治療をしているので)初発時のように体が持ちません・・・と。


1.何もしない

2.維持緩和(延命)療法

3.治癒を目指し、これまでのような強い治療


この中から選択してください、と言われました。
私達は、迷わず3を選びましたが、
1~2回の抗がん剤を試してあまり効いていなかったんでしょうか、
次第に2の維持緩和療法になっていきました・・・。

病院には治療方針ていうのがあるのかもしれません。
私達が選んだ病院は、全国、世界的に再発して治った例が無い、
故に、再発した時は少しでも元気な状態を長く維持していきたいと言われました。
結果、弱い治療を小刻みにというか、
家にも帰れるし、再発しても1年近くそれなりに元気な状態が続きました。
昨年の11月、12月の最後の2ヶ月間は痛みとの闘いでしたが、
それまでは、治療の合間は遊園地にも行けるくらい比較的元気。


セカンドオピニオン、
金沢、大阪、名古屋と行ってきました。
もしかしたら、他に転院したら治るんじゃないかと、
新しい治療法など試みている病院にセカンドオピニオンで行きました。

結果、どこに行っても厳しい、
今の病院での治療に納得はしたのですが、

治らない病気・・・、
同じ治療、同じ方法をやっては何も変わらないでしょう?
何とかするのが私達の役目、
そういう病院もありました。


治療方針というんでしょうかね、
おそらく治らないと分かっているのを、
実験(臨床)、ハイリスク、多分それでも治りません、
でもやってみましょう可能性があるのなら・・・、そういう病院もあるという事。


結果論でしか判断できませんが、
もし、そういう強引な治療をしている所に行っていたとしたら・・・、
可能性は極低だけど、治る可能性もある・・・、
(ただ、それでも治っていない現実。)
ハイリスクを負っての治療・・・、
もしかしたら、早い段階で病室から一歩も出る事も出来ない強い辛い治療だったかもしれません。
もしかしたら、強い治療でもっと早くに寿命が来ていたかもしれません。
もしかしたら、少し効いて今より寿命は長かったかも、
もしかしたら、もしかしたら治っていたかも・・・。


どっちが良かった?

もう、娘はいないし、過去には戻れないので答えは出ません。
絶対に治らないと分かっているのならば、
ぎりぎりまで元気だった九大病院の治療は、あっぱれだったのかもしれません。


ただ、初発の治療時、
自分の幹細胞(血液の元の細胞)が採れなかったため、
最後の仕上げの治療の大量化学療法と移植ができませんでした。
娘のステージ4という転移があった場合、
大量化学療法と移植は”標準治療”となっていました。
なので、娘は標準治療以下で終わっていた事になるんですよね・・・。
これをやったからと言って治癒率が劇的に上がる訳ではなく、
30%→40%になるくらいと言われました。
自分ではなく他人の血の移植の場合、拒絶反応や定着に時間が掛かる事から
それによって命を落とす可能性が10人に1~2人と言われ、断念。

それに、その後の生殖機能(子供が出来なくなる)や成長に影響が出ると言う事で、
大量化学療法と移植なしに寛解、本退院となったのは、
その時は嬉しかったのですが・・・。


本当に、自分達の選択肢が間違っていなかったのか、
悪い結果になったので、少なからず後悔は残ると思います。

今回の、娘の病気、答えの出せない本当に難しい事だらけでした・・・。
Posted at 2012/01/12 21:10:54 | コメント(6) | トラックバック(0) | 子供病院 | 日記
2012年01月09日 イイね!

小児がん闘病記 後記 (その2)

早いものですね、今日は1/9、
娘が亡くなったのは、1/3だったので、その間の忙しさ・・・。
ぼーっとしている訳にはいかず、
お通夜、葬儀、初七日・・・と、
自分達だけでは到底出来ていませんでしたね・・・。

初七日まで済んで、早く普通の生活に戻さねば・・・、
とは思っているのですが・・・。

今は思い出写真を見る事で娘を側に感じています。

2009年10月の頃(幼稚園年長さん)
初発の11ヶ月の入院から本退院し、髪が伸び始めた頃です。
今までの分を取り返そうと、本当にイキイキとして可愛かったです・・・。
私のお気に入りの一枚です。


遺骨(箱に入って風呂敷で包まれていますが)、
下の子供達に、ネェネェ(姉ちゃん)はここにちゃんといるんだよ
という意味も込めて、寝る時、ご飯を食べる時、
側に置いています。
姿、形は変わっても、私の娘は間違いなく、この箱の中にいます・・・。


最後の1、2ヶ月は痛み止めや腫瘍のせいで
会話がほとんど出来なかったので、
でも、娘の訴える苦しみ、恐怖を直接聞くのも辛いですが、
家族みんなで何か楽しい会話がしたかったなぁ~と思います。
それでも、12月半ばからは病室を家のように
家族みんなで、娘を囲んで暮らしましたので
耳ではちゃんと周りの音や会話が聞こえていたと思います。
それに何より娘に安心感を与えていたと思います。
しかし、動かそうとしても動かない体、娘は歯がゆかったと思います・・・。

もし、願い事が一つでも叶うなら、
最後一日だけでいいから、
点滴も何も付けずに遊園地で自由に遊ばせてやりたい

そう思いました。

最後に娘が笑ったのは、
比較的調子がよく目が見えてた頃、
ノートパソコンで見せた中居君の「昭和時代」でした・・・(^^;)
有難う中居君。
娘は少女時代の音楽が気に入り、
移動の車の中や病室でCDをよく聞いていましたので・・・。


また、一つ娘のイラストを紹介します。

ペガサスです。

動物好きの娘は、特に馬も好きで、描いていました。
馬って簡単そうで足とか結構難しいんですよね。
羽が上手で立派に見えます。



今は、ペガサスに乗って空を飛んでいるかもしれませんね。
Posted at 2012/01/09 21:10:34 | コメント(1) | トラックバック(0) | 子供病院 | 日記
2012年01月08日 イイね!

小児がん闘病記 後記 (その1)

本日は、娘の初七日となりました。

正直、亡くなった後の事はまったく考えてなかったので
準備かれこれ、親、兄弟、親戚にお世話になりっぱなしです。

また、『みんカラ』の方でたくさんの方にコメント頂き嬉しく思います。
(返事が遅くなりそうなので申し訳ありません)

ちょっと、落ち着くまでは、『闘病記 後記』と言う事で
病気の事、考えさせられた事などぼちぼち書いていこうかなと思います。
書く意味と言うか、一つはその時の生の気持ちを忘れないために。
そして、子供を持つ親の方に何か伝えられればいいなと・・・。
正直、私もこの気持ちをいつまでも忘れたくないと思っています。

娘の小児がんの闘病中、
いろんな事を考えさせられました。


小児がん闘病と言うと、
テレビの中だけの世界と思っていました。

しかし、それが自分の子に・・・、
私達は非日常、テレビの中だけの世界に
何の前触れも無く、何の知識も無く、
いきなりという形で入って行く事になりました。

ステージ4(1~4まで 4が最も悪い)、
5年の生存率は40%の意味する所、
再発の二文字。

不安、悲しみ、恐怖・・・。

夢ならば覚めて欲しいと思ったのは、初発の時、

時間が止まって欲しいと思ったのは、再発の時、


こういう結果になってしまったのは辛い、悔しいに尽きますが、
神経芽細胞腫は1万人に一人の病気・・・、その親も1万人に1組・・・、
私達は、貴重な経験が出来たとも思っています。

『病気の子供は、生まれる前に自分をちゃんと看病してくれる
親を選んで生まれて来るんだよ。』

こういう、話を聞いた事があります。
慰め的な意味合いにとれなくもないですが、
もし、そうだとすると娘は私達を選んで生まれてくれた?、
ちゃんと、娘に有難うと言われるくらいの看病が出来たのかなと・・・。


気付けば、

一つ空いた食卓のテーブルの空間・・・、

家族5人で寝ていた寝室の布団の一つ空いた空間・・・、

子供部屋の娘の机・・・、

ぎゅうぎゅうで5人乗ってたフォレスター座席・・・、


寂しいですね。



ここで、娘のイラストを紹介したいと思います。
昨年の11月14日です。

痛み止めのフェンタニルが入って常に眠気ばかり・・・、
座るのがキツイながらも、その時だけは座っておもむろに何か描きだしました。





『親鳥がひな鳥に餌を与えている』絵でした。
娘は絵が好きで入院中はよくお絵描きをしていましたが、
まさか、何も見ないで、すらすらとこんな絵が描けるとは驚きました・・・。


おそらく、娘が最後に描いた”絵”です。
後からは、座る事が困難で食事なども寝ながらの姿勢となってしまいました。
Posted at 2012/01/08 11:11:41 | コメント(10) | トラックバック(0) | 子供病院 | 日記
2012年01月07日 イイね!

命終わる時・・・、

順番が逆になってしまいましたが、
通夜、葬儀(お別れ会)が忙しく、

娘の死の余韻に浸る暇も無く、
バタバタと次の準備・・・、

しっかりと娘を送ってやらねばという気持ちと
まだその現実を受け入れられない気持ちと半分半分で

それに、最後はかなりの間、睡眠不足の看病、どっと疲れが・・・。

みんカラの方でもたくさんの方に応援されてきましたが、
娘の最後の事も書いてみようかと思います。



1月3日の朝の7時10分に亡くなりましたが、
前夜
1月2日の23時くらいに呼吸に変化があり、血中酸素飽和度の計器の数値が
微妙に上がらなくなりました。
いつもは100(正常)なのに95前後・・・、酸素量を上げてもなかなか思うように上がらず、
呼吸がずいぶん浅くなって来ているのが分かりました・・・。
看護士さんが先生に連絡を入れましたからと・・・、
夜中に一度、血液検査が入りました、

それに、最近、おしっこが、1000ml/1日くらいは出ていたのに、
日を追うごとに、800、600、500、300、100、100と・・・、
利尿剤の効果も無く、悪くなってきているのは明らかでした。


そして、しばらくしてから主治医の先生が来られ、

数時間分かりません・・・。

先生からこの言葉を聞いたとき、
私は、いよいよ来てしまったのかと腹をくくりました。
でも、その時が、耐え切れるのか正直不安でした・・・。

頑張れと娘を励ましている間にも、
壁から繋いでいる酸素も気付いてみれば3→7→MAX
もう娘の口からは、
激しい

シューーーーーーーーーっと

隙間からかなりの酸素が漏れているほどの量でした。
それでも、90前後に安定させるのがやっと・・・。
看護士さんも酸素の管を新品に換えたり、
血中酸素飽和度の計器の電池を新品に換えてみたり、
必死に安定させようとしてくれる姿が有難く思えました。
それでも少しずつ少しずつ数値が下がっていきました。




朝も近い頃、先生達が来て、どうぞお父さん、お母さん、
好きな体勢で抱っこしてやってください
と言われました。

考えてみれば、12月になってずっと寝たきりになって、
それは、全身の骨に転移がありちょっと動かすと痛いと言っていたので、
それで抱っこも何も出来ない状態で、娘を抱えるというのは久々でした。
(添い寝は何とか出来てたけど)


娘は意識も何もありませんが、私は、ベットに足を伸ばして座り、
その足を広げた間に娘を座らせました。
よく、病室のベットでそうして柵に寄りかかって、テレビや宮崎アニメを見ていましたので、
それを思い出しました。

しばらくすると、看護士さんが笑顔で、
酸素、100になってますよ!!
体勢が変わってよかったのか、久々の私と抱っこに安心したのか、
本当に嬉しく思いました。

嫁と交代し、嫁は座りながら赤ちゃんを両手で抱くようにしていました。
本当に安心したんでしょうね、
娘はママに抱っこされたまま、
娘は静かに、静かに、ゆっくりと、ゆっくりと呼吸が止まっていきました・・・。

私は、側に座り、娘の手を握り、ほっぺを撫で、頭を撫で、体をさすり・・・、
そして、娘の最後の呼吸の止まる瞬間を見ていました・・・・。



抱っこされるのを待っていたのかもしれませんね。
抱っこで安心したのかもしれませんね。



私達は泣き崩れました。
最後は、本当に本当に辛い時間でした・・・・。



寝ないでの看病・・・、そして部屋を片付け、
娘はお気に入りの洋服に着替え、化粧をしてもらいました。
最後、ストレッチャーで職員専用のエレベータで下まで降り、
お世話になった先生、看護士さん
玄関で見送られ、
娘はママが後部座席で抱っこして帰りました。
午前中のうちに私達は、家に帰れました。



お帰り、

やっと、家に帰れたね。

もう、病院には行かなくていいんだよ。

もう、怖い治療も無いからね!!

本退院したんだよ!!

もう自由なんだよ!!




長かった、小児がんの闘病生活、本当に頑張ったね。
そして、パパとママの子供で有難うね。

2011年9月の頃




追記、
たくさんの「イイね」有難うございます。
たくさんの方に娘の頑張りを認めてもらっているようで嬉しく思います。
たくさんの人に少しでもこの気持ちが伝えられたらなと。
Posted at 2012/01/07 01:27:52 | コメント(104) | トラックバック(0) | 子供病院 | 日記

プロフィール

2012年1月に8歳の愛娘を小児がん (神経芽細胞腫)で亡くし、 悲しみの底から復活中です。 2013年11月 3人目(実質4人目)の 子供が産まれ...
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